心ない音楽家
音楽の神に愛された者、といえば私だろう。
うぬぼれではない。
世界的音楽家の両親を持つ私は、幼い頃から音楽の才能に恵まれていた。
一度聴いた旋律は決して忘れず、初見の譜面でも難なく弾きこなし、十歳で世界的音楽コンク-ルのピアノ部門で最優秀賞を受賞。
まさに音楽家一家の誇る天才少女といったところか。
だが、そんな私の才能を両親は酷く疎むようになっていった。
それも当然だろう。
自分たちが四十年あまりの歳月をかけて成し遂げてきた音楽家としての成功と栄光を、わずか十歳の娘がやすやすと飛び越え、さらにその先へ行こうとしていたのだから。
「フランソワ、お前の演奏には音楽家として最も大切な心が全くこもっていない!お前の演奏はただ機械的に音楽を再生するだけのオルゴ-ルと同じだ!」
「あの子、いつも無表情で機械的に鍵盤を叩くの。なんだか気味が悪いわ。どんな曲を演奏しても、ニコリともしないで、まるで蓄音機がそこに置いてあるみたいで」
両親は私をそう批判したが、世間は私の才能を声高に叫んだ。
演奏会を開けば世界最高峰の実力を誇る天才少女の演奏を一度は聴いておきたいと大勢が殺到し、貴族や時には王族からも招かれ彼らの主催する夜会や茶会で演奏を披露することもあり、両親はそんな私の活躍にますます嫉妬したのか、娘は病弱ですので、と嘘をついてそれらの依頼を片っ端から断るようになったのだ。
哀れ私は病弱で外出に耐えられない娘、という貼られたレッテルを維持するためだけに屋敷に軟禁され、外出も許されず、この国の貴族の娘ならば誰もが通う学園への通学も許されぬまま、ピアノも取り上げられ、両親により厳しく選別された都合のよい使用人たちに囲まれ、無味乾燥で怠惰な毎日を送ることを余儀なくされてしまったのである。
"心のある演奏とは、どのようなものなのかしら?"
答えの出ない疑問を、幾度自問自答したことだろう。
両親が、お前などよりよほど心がこもっている、と形容した、私に演奏会で敗れた令嬢たちが演奏していたピアノは、ただ強く鍵盤を叩くだけのがさつな指使いであったり、うまく音を伸ばすことができずに、引き攣れたように音が震えるだけの拙い演奏であったりした。
だが両親は、そんな演奏に心がこもっていると言う。
わからない、どれだけ思考しても、彼女たちの演奏に、技術的に拙い、以外の感想を抱くことができなかったのである。
そんな私にはメグという、三歳年下の妹がいた。
メグは私と顔の造りはほとんど同じであったが、私が神に音楽の才能を与えられたがゆえに、それ以外のものを全て奪われた、と形容されるほどの寡黙で無表情な可愛げの欠片もない女に成長したのに対し、いつでも何に対しても一生懸命で愛らしく、花が綻ぶような笑顔を振り撒き、憎らしい姉に代わって両親の愛情を一身に浴びて何不自由なく蝶よ花よと育てられながらも、決して傲慢になることはなく、ワガママも言わず、控えめで、おっとりとした可憐な美少女へと成長したらしい。
らしい、というのは、両親がヒステリックなまでに私が妹に近づくことを嫌がったから。
メグは私のことをフランソワお姉さま!と慕い愛してくれたが、両親はメグに決してフランソワには近づくなと強く言い聞かせ、なぜ?とメグがしつこく食い下がると、時に手を上げてでも妹を黙らせたという。
それゆえメグは、私とは秘密の手紙で誰にも知られぬようこっそりとやり取りをするようになった。
メグによく懐いている鳩を伝書鳩として調教し、私が夜中に鉄格子のはめられた窓をこっそりと開けると、鳩が飛来して私たち姉妹の手紙を往復書簡として運んでくれるという寸法だ。
メグからの手紙にはよく、ピアノを弾くのが辛い、音楽などやめたい、といった旨が綴られていた。
どうやら両親は私を亡き者として扱い、その後釜にメグを据え、2代目天才少女としてその栄光をプロデュ-スすることで、かつて私にへし折られた音楽家としてのプライドを取り戻そうと躍起になっているようだ。
"わたくしの演奏が小娘らしい稚気の抜けない、拙いものであることはわたくし自身が誰より理解しておりますのに、皆さままるで糸の絡まった操り人形にでもなってしまったかのごとく、わたくしの演奏をさながら王立劇場で上演される傑作オペラでも鑑賞なさったかのように大袈裟すぎるほど大袈裟に過度な賛美を口ぐちにくださいますのよ!わたくしこんなやらせ丸出しの恥辱にはとても耐えられませんわ!"
