第九十六話『死の具現』
それは常軌を逸する剛力だった。
魔猿の鋼鉄と疑わんばかりの腕が、眼前に佇むカリアごとその街道をも破壊せんと振るわれる。腕を振るう、ただそれだけの事で轟音が響き、空気が切断された。
誰もがその一撃を目にして、理解する。
あれは、駄目だ。明らかに、現実の外を生きている。我々の理解の外にあるものだ。その魔猿の剛力が切り裂く空気の乱れが、もはや世界そのものを歪めているかのよう。
その一撃には、殺意はない。敵意もない。ただ邪魔なものを振り払うだけの単純な掌底打ち。その圧に触れるだけで、幾人の者が死するのだろうか。
対してカリアは、普段と変わりはしない。銀の長剣を輝かせ、まるで何時ものことであるかのように、当然のように、魔猿の掌底を迎え入れる。
その凶器ともいえる掌底が、カリアをただの肉塊へと変貌させようと迫った瞬間、銀髪が揺れる。身体が半回転して掌底を躱し、そのまま剣の切っ先で斬り付けるようにして魔猿の皮膚を舐める。そうして、カリアは思わず息を飲んだ。
——ギ、ィンッ
鈍い、鉄と鉄が接合するかのような音が戦場に響く。実際には、剣と皮膚との接合であるにも関わらず。
カリアは自らの手に伝わる感触から、眼前の化け物の脅威を実感していた。その皮膚はもはや生物と思われぬほどに、硬い。刃物で薙いだ程度ではとても傷つけられぬと思われるその感触。思わず目つきを強めつつ、カリアは咄嗟にその場を飛びのいた。
瞬間、魔の影だけを残して街道が抉られる。もはやそれは抉る、などという軟なものではない。完全なる、粉砕。街道に張り付いてた石畳が、まるで薄っぺらい紙のように飛び散り、破砕される。
その光景に呼応したかのように、銀の閃光が、走る。
掌底が街道へと叩き付けられ動きを止めたその一瞬。攻撃の終着を見極め、カリアは魔猿の手首を斬獲せんと、長剣を風にのせる。今度は、ただ刃物を滑らせるだけの一撃ではない。渾身の力をもって、その手首そのものをへし折らんという気概を込めた一撃。
まさしくその一連の動作は、全てが息を飲むような美麗さだった。足取りに恐怖による迷いはなく、剣の切っ先は風に乗るように滑らかに。その全てが、カリアの天賦を証明している。その弛みなき鍛錬を想像させる。
だが、それも人間としての、天賦の才でしかない。
戦場に先ほどより、より鈍い音が響く。
鋼鉄を思わせる肢体。その中では未だ脆いと想像がつく、その手首。手を駆動させるがゆえに硬く固定させることなどできようはずもないと、そう、カリアは考えていた。
しかし、現実としてカリアが手を届かせたのは、魔猿の皮一枚のみだった。骨は愚か、肉を裂くことも叶わない。カリアの銀色の瞳が、驚愕に揺れ動く。こんな事が、あるのか。こんな世の理そのものに背くような事態が、起きうるものなのか。
魔獣という存在と相対するとき、常に脳の片隅には想定外の事が起こるものだということを、潜ませねばならない。
その事はカリアもよくよく理解しているし、今までその考えを欠いたことはない。現にカリアは、手首を斬りおとさんとした際にも、刃が通らぬ事も想定して動いていた。
だが、違う。カリアは魔猿の皮膚と渾身の力で剣を合わせた瞬間に、気づいてしまった。もはや現実のものとは思えない強固な感触。大地そのものを斬りつけようとしているかのよう。例え幾百の剣をもってしても、その身体を斬獲する事などできはしない。そう、理解した。
とても自らがいる世界の延長線上にいる生物だとは、思えない。これは、違う。これはもはや魔獣でもない、何かだ。
魔猿の手首と剣を接合させ、その事をカリアの脳髄が瞬間的に察した瞬間、脳は一切の戸惑い無く、命令を下した。
——逃走しろ。勝ち得る相手ではない。人間という生物は、眼前の存在に勝利出来ない。
咄嗟に、脚が動く。
何かを、考えたわけではなかった。ただカリアの脚そのものが意思持つように、その場から飛びのいた。次の瞬間、先ほどまで立っていた場所が剛力に粉砕される。
間違いなく、今あそこにとどまっていれば、死んでいた。その数瞬遅れて訪れた死の感触に、カリアの額を汗が舐める。臓腑が岩になったかの如く重くなり、長剣をつかむ指先が震える。
こんな事は、何時以来だろうか。思わず、カリアは自らを嘲笑するようにして僅かに口元を歪める。恐怖に心臓を鷲掴みにされ、脳を蠢く本能が逃げ延びろと命令する。
なるほど、それが合理だ、カリアの長い睫毛が瞬いた。
今この場、一人であの化け物、魔猿に対抗するなど愚の骨頂。あれは、もはや人間がその手を伸ばしうる存在ではない。魔術か、魔法か、それらでもあの死の具現を歪ませる姿が想像できない。
その脅威に対し、騎士物語のように前に出て剣一本で戦うなど、愚者以外の何者でもないだろう。
——ギェェェァアアッ!
