第六百六十一話『此の者の手に』
幻想が死に絶えていく。古き調べが遥か彼方に消えていく。
今まで自分の中にずっといた命の灯が、ひっそりと瞼を閉じた。アリュエノはその感触に一抹の寂寥と懐かしい味を思い出していた。
希望を断たれる、敗北の味。少女が夢見た恋の理想は、儚くも敗れ去った。他でもない愛した男の手によって。
アリュエノは脱力したように、その場で腰を崩した。もはやアルティアの魂は残滓を残すのみ。身体に残る魔力も幾ばくか。出来る事はないだろう。
玉座の間にひしめく魔の軍勢はまだ残ってこそいるがやがて消え失せる。姿を取り戻したはずの帝都も、今にその姿を失うはずだ。大陸にひしめく魔獣は再び息を潜め、魔性は影に消えていく。
少女の恋と時を同じくして、神代の大英雄の野望は消え落ちたのだ。アルティアの消滅と共に、死雪の時代は終わりを告げる。全てはまさしく一日の夢。
夢は美しい。誰にだって理想の夢を見る事が出来る。しかし夢のままである以上、それは何時か失われる運命にあるもの。
アリュエノはもしかすると、何時かこの時が来るのを知っていたのかもしれない。彼女自身不思議なほどに、絶望をしていなかった。敗北を当然の事だと認識していたのだろうか。
いいや違う。アリュエノは黄金の瞳をぼやけさせて、呼んだ。
「――ルーギス」
愛した彼が、自身を命を賭けて止めてくれた事がアリュエノの心を救ったのだ。彼がいたから彼女は、絶望の淵に沈む事はなかった。
頬に手を添えながら見る彼の姿は、酷いものだった。
人体の半分以上を魔力によって喰われている。今はまだ頬から脈動を感じるが、それも長くはもたないだろう。
当然だった。アリュエノはルーギスを魔力によって呑み込み、自らのものとするはずだったのだ。けれど彼は自らその根源を断ち切った。
ならばもう、後は魔力に浸食された身体が残るのみ。今のアリュエノでは彼を癒すことすら出来ない。
「何時も自分勝手。馬鹿ね、貴方は」
黄金の瞳が、幾つもの涙を流していた。涙にはとめどない感情があふれ出ている。だがとりわけ大きいのは、悲哀と慕情。
彼が失われゆく事が悲しい。身が引き裂かれそうなほど。幾つもの涙を流しても尚耐え切れないほどにだ。
しかし彼が自らの命を差し出して自身を止め、そうして生かそうとしてくれた事実が例えようがないほどにアリュエノを喜ばせる。
数多の感情が混ざり合い、アリュエノは自分がどうして涙を流しているのか分からなくなるくらいに嗚咽を漏らした。崩れ行くルーギスの身体を抱きしめる。
いいや違う、馬鹿なのは私だ。
「こうやって取返しがつかなくなって。お互いどうしようもなくならないと、貴方の気持ちも分からないなんて。不出来にも程があるじゃない。ええ……でも、構わないわ」
どうしようもなく不出来なのは承知の上だ。手に入れられたかもしれない幸福は、もうずっと前に手の平から零れ落ちている。
けれど、どう足掻いても私の恋はこれだった。そうして今、どんな世界より最高の愛を知った。
ああ――私は幸せだ。
だから、
「ルーギス。貴方に、幸せになって欲しい――」
消え入るような声で、アリュエノはそう言った。ルーギスの身体を抱きとめ、魔力の残滓をゆっくりと手で覆う。
そうして黄金の瞳を閉じてから思う。頬が辟易したように笑った。本当に、馬鹿げたほどに諦めるのが嫌いだ。自分らしいといえば、そうなのだけれど。
アリュエノはルーギスの殆ど死にかけた唇を見つめながら微笑んだ。
「原典解錠――」
数少ない魔力が、彼女から零れ落ちる。失われゆく魂が、最後の輝きを灯した。渦巻く権能が蠢動し呼気を漏らすが、未だ足りはしないと更なる魔力をアリュエノから奪い取る。
黄金の瞳が軋む。ぴしりと、鳴ってはならない音がしたのが分かった。
