第七話『アリュエノという人』
孤児院の扉をくぐった所で目に入ったのは、紛れもない。あの頃の、未だ幼さが残るアリュエノの姿そのものだ。触れると崩れてしまいそうな、細い指と白い肌。淡く輝く薄い金色の髪の毛は、しっかりと整えられ纏められている。
「まぁ、ルーギス! ルーギスよね。久しぶりだけれど、変わらないわ、貴方。小生意気そうな所とか、捻くれてそうな所とか、全く変わってない!」
あれ、何かおかしいな。
どんな表情を作るべきかと思案し、強張っていた顔が奇妙に歪む。その様子がおかしかったのか、アリュエノは口元を抑えて破顔した。
「どうしたの、変なものでも見た、って顔をして。もしかして冒険者になって毒気でも抜かれちゃった? それはそれで、大変よろしいけど面白味がない気がするわ」
随分と低くなってしまった俺の視線より更に低くから、アリュエノは饒舌に話し続ける。その様は、愛らしくもどこか皮肉げに感じる。
しかしその様子に対して、俺の思考に渦巻くものはただ一つ。
「アリュエノ――さん。いやお前、そんな性格でしたっけ」
「はぁん?」
目の前の彼女、アリュエノは怪訝そうな目つきでこちらを真っすぐに見つめてくる。その瞳の色や、容姿、姿かたちは紛れもなくアリュエノだ。しかし、何だろう。この違和感は。少なくとも俺の中でのアリュエノはそんな怖い言葉は使わなかった気がする。どういう意味だ、はぁん、とは。
「何を言ってる。此処からでてそれほど月日も経っていないだろうに。お前、幼馴染の性格も忘れたのか?」
ナインズさんは、すっかり呆れたような声だ。買い物籠から食料品や水をしまい込む手を止めて、アリュエノ同様に怪訝な目つきでこちらを見つめてくる。
そうか、いやそうだったか。救世の旅に同行した、詰まる所未来のアリュエノは清楚というか、慎みと慈愛を持ち、それこそ聖女と見まごうような女性像を体現していた。誰もがその姿を目で追わざるを得ない存在だった。幼馴染の俺ですら、久々に再会した時はその姿に見ほれたものだ。
思えばそのイメージばかりが先行し、子供の頃の彼女にも、そのイメージを当てはめてしまっていた。だが、違う。そうだ、そうだった。確かに子どもの頃、特に孤児院で共に過ごしていた時は、清楚というよりも溌剌。慎みよりも活発さを是とする性格だったのだ、アリュエノという女性は。
「忘れたのなら忘れたで別に構わないけれど。人を見てとぼけた顔するのはやめた方がいいわ。それに、今は私より貴方ね。ぼろぼろになって、何処で何をしてきたのかしら」
じろじろと俺の身体に視線を這わせながら、アリュエノは眉をつりあげる。二人から奇異な視線で見つめられる状況に何とも居心地の悪さを感じないでもない。
「別に、なんでもありゃしませんとも。ほれこの通り」
軽く手足をひらひらと振りながら、二人の視線を払うように、孤児院の中へと入り込む。
内部は外見から比べて随分と手広い。大勢の子供たちを養い、時にその購入者達をも家の中に入れるわけだから、ある意味では当然だが。目ぼしい家具といえば、全員が囲めるような大きな木製のテーブル。座り込めば軋みだす椅子に、食器棚くらいのもの。だが子供の頃は、これでも豪勢な家に見えていたものだった。
久方ぶりの我が家とでもいうように手近な椅子に腰かけようとすると、ぐいと左手を引っ張られた。
「い、ッつぁ!?」
瞬間、鋭利な刃物で裂かれたような痛みが肩口を襲う。次はこっちも、とアリュエノが無造作に右手を引っ張ると、右の肩口からも同様の痛みが走った。思わず歯を鳴らし、両脚を踏ん張って痛みに耐える。
流石に想い人の前では転げまわるのを我慢する程度の矜持が、俺の中にはあった。
「ほら見なさい。さぁ見なさいよ。これの何処が何ともないというのか教えて欲しいわ。ナインズさん、包帯借りるわね。ほら、ルーギス、ちゃんと座ってなさい」