私の両親は世界的音楽家である。
ゆえに、両親に追従する者たちも国内外問わず数多い。
両親が娘を売り出したいと言えば、それに群がり買収される者たちは音楽業界だけでも星の数ほどいるだろう。
可哀想なメグは、そんな両親の歪んだプライドの餌食にされてしまったに違いない。
"わたくし、まだ幼い頃、お姉さまと二人で一つのピアノを演奏させてもらっていた頃が一番幸せだったように思いますわ。どうか再びお姉さまと楽しくピアノを弾くことができますよう、心より祈ります。どうかご無事で。あなたのただ一人の妹、メグより"
メグからの手紙を折りたたみ、私はため息を吐くと、鍵のかけられた部屋の窓から鉄格子ごしに城下町の景色を一望した。
小高い高級住宅街に建てられた屋敷からは、炎上する王都が広く見下ろせる。
この国に魔物が侵攻してきたのは今朝早くのこと。
以前より、魔王に追従する知性ある魔物たちとの小規模な小競り合いを繰り返していた我が国へ、とうとう魔物の軍勢が侵攻してきたのだ。
幸いなことに、メグは両親と共に隣国へコンサ-トを開くために両親の経営する楽団一座を引き連れ旅立っているが、耳の早い両親のこと、魔物の軍勢が侵攻してくるという噂をいち早く聴きつけ、これ幸いにと私だけを置き去りにして自分たちだけが隣国へ疎開していても、おかしくもなんともなかった。
今になって思う。
私の演奏に心がないというのは、両親が傷つけられたプライドを守りたいがためだけに持ち出した詭弁であったのではないだろうかと。
演奏は、技術は、音楽は、形となって明白に人の心に届く。
だから、目には見えない、明白に評価点数をつけることのできない、心などという曖昧な要素を持ち出して、幼い天才娘を傷つけたかったのではあるまいか、それ以外に、否定できる欠点が見当たらなかったから。
私はメグが伝書鳩に手紙と共に持たせてくれた部屋の鍵を使い、軟禁されていた部屋を何年かぶりに抜け出した。
久しく出歩くことのなかった自宅の廊下は静まり返り、おそらくは我先にと逃げ出したであろう使用人たちが働いていた形跡、床に散らばった洗濯物や、キッチンから漂ってくる作りかけのス-プの匂いや、ドサクサに紛れて盗まれたであろう美術品が置かれていたであろう壁の染みなどを尻目に、メグの部屋を訪れる。
どうかご無事で、と私が無事魔物の軍勢から逃げおおせることを願い鍵を贈ってくれた妹には悪いが、今にもこの高級住宅街にまで攻め込んでくるであろう破竹の勢いで進軍する魔物たちから逃げ切ることは、不可能であるように思われた。
それゆえに、私は最後にピアノを弾いてみたくなったのだ。
心がないと言われた私の最期の演奏。
死の間際の命の輝きが、私の演奏にも心を与えてくれるのではないかと考えたのだ。
メグの部屋の、メグのピアノの上に置かれていた譜面。
曲名は、"近くて遠い、愛しのあなた"。
強いメッセ-ジ性と、両親への無言の反抗を感じてしまうのは、私の思い違いではないのだろう。
初見の譜面だが、もう何年もピアノに触れていなかった手だが、演奏に支障は全くなかった。
私を疎んだ両親、私を軽んじ嘲った使用人たち、そんな私を愛してくれたメグ、両親が私を一生この家に縛り付けておくためだけに用意した、顔も知らぬ名前だけの婚約者、私の演奏を喝采したかつての聴衆たち、私を殺しに来る、恐ろしい魔物たち。
いつしか私は何もかもを忘れ、無心で演奏に没頭していた。
両親のことも、魔物のことも、私の命さえもどうでもいい。
どうかメグには明るい未来を、優しいあの子が笑ってピアノを弾ける未来を。
演奏を終え、我に返る。
いつしか閉めたはずの扉が開き、そこには、鎧と兜を着込み、剣を握り締めた、二足歩行する灰毛の熊獣人が立っていた。
「なんのつもりだ、娘」
立ち上がり、優雅に一礼した私に呆気に取られたのだろう。
「演奏が終われば、演者は観客に一礼するものよ、押し込み強盗さん」
