嫌われたから
「ああああ……うおおおうううう……!」
「いつまで泣いてんだよ……」
時刻は午前四時をとっくに通り過ぎ、六時になろうとしていた。東の空から朝日が昇り、夜の色に光り輝いていた街を徐々に明るく塗り替えていく。少し肌寒い路地裏にも、暖かな日差しが影を追い払うように差し込んで来ていた。思いっきり伸びをしたくなるような、爽やかな朝だ。それなのに……。
「風邪引くぞー」
「おおう……おおおんおおううう……!」
裏路地に横たわる男は、もうかれこれ二時間近く泣き続けていた。電信柱の周りは、男の汗と涙でびしょ濡れになっている。時田健三、例のサラリーマンだ。もう大分慣れっこになっていたが、大の男が道端でここまで泣けるものなのかと、俺は改めて引いた。路地裏にやって来た野良犬が、弁当の残りを咥えて、不思議そうな目でこちらを見ながら通り過ぎて行った。俺はため息を漏らし、路上でかつお節みたいに体をくねらせる男の肩を揺さぶった。
「ほら、起きろって。もう会社始まる時間だろ」
「うううあああ……あああううあああ………!!」
先ほどから、男はずっとこの調子だった。いくら幽霊とは言え、流石に自分の寝床で号泣され続けていては安らかに眠ることさえできない。
「どうしたんだよ。今度は何やらかした? 上司の腕でも捥いだか?」
「あああ……おおううう……!」
大体この男は毎晩、幽霊よりも陰気な顔をしてこの路地裏にやって来て、あれがダメだったこれがダメだったと喚き散らしながら帰っていく。だけど、ここまで長いこと落ち込みっぱなしなのは初めてだ。流石に俺も心配になって来た。時田が地面に頭をつけたまま、うなされるように独り言を呟き始めた。
「もうだめだあ……!!」
「毎回ダメじゃねえか」
「職場のみんなに、嫌われてしまった……!」
「それは聞いた」
俺の声は聞こえないと分かりつつ、彼の言葉に適当に相槌を打った。泣いてばかりじゃなく、まともな日本語を喋るようになった分、大分回復して来たのだろう。
「どうしよう、上司にも嫌われてしまったああ……!」
「それも聞いた」
「僕がミス続きで仕事遅いから……! みんなに嫌われ……!」
「お前、自分がどう思われてるかばっかりだなー」
「もう会社に行きたくない……みんなの目が怖いよ! 冷たい! 冷たいよ!」
「お前はどう思ってるんだよ?」
「挙句謝ろうとして土下座する時に……危うく上司の腕を捥ぎかけるし……!」
「いや本当に捥ぐとこだったんかい」
時田がまた地面に顔を埋め、呻き声を上げ始めた。
このままでは、埒が明かない。仕方なく、俺はスマホを取り出し近くの病院のナースさんに連絡を取った。ナースさんとはこの「毎日絶望男」のおかげで知り合いになり、今では週一で飲みに連れてってもらう仲だ。もちろん俺は幽霊とは言え未成年、永遠の十七歳なので、飲み物はもっぱらオレンジジュースとかそこらへんだったが。
「お待たせー」
しばらくして、路地裏に一台の車が止まり、運転席からナースさんがひらひらと手を振った。ナースさんは夜勤明けで、すぐに来てくれた。泣きじゃくる男を赤子のようにあやしながら、俺達は彼を担ぎ後ろのシートに押し込んだ。
「ほら、もう泣くなよ。上司の腕、捥いでないならまたチャンスはあるって」
「おおおう……ああおおううう……!」
「チャンスがなくなったら、その時捥いでやればいいさ」
「そしたらウチの病院に来なさいよ。すぐだったらくっつくかも」
「だってよ」
「おおおおううう……!」
病院に向かって車を急発進させ、ナースさんが苦笑いを浮かべた。俺は助手席でシートベルトを締めながら頭を下げた。
「スンマセン。わざわざ仕事帰りなのに」
「いいのよ。梢枝ちゃんも毎回大変ねえ」
「もう慣れました」
俺はバックミラー越しに、後ろの席にいる男を覗き込んだ。あれほど呻き散らしていたのに、今ではすっかり黙り込んでいる。恐らく虚ろなその目には何も写しておらず、誰の声も耳には届いていないのだろう。体力的且つ精神的に衰弱しきった男は、シートの上で体を縮こまらせ丸まって、外界からの刺激を全てシャットダウンしていた。俺は田舎のばあちゃん家にあった漬物石を思い出した。ナースさんがため息を零した。
「サラリーマンって大変そうねえ……営業とか、人付き合いとか」
「そっスね……。お姉さんは、何でナースに?」
ふと気になって、俺は隣でハンドルを握るナースさんに尋ねた。ナースさんはちょっと眠たそうに笑みを零した。
「そうねえ……。私も貴女くらいの若い頃は、責任のある仕事に就きたいって……。誰かを助けたいとか、人のためになりたいって思ってたけど」
「…………」
「やっぱり人の命がかかってる仕事だとねえ……。現実問題、全員を助けられるわけじゃないし」
「…………」
口調の軽さとは裏腹に、言葉の意味の重さに俺は黙って前を見つめた。彼女は後ろの席を振り返った。
「だから彼も……助けられるんだったら、助けときたいかなあって、そんな感じ?」
「…………」
「そういう梢枝ちゃんは、何で幽霊に?」
「や、別になりたくてなったわけじゃ……仕事ってわけでもないし」
お姉さんが運転席から身を乗り出して来た。今度は俺が苦笑いを浮かべる番だった。
「幽霊なら、もっと怖い格好しなきゃダメなんじゃない?」
ナースさんが俺の普段着をまじまじと見つめながらそう言った。黒のホットパンツに淡い緑のキャミソール。決してオシャレではないが、おどろおどろしい姿でもなかった。
「そスかね……?」
「そうよぉ。そんな格好の幽霊、見たことないもん」
お姉さんが頷いた。確かに、金髪のガングロギャルが路地裏から「チョリース⭐︎」なんて言いながら飛び出して来ても……それは別の意味で怖いは怖いだろうが……幽霊としての怖さではないのかもしれない。成り行き上そうなってしまったとは言え、もっと幽霊っぽい怖さを追求するべきかもしれないな、とその時俺は初めてそう思った。
「誰かいないの? 幽霊の先輩で、服装とか髪型とか、参考にしたい人」
「幽霊の先輩……」
俺は首をひねった。幽霊の先輩ではないが、すぐに田舎の梢枝姉さんが思い浮かんだ。
「帰りに、駅ビル寄って行きましょ」
車がカーブに差し掛かり、後ろの席で幽霊みたいな男の呻き声が上がった。お姉さんがノリノリでアクセルを踏み込んだ。




