挟まったから
「失礼」
「ン?」
霧のような雨が、裏路地を埋め尽くして、細かな雨粒が全身にまとわりつくような夜だった。俺が電信柱に身を預け横になっていると、通行量の多い表街道から、一人の男がこちらに歩いてくるのが見えた。紺の傘で夜雨をしのぐその男は、ふいと上げた傘布の向こうから、黒縁の眼鏡を光らせてこちらを覗き込んだ。
「此処に、花瓶を持った若い男が来なかったかい?」
細い目の、スーツ姿の男は穏やかな口調で俺にそう尋ねて来た。俺は隣で大きな茶色い花瓶を抱えて蹲る男に視線をやった。
「コイツ?」
「ああ……時田くん」
男はホッとしたように表情を和らげた。俺は折れたビニールの傘をくるくると回し、ダンゴムシみたいに地面で丸くなる男を見てため息をついた。
「コイツ、さっきからずっとこんな感じなんです」
「ぁ……ぅ……」
リクルートスーツ姿の時田が呻き声を漏らした。何だか会うたびに衰弱していっている気がする。虚ろな目で必死に花瓶にしがみつき、小刻みに肩を震わせるその姿は、最早呆れを通り越して憐れみを感じさせるものだった。眼鏡の男が困った顔で彼の元にかがみ込んだ。
「時田くん。時田くん、大丈夫かい?」
「……………」
「貴方は?」
時田は黙ったままだった。俺は男に尋ねた。
「私は上条……彼の上司だよ」
そう言って彼は一枚の名刺を俺に差し出した。
なんとか商事の、上条何某。
かっこいい名字だなと思った。上条さんが頭を掻いた。
「申し訳ない。彼がちょっと会社でミスをして……取り乱してしまってね」
「何となく想像つきます」
俺は彼の上司を名乗る上条さんに頷いてみせた。出会ってから、この男が仕事でやらかしてない日がなかった。
「時田くん、精神的に参ってるみたいでね。最近悪霊に襲われてる、なんてことも口走ってたし……」
「へええ……悪霊。怖いですね」
「だろう?」
俺は目をそらした。俺は悪霊ではないので、きっと別の場所で、別の幽霊に襲われているのだろう。物騒な世の中だ。上条さんは霧雨に濡れるのも構わず、紺の傘を地面に置き、時田を背中に担ぎ始めた。
「持ちますよ」
「ありがとう。君は?」
「俺は……悠希です。悠希梢枝」
俺は傘と花瓶を拾い上げ、二人が中に入るように頭上に掲げると、自己紹介をした。
「大体いつもこの付近で屯ってて……。それで、よくこの男と会うんです」
「悠希さんね。今日はありがとう」
長身の男はそう言って丁寧に頭を下げた。頭の上で紺の傘布に夜露が落ちて来て、パツンパツンと小気味好い音を立てた。薄暗い路地裏を歩きながら、男は時田を背中に担ぎポツリポツリと語り始めた。
「彼……時田くんはまだ仕事に慣れていなくてね。僕は彼と同じ部署で……」
「…………」
「取引先のところに商談に行った時にね……。緊張していたのか、先方の前でエレベーターに挟まって……」
「うわあ……」
俺はその時の彼の姿を想像して、悲しくなった。
「新人の彼が、他の先輩方と同じ仕事ができるはずもないのに、どうやら”自分には仕事ができない”と気ばかり焦ってるようなんだ」
「何となく想像つきます」
「こっちには引っ越して来たばかりだって言ってたし……終いには悪霊が見えるなんて言い出す始末……」
「…………」
上条さんが疲れた顔をしてため息を漏らした。俺は目をそらし、手持ち無沙汰に傘をくるくると回した。やがて路地の突き当たりまでやって来ると、街角のネオンサインの明かりが俺たちを照らし、景色が明るく開けた。上条さんが振り返った。
「ありがとう。もう大丈夫だから。また時田くんを見かけたら、そこの名刺の番号に連絡してくれないか。ちょっと精神的に危ない状態かもしれないからね」
「……わかりました。任せてください。もし悪霊が出たら、俺が退治してやりますよ」
俺は彼に傘を差し出して笑った。上条さんが微笑んだ。
「ありがとう。君は優しいね」
「え?」
俺がキョトンとしていると、上条さんが俺の差し出した腕を指差した。
霧雨は俺の幽体を通り抜けて、そのまま地面に落ちて行った。
「君は、幽霊か何かかい?」
「!」
上条さんが傘を受け取りながら、ところどころ透けている俺の体を物珍しそうに眺めた。
「さっき……自分は濡れる心配もないのに、時田くんのためにわざわざ隣で傘を差してたんだろう?」
「ンな……!?」
急に菩薩のような優しい瞳で見透かされ、俺は頰を藤色にして慌てて手を引っ込めた。
「んなわけないでしょ!? あれはたまたま……!」
「ははは」
「いや笑ってないで……!」
「悠希さん。じゃ、またね」
上条さんは俺の話を待たずに、七色の光が踊るネオンサインの下へと歩を進めた。
「それと……」
「?」
「彼を怖がらせるのもほどほどに……ね」
「いやだから……! 俺は悪霊じゃないですってば!」
上条さんはさっさとタクシーに乗り込み、夜の街の中へと消えて行った。何だかひどい勘違いをされている気がする。しばらく路上の片隅に立ち尽くし、通り過ぎていく車の群れをぼんやりと眺めた。上条さん……どうやら、かっこいいのは名字だけではないようだ。