それはアリュエノの魂を差し出す行為に他ならない。しかし彼女は決して止めようとはしなかった。
――彼は私の為に命を差し出してくれた。なら私も、彼に命を差し出そう。
そのどうしようもない代償の交換は、アリュエノにとって当然の道理で。彼女の知る恋と愛の結実なのだ。ならばそれを止められる者が何処にいるのか。いいや、止められる者はもう屍になろうとしている。
ルーギスの身体と密着し、最期まで彼の顔を見ながらアリュエノは目を細める。
私はこの世で、最高の恋をした。ならその果ては決まっている。恋は打ち砕かれるものなのだから。
最期、アリュエノはルーギスの身体から零れ落ちているものを見た。それは全くの偶然でルーギスも意図すらしていないものだ。もしかすればアリュエノに残された、幸運の一つだったのかもしれない。
淡い赤のハンカチが見えた。大切に折りたたまれ、懐に入ったままだったそれ。
――次会う時は見てろよアリュエノ。もしかしたら騎士様になってるかもしれんぜ。
――じゃ、未来の騎士様にはこれあげる。貴婦人が騎士にハンカチを貸し、騎士はそれを身に着けて戦い、生きて戻り貴婦人へと返す。騎士道ロマンの常道でしょう?
ああ、やっぱり。
馬鹿なのは私の方だった。
アリュエノはどのような感情が籠っているのかすら分からない涙を零して、唇を波打たせる。
「――『願わくば此の者の手に幸福を』」
瞬間、原典が顕現する。
自らの身体が魔力の糧に朽ち果て、消え去り、世界から忘れ去られてゆく感触にアリュエノが身震いをした。
アリュエノの原典は、本来ただ自らの幸福を満たす為のもの。誰かの為に用いるものではない。本来からしてアリュエノもアルティアもそういう有り方だったのだ。
言ってしまえば、彼女らが追い求めていたのは自らが幸福になる為の道。愛した者と共に生きられる為の道だ。だからこそそこに必ず自らの存在はあり、消え失せる事など考えてもいない。
けれど今初めて、アリュエノは自らの全てを捨て去ってただ一人の幸福を願った。ただ彼の者のために、世界が微笑みますようにと。
自らの意志によって造り上げた原典を捻じ曲げる無謀な行いが、尚の事アリュエノの魂を軋ませた。全身を絶叫が駆け抜けてゆく。
だが、良いのだ。構わないとアリュエノは笑みを浮かべる。
魂も命も血すらも失って、残るものは僅かばかり。彼の中に原典の残滓こそ残せるかもしれないが、これだけの事をしでかしてそれだけと考えれば本来笑い話にもならないだろう。愚かしいとそう叫ぶ者もいるはずだ。お前は間違ったのだと。
だったとしても、アリュエノは幸福だった。両手でルーギスの顔を掴み、最期に彼の顔を間近で見た。愛した人間の顔だというのに、こうもまじまじまじと見つめるのは何時以来だろうか。
アリュエノは呼吸も出来ないというのにそっと囁く様に、歌うように言う。
「私は幸せよ。貴方が瞼を閉じた時、きっと貴方は私の死を思い出してくれる――」
もはやそれは確信だった。ルーギスは鮮明なまでに、自分とその死を思い出してくれるだろう。この玉座の間での一瞬を瞼の裏に映すだろう。
「――でも貴方が瞼を開いた時、私は決してそこにはいない」
ルーギスは私を怨むだろうか、まだ想ってくれるだろうか。けれどどのような形であれ、彼と私は一緒だ。
それこそ、彼が死ぬその日まで。
「愛しているわ、ルーギス」
ルーギスの顔を間近で見て、そっと触れ合うようにしながらアリュエノは最期を告げた。魂が幻想に解けていく。古き調べの中に落ちていくように、彼女の身体はルーギスの身体に重なり。
そうして、砂粒すらも残さずに消え去った。そこに何もなかった。ただルーギスの魂だけが、その存在を覚えていた。
玉座には彼の身体が一つだけ、残されている。
――音がしていた。がちり、がちりと鳴り響く音。
歯車が再び回りだす音が、していた。