再び紡がれる、猿叫。窓や木切れを破砕するその叫びに、目を覚ましたかのように周囲の兵士たちが魔猿を背にして逃げ去っていく。もはや、その瞳からは戦場の狂気が抜け落ちていた。命の尊さを再びその身に思い出していた。
それが最も正しい選択だろう。もはや、此処は兵が争いあう戦場ではない。あの魔猿がこの戦場を全て塗り替えてしまった。今や戦場の支配者は、あの魔猿だ。
「ではつまり、あの魔猿を縊り殺してしまえば、勝利はこの手に転がり込むというわけだ―—待っていろ、貴様がいやというほどに、勝利を持ち帰ってやる」
誰にいうでもなく、カリアの唇が愉快そうに呟いた。
今この時、勝利の道筋すら見えない場においても、撤退などいう選択肢はカリアには存在しなかった。二つの房に分けてまとめていた銀髪が、破砕された破片によって解かれ、今は長髪となって靡く。
例え刃が皮膚に通らずとも、例えその存在が紛れもない死の顕現だとしても。それに立ち向かわない理由にはならない。それに、カリアは託された。勝利をもぎ取ることを。その願いに対し、カリアはこう言った、任された、と。
ならば、退くわけにはいかない。己は理想ともいえる強き者でなくては、ならないのだ。奴に、私を信じたことを、後悔させてなるものか。
かつての時代においても、カリアは武勇における天賦の才をもってのみ、英雄と称されたのではない。
その屈服を知らぬ比類なき精神性、太陽の輝きをも想起させる気高き魂の煌き。己の中に存在する弱さをすら踏みにじり、断ち切る精神性こそが、カリア・バードニックという存在を英雄足らしめた所以。
それに、とカリアは思わず頬を緩める。
——それに、あの愚か者の隣にあろうというのだ。私自身も、愚かでないとつり合いがとれまいさ。
銀の煌きが、轟音を伴って一線を描く。指先、足元、関節に狙いをつけ、舞踏の如き足遣いで魔猿へと迫る。
鈍い音が、幾度も響き渡った。愛用の長剣が軋みをあげ、苦痛の悲鳴を響かせているのをいやというほどカリアは感じていた。
何処か、あるはずだ。何か、この化け物を絶命せしめる急所が、必ずあるはずだ。そう信じ、ひたすらに躍動して魔猿の身体に剣を這わせる。
魔猿の剛力は凶悪に違いないが、細やかな所作は存在しない。それも当然だ。ただその身をもってして四肢を振るえば、獲物は全て塵と化す。そこに技法や戦術など、必要ではない。
一歩でも踏みたがえれば、一瞬でも読み違えれば、死ぬ。カリアはそれを直感していた。何せ本能は、先ほどからただただ、死の危険を脳髄へと送り込んでいる。
この感覚は、味わったことがある。自らがただ無力に思えるような、その痛烈な絶望感。かつて、大木の森で猪型の魔獣と相対していた、あの時だ。
あの時は、どうして、勝利したのだったか。
身体中を埋め尽くす疲労。肺は空気を欲して体内で暴れまわり、ひたすらに苦痛を肢体へと与え続ける。一息すらろくにつけぬその状況で、カリアはまるで走馬燈を駆けるかの如く、記憶の糸をたどっていた。




