ビニールハウスにて
「…………!」
燃えるような暑さで蒸せ返るビニールハウスの中から脱出して、俺は畑の近くの木陰に逃げ込んだ。朦朧とした頭で、憎たらしいほど青い空を仰ぎ見る。季節はまだ五月だと言うのに、まるで夏本番のような汗が全身から吹き出した。
「……っやってられるかあああ!!」
首に巻いたタオルを地面に叩きつけ、俺は作業着が汚れるのも御構い無しに地べたに寝っ転がった。どっちにしろ、朝からトマトの植え付け作業で全身泥まみれなんだから今更だ。
『人ってお腹が空いてる時と眠れない時は、イライラしてるもんなんだから……』
道端に置かれたラジオから、フルボリュームでDJの人生相談が公共の道路に響き渡る。時折畑の横をすれ違う人々もそれが当たり前のような顔をしていて、何ならちょっと立ち止まって番組に耳を傾けていく人もいるくらいだった。こんなこと、狭っ苦しく家が立ち並ぶウチの近所でやったら殺人事件に発展しかねないくらいの騒音トラブルになりかねない。何もかも、異質なことだらけだった。
……帰りたい。
田舎暮らし三日目にして、それが正直な気持ちだった。
ここにはゲーセンも、ボウリング場もない。カラオケも映画館も、ましてやオシャレな服屋やアクセサリーショップなんてある訳がない。その代わりスタンプラリーはある。カレンダーによると、大体三ヶ月に一回くらいはある。
スタンプラリーも、喋ったこともない近所のおっちゃんと、隣町のスーパーに軽トラで水やお菓子を買いに走ったり、テントの設営を手伝ったり、散々うら若い乙女の肉体を酷使させられた。そりゃ、帰りたくもなるというものだ。これで家にパソコンの一台もないんだから、必然的にいつも以上にスマホに齧り付くことになった。
「何、もうへこたれてんの?」
インスタにビニールハウスの風景をアップしていると、逆さまになった梢枝姉さんの顔がにゅっと青い空の下に現れた。俺は唇をすぼめた。
「だって……疲れたんだもん」
「こんな時だけ、か弱い女の子アピールしてくるんじゃないよ。腕っ節には自信あるって、昨日散々自慢してたじゃない」
「チッゲえ……だって、一々やること多すぎるんだよ。全然、こっちのが喧嘩よりよっぽど体力使うわ」
俺は起き上がると、広大すぎる大地を見渡して改めてため息をついた。一キロくらい離れた向こうの田んぼで、婆ちゃんがラジコンヘリを操縦して農薬を散布しているのが見える。昨日の夕食の席の婆ちゃん曰く、「病気は目に見えなくても、虫達は夏場が一番元気」らしい。姉さんが眉を動かした。
「……何あんた。喧嘩してたの?」
「別に……ウチの親から聞いてないの?」
「何にも聞いてないわよ」
「…………」
俺は思わず姉さんから目をそらした。しばらくラジオから流れるDJの人生相談が、俺と姉さんの間で場違いなほど明るく元気な声を響かせた。
停学を食らった理由。決して褒められるようなものではなかった。話は両親から伝わってるものだと思っていたけれど……。
俺が黙ったままでいると、姉さんは肩をすくめて俺に水筒を投げてよこした。
「!」
「まあ、アンタが何にも言わないなら、こっちも何も聞かないけど。私ちょっと用があるから、後よろしくね」
「えええええ!? ちょっと……!」
一体どう伝えたものかと思案していた矢先だったので、俺は拍子抜けして肩から落っこちそうになった。そう言うと姉さんはママチャリに跨り、俺を置いて颯爽と田んぼ道を駆け抜けて行った。
「ちょっと待って! 待っ……」
俺の静止も聞かず、姉さんはあっという間に米粒みたいな大きさになって次第に見えなくなった。俺は後に残された大量のトマトの苗を振り返って愕然となった。ラジオからはDJの曲紹介と共に、聞いたこともない異国の哀愁漂うカントリーミュージックが流れ始める。今世紀最大級のため息を漏らして、俺は時計をちらと覗き込んだ。もう夕方四時過ぎだ。朝からやっているのに、このままではいつ終わるかも分からなかった。
「あの人……。まさかサボりじゃねーだろうな……」
そういえば……。
この間も確か同じくらいの時間に、姉さんは俺の前から姿を消した。あれは、山の中にある神社か何かにお参りに行った時だったっけ……。
また、同じ場所に向かったのだろうか。一体どうして、何のために……。ふと俺の頭をかすめた疑問は、近くにやってきたラジコンヘリの爆音によっていつの間にか搔き消されていった。




