フラれたから
それは俺が、まだ姉さんの田舎に戻る前のことだった。
十六年間馴染んできた都会の街の片隅で、俺はその男と出会った。
ネオンサインが光る表通りから遠く離れた裏路地を、二十代くらいのその男はふらふらと歩いていた。そいつは今にも倒れそうな千鳥足で、頬のこけた顔に虚ろな目を浮かべて、電信柱の影に座り込む俺に気づいていないようだった。真っ暗な闇の中に溶け込むように、俺は野球帽を深く被り直し身を隠した。
「あっ」
すると、黙って目の前を通り過ぎようとしていた男が、突然目の前でぶっ倒れた。俺は思わず持っていたスマホから顔を上げた。コンクリートに頭から突っ込んだそいつは、何が楽しいのか地べたに這いつくばってピクピクと蠢いていた。仕事帰りだろうか。髪はボサボサ、シャツは乱れ、ネクタイは解けかかったままだらしなく首からぶら下がっている。焦点の合ってない血走った赤い目に、半開きの口からは涎が垂れ流れている。幽霊の俺が言うのもなんだが、明らかにヤバイ奴だった。
「おい、大丈夫か?」
「…………」
「おい……」
「…………」
「おーい。俺の声聞こえてる?」
「…………」
もしかしたら、こいつに俺の声は聞こえてないのかもしれない。この間自分が幽霊だと知ったばかりの俺は、まだまだ未熟で姿を隠す術を知らなかった。幽霊とはいえ、何なら物だって触れるし、少しでも霊感のある人間には丸見えなのだ。だけど、今にも死にかけのこの男に果たして霊感があるのかどうか分からなかった。
「ったく……しょうがねえなあ……」
仕方なく俺はスマホを取り出し、救急車を呼んだ。それから伸びている男をひっくり返し、全体重を乗っけて男の胸にエルボーアタッ……心臓マッサージを施した。
「ゲフッ……!」
「お?」
すると、男は白目を剥いて吐瀉した。ゲホゲホと荒い息を吐き出しながら、痩せ細った男はようやく意識を取り戻したようだった。
「気がついたか」
「はぁ、はぁ……ここは……」
若い男は全身にべっとりと纏わりつく汗を拭いながら、よろよろと上半身を起こし辺りを見渡した。
「おーい。見えてる?」
俺は念の為男の前で両手を振った。
「一体……?」
だが彼の目は俺の体を通り過ぎ、向こうの景色を見ているようだった。幽霊である俺の姿が見えてないってことは、彼に霊感はないようだ。彼は起き上がろうとして……もう一度路上にひっくり返った。ヒクヒクと四肢を震わせ星のない夜空を見上げる男を眺めて、俺は姉さんの田舎の蛙を思い出していた。
「はぁ……はぁ……もう嫌だ、もう……」
「?」
俺がインスタに上げようとスマホを構えていると、電信柱の淡い光に照らさせた男が、譫言のように呟きだした。
「死にたい……。死にたい、毎日毎日、夜中の四時まで残業で……」
備え付けカメラのフラッシュに、男の瞳に浮かぶ雫が反射してキラリと光った。俺はそれを四角い画面越しに眺めていた。画面に表示されていた時刻は、もう夜中の四時半過ぎだった。
「もう生きてたってしょうがないよ……好きな子には振られるし……親は入院しちゃうし……」
「オイオイ、大変だな」
俺は聞こえないと分かりつつ、悲痛な表情を浮かべる男の独り言に返事をした。男はなおも熱にうなされるように、一人誰にも届かない言葉を繰り返した。
「何で僕だけ……何で僕はずっとこうなんだ……」
「…………」
「子供の頃からずっといじめられてたし、友達はできないし……」
「…………」
「顔は悪い、性格は悪い、おまけに頭も体も何もかも悪い……」
「ネガティブすぎんだろ……」
「おかげで受験には失敗するし……引きこもる家さえ燃えちゃうし……」
「すごいな……」
「やっと見つけた仕事なのに、全然上手くいかないし……お金はないし……」
「まだあるのか……」
「僕には何もない……。生きてて良いって思えるものが何もない。もう嫌だ……死にたい! 死んでしまいたい! 毎日毎日、何のために生きてるんだよ、これじゃ幽霊の方がマシだよ!」
男は急にカッと目を見開き、俺を凝視した。スマホを近づけて顔をアップにして撮ろうと思っていた俺は、驚いて思わず体を跳ねさせた。
「バカヤローッ!」
「ゲフッ……!?」
やがて体勢を立て直した俺は、あらん限りの力を振り絞って男の鳩尾をぶん殴った。
霊感のない男は、俺の姿を目視することができず、突然の攻撃に目を白黒させた。
「俺なんてな……俺なんて、死にたくもないのに気がついたら幽霊になっちゃってたんだぞ!」
「!? ……!?」
俺は彼には届かない声で叫んだ。
何が起こったのか分からない男は、相変わらず仰天した顔で辺りを見渡していた。
「お前……お前まだ生きてるのに、そんなこと言うなよ! お前が失敗したって言う受験も就職も恋愛もな、失敗どころか、こっちは何もかもやる前に死んじゃったんだよ!」
「な……なんだ今のは……!? まさか……!?」
俺の声は目の前の男を素通りした。男は青白い顔をより一層青白くさせ、恐怖に顔を引きつらせた。
「幽霊……!? まさか、この後に及んで僕、悪霊に取り憑かれたってのか……!?」
「悪霊言うな!」
「そんな……最悪だ……ぎゃああああ!!」
俺は男の首根っこを掴んで激しく揺さぶった。
「オイ! 巫山戯んなよ! 女に振られただか仕事が上手くいかねえだか知らねえけどな、そんな事でこっち側に来たら承知しねえぞ」
「助けてえ! 殺されるぅ!!」
「さっきまで死にたいって言ってたじゃねえか」
俺は男を地べたに放り投げ、もう一度鳩尾を殴った。男は死にかけの蛙みたいな声を漏らした。自分の涙と汗でできた水たまりの中に半分顔を埋めながら、彼は啜り泣きはじめた。
「嫌だ……どうせなら可愛い女の子の幽霊に、”タコさんウインナー食べますか? はい、あーん”とか言われながら死にたかった……」
「何だその死に方」
俺は呆れた顔で男を見下ろしながら、野球帽を被り直し、革ジャンを整えた。遠くの方でサイレンが鳴った。もうすぐここに救急車がやってくるだろう。そうすれば、少なくとも今日この男が死ぬことはない。
「よかったな」
「ああっ……ポ、ポルターガイストッ!?」
俺はやせ細った男のポケットから財布を抜き取って、身分証明証を漁った。入っていた免許証には、冴えない表情の男の顔の横に、”時田健三”と名前が書かれてあった。
「返して……返してぇ! お願いします、悪霊さん……ッ!」
「わぁーったよ……ったく、騒ぐんじゃねえよ……」
「ああっ」
俺は財布をポーンと空中に放り投げた。時田と言う名前の男が、慌ててそれを大事そうにキャッチした。
それが、毎日四時四十四分頃になるとこの路地裏にやってきて、やたらと死にたがる男との、最初の出会いだった。