熊は侮辱されたと感じたのか、ずかずかと大股で歩み寄ってくると、手にした剣を私の首筋に突きつける。
その刃に付着した血が鉄臭くて、私は一歩後ずさった。
「残念だけれど、この家の人間はとっくに持つもの持って逃げてしまったわ」
「貴様を置き去りにして、か?戯言を」
「戯言なんかじゃないわ。だって私、不要品だもの」
そのまま一歩後ずさると、椅子に座り、再びピアノを弾き始める。
曲名は、"腐った果実"。
誰に食べてもらうこともなく、腐り落ちてしまった果実を夭折する若者たちになぞらえ嘆いた歌だが、同時に果物は人に食べてもらうことこそがその存在意義であるという傲慢な人間の考えを風刺した暗喩曲でもある。
「ああ、とてもいい気分だわ。なんだかとっても心が軽やか。きっと自由って、こういうことを言うのね」
長女だけを置き去りにして逃げ出すことが両親の自由ならば、死を目前にして、逃げ出さずにいることもまた自由なのだ。
自然と口元に、忘れかけていた何年かぶりの笑みを受かべる今の私の演奏には、さぞかし心がこもっていることだろう。
そんな私の演奏を目前にして、熊は何ともいえない面持ちをしている。
無理もあるまい、有力貴族の屋敷に押し入ったと思えば、そこにいたのは頭のおかしな小娘がひとり、己に怯えることもなく、狂ったようにピアノを引き続けているのだから。
背後で熊が腕を振り上げる気配がする。
一瞬の後に来るであろう死の瞬間を想って、私は瞼の裏のメグに、笑顔でさよならを告げた。
「弾け、娘」
「いいわよ、曲目は何になさる?」
あのメグの部屋での邂逅から一年。
熊は何故か私を殺すことなく、どうしてなのか生かしたまま魔物領に連れ帰ることを選んだ。
身代金目的に人質としてさらった、と熊は他の魔物たちに説明したが、それが方便であることは、誰より私が知っている。
「なんでもいい、任せる」
「なんでもいいというのが一番困るわ。そうね、それじゃあ、"ハチミツとパンケ-キ"にしましょう」
魔物領というのは荒廃した暗黒大陸に恐ろしい魔物がうようよしているものとばかり想像していた私にとって、人間の国とほとんど大差のない魔物...こちらでは亜人というらしい...亜人王国の活気ぶりは何もかもが目新しく、魔王軍で将軍の地位に就いているこの熊の家は、私が住んでいた屋敷よりもさらに大きく広い豪奢なもので、私は彼の命令により、この屋敷に軟禁されてしまっている。
軟禁といっても、門さえ越えなければ、広い屋敷の中を自由に歩き回れる分、よほど実家にいた頃より恵まれた環境にいると言えるだろう。
この愛想のない熊、名前をオ-ギュストというらしい、は私に何を求めるでもなく自由にさせていたが、唯一夜になると、私の部屋を訪れ、何か弾いてみせろと命じるのだ。
最初の夜はてっきり襲われるものとばかり思っていたが、人は...熊は見かけによらないらしい。
「私の演奏には心がないとよく言われたものだけれど、心ない魔物にはピッタリだったのかしらね?」
「なんだそれは」
「なんでもないわ、ただの戯れ言よ」
私に与えられた部屋だというのに、彼専用のソファに横たわり、私の演奏に耳を傾けながら、やがて寝息をたて始める恐ろしい風貌の喋る熊。
「私の演奏はそんなに退屈かしら?それとも、ママの子守唄が欲しかったの?」
からかうように話しかけても、返事はない。
どうやらすっかり寝入ってしまったようだ。
将軍の地位を頂きながらなんて無防備な、とも思うが、もしかしたら近づいて攻撃しようとしたら、カッと目を覚ましたりするのかもしれない。
それにしても、と。
身勝手な人間より魔物のほうが、よほど心があるのではないかしら、と、私は次に故郷のメグに宛てる秘密の手紙の文面を心の中でしたためながら、この風変わりな熊のため、そして何より私が楽しむために、心穏やかにピアノを弾き続けるのだった。
おしまい