目じりに涙を溜めさせられながら、大人しく椅子に座る。椅子から零れ出る、僅かに軋む音が懐かしい。ナインズさんは苦笑しながらアリュエノに包帯を手渡し、微笑ましそうに目を細めていた。
少し、ほっとした。心が納得したというべきか。ああ、確かにあの活発さと溌剌とした様子、そして慈愛の精神は、アリュエノの過去の姿に違いない。何とも間抜けな話だ。当時の俺は此処、孤児院に寄りつかなかった余り、想い人の姿まで半分忘れてしまっていたらしい。良き思い出として自分勝手に処理していたようだ。憐れにもほどがある。
かつての俺は立派な冒険者になると言い張って孤児院を出た手前、その惨めな暮らしを彼女に悟られないよう、ずっと此処に顔をだしていなかった。時折、アリュエノがよこしてくれた手紙を見て、その近況を知るくらいの繋がりだった。ああそういえば、当時はアリュエノが身請けされるという話を聞いても、見送りにすら来なかった。酷い話だ。なんとも、馬鹿々々しい。
こんなにも、掴みたいものが。こんなにも、共に在りたいものがすぐ傍にいてくれたというのに、何故素直にならなかったのだろう。
「ほら、無理をして。何か硬いものにでもぶつかったんじゃない? 此処、青くなってるわ」
肩口にゆっくりと包帯を巻きながら、アリュエノはぶつぶつと怒ったような口調で問い詰める。
その口撃を躱しながら、紛らわすように駄賃で購入した噛み煙草を噛むと、余計にその怒りが悪化した。「そんな悪いモノを何処で覚えたのか」だの、「そんなのを噛んでも大人にはなれないわよ」だの、言いたい放題だ。アリュエノに言われたとしても、此れだけはそう簡単に捨てられない。冒険者生活の中で覚えた嗜みというやつだ。
暫く小言を言い続けていたが、こちらが言い分を聞かないのが分かったのか、アリュエノは唇を尖らせながらも丁寧に、痛みを感じないよう両肩に包帯を巻いていってくれる。
想い人に治療をされるなんとも言えぬ心地よさに浸って、そのまま懐かしい時間を噛みしめる。何とも悪くない。アリュエノも、ナインズさんもいて、くだらない世間話で笑みを浮かべる。ああ、なるほど。未来の俺が失っていた幸福とはこれか。無様なものだ。
しかし、その中にもやはり何処かに、違和感は在った。確かに、活発で溌剌。それが過去のアリュエノの姿だったろう。しかしそれにしても、行きすぎだ。
「なぁ、アリュエノよ」
「どうしたの? 包帯の巻き方への抗議なら聞かないわよ。それとも、お礼の一つでも言いたくなった? 構わないわよっ!」
そう言いながらも何処か、浮ついた声の響きだった。煙草を噛み、唾を持て余しながら、口を開く。
「身請け先決まったんだろ。何処だよ、その場所」
「…………ナインズさん?」
アリュエノに視線を向けられたナインズさんは、私は事実を言っただけだと、その紫の瞳を逸らした。さも外の風景を見ている様だが、その窓からは隣の壁しか見えないはずだぞ。
「やっぱ無理してんじゃねぇか。健気って言えばいいのか、強がりって言えばいいのか。確かにかわんねえわなぁ、アリュエノ。お前はよぉ」
「むぅ……むしろ、何よ貴方のその余裕。小生意気っていうより、小賢しい。そう小賢しいわ」
不貞腐れたように肩を竦めながら、アリュエノの視線がうろつく。
余裕があるわけじゃない。ただ少し経験を積んだだけ。むしろ今だって、アリュエノの様子に気が気ではない。これが惚れた弱みというやつかと、我が事ながら目を覆いたくなる有様だ。
「それで、何処なんですかね、行先ってのは」
そういえば、当時の俺は知らないはずだ。事実、今だって俺は、アリュエノが何処に身請けされたかを知りはしない。
「変な場所じゃないわ。良いわ、望むならきかせてあげる。貴方なら構わないわ」
そう言いながらも、一拍言葉を置いて、アリュエノは呟く。
「身請け先は、大聖堂よ」
口元から、噛み煙草が、落ちた。