第六百五十七話『明日を生きる者達の物語』
カリアは悪夢を見ていた。聖女の悪意が貪るに任せ、魂が食われていく。
弱いとは悪である。弱いものは食い物にされるだけ。弱い私には何も無い。だから強者の仮面を被り続けなくてはいけなかった。
強くあれ、強くあれ、強くあれ。呪いのように執着し続けた力への信仰。性質が悪い事に、カリアの場合それが愛情にも結びついていた。
力があれば求められる、力があれば頼られる、力があれば愛される。その思い込みは、カリアの中で一つの真実にまで昇華された。其れから逸脱した事象は受け入れられないほどに。
悪夢の中で彼女は自傷と自責を続ける。己は弱いから、彼を救う事は出来ない。何も分からぬまま彼を殺してしまう。
しかしカリアが最も恐ろしいのは、そこに暗い喜びを感じてしまう事だった。
彼を殺し、彼の事を思い出し、驚愕と恐怖に双眸を歪める間際。カリアは何時も胸を撫でおろす。
「これでもう、貴様は私のものだ」
愛情とは一皮を剥けば暴力のようなもの。とかく力を信仰するカリアにとって、その想いは強烈だ。
暴力的なまでに愛したい。暴力的なほどに愛されたい。愛に飢え続けた少女の心に、正常な情愛などか弱すぎる。
例え想い人の亡骸に縋りつく様な愛であっても、カリアにとっては幸福かもしれない。
やはりこの悪意は残酷だ。夢を見るものに絶望と、一抹の幸福を与える。幸福に縋りつくものは、絶望に立ち向かう事は出来ない。
だからもしもカリアがただ強いだけの女だったなら。彼女は二度と目覚める事は無かった。
「……嫌だ」
銀髪を震わせ、カリアは頬に血を浴びていた。両腕には『彼』の亡骸がある。何度目かはもはや分からない。どんな旅路だったのかも不明だ。けれどカリアは、また敵となった彼を殺してしまった。
きっと正しい事だ。絶望の甘い吐息を漏らしながら、一抹の幸福が胸中に浮かび上がってくる。
けれどカリアは頭を振って幸福を否定した。
「嫌だ……死なないでくれ」
か弱い、余りに弱い声だった。ちょっとした音で掻き消えてしまいそうなほど。銀瞳が涙を零して数度落ちた。カリアは吐息を荒げ、再び亡骸を抱きしめる。
こんな幸福などいらなかった。私が欲しかった幸福は、もっと小さなものでしかない。
ここに至って、カリアはようやく己が彼に執着していた理由を知った。
――ただ己を、見ていて欲しかったのだ。
だからその気を引くために、牙を立てる事も歯向かう事もする。強くあれば、見ていてくれるとそう信じていた。しかしならこの結末は何だろうか。この未来は何だろうか。
――大いに、疲れた。帰ったら良い飯でも食いにいこうぜ、カリア。
そういえば彼は、己に打ち勝った後にそう言ったな。その後も、そのずっと後も。カリアを見捨てるような事は無かった。
今、こうして思ってしまえば。きっと彼は何があろうとカリアを見捨てるような事は無かっただろう。他の人間のように、力や立場を失ったカリアを侮蔑するような真似はしなかった。むしろ其の背に縋りつくことすら彼は許すだろう。
彼の冷たくなった身体を目にしながら再びカリアは、銀瞳を昏くした。物事は簡単な事だった。
つまり誰でもないカリア自身が、自分はおろか彼すらも信じきれていなかったのだ。彼の肢体を抱きしめ、涙を零す。
許してくれなどと請う気はない。ただその声を聞きたかった。また、共に冒険をしたかった。傷つく事もあるかもしれないし、思い通りにならない事は多々あるだろう。
けれど気づいた。カリアにとって今これまでの日々全てがきっと、幸福だったのだ。数多の世界、幾多の旅路において得られなかった唯一のもの。
一瞬、頬に暖かいものが触れた気配があった。懐かしい、しかし少し前に感じた気配。カリアはやはり涙を零してから、頬を震わせた。
声が聞こえる。
「後ろを頼んだ。もう振り向かない――お前らを信じる」
◇◆◇◆
ぞわりと、世界が動揺した。銀色の髪の毛が振りほどけ、黒緋が世界を圧倒する。大陸を脈動する魔力が、此の存在を覚えていた。
巨人王。彼の王の破壊神話が、再び目を見開く。そうして呼気を吐く間も無く――黒緋が破裂するように魔力を振るった。
そこに敵と味方との配慮があったかは分からない。ただカリアの銀瞳は、敵だけを見据えていた。即ち、人類英雄となったアリュエノ。
黒の衝撃が軽く宙を駆ける。玉座の間が其れだけで、轟音を立てながら打ち震えた。瓦礫が周囲を駆け巡り、抗う事も出来ずに破壊されていく。
それでも理性は働いていたのだろう。瓦礫が散乱してしまったが、まだ玉座の間そのものの崩壊には至っていない。ルーギスや他の人間が力に晒される事はなく、衝撃を受けたのはアリュエノだけだった。
一息に数歩を進み、アリュエノを見てカリアは言う。
「――もう逃がさんぞ、貴様」
「……言わなかった? そういう所がいけないと思うのだけれど」
アリュエノは衝撃を受けて尚、態勢を立て直して両脚で地面を踏む。
しかし動揺は隠せたものではなかった。受けたカリアの力が未だ影響を残している。指先に明確な痺れを覚えていた。
カリアはアリュエノの黄金の瞳から視線を逸らさないままに、口を開く。
「ルーギス。貴様もう少し気の利いた事はできんのか。目覚めに言葉一つだけとは、余韻も何もないではないか」
「……そんな余裕はないんだがね。カリア、足止め出来るか。数秒で良い」
ルーギスはカリアの目覚めをまるで当然のように扱った。戻ってこないはずがないと、奇妙な信頼すらしていたようだ。
先ほどまでフィアラートとエルディスと共に組み立てていた考えからは変わってしまうが。カリアがいるのならば、また別の手だてが取れる。
足止めさえ出来れば良い。その数秒で全て終わる。
カリアはそれを見て素直に頷く。満足気ですらあった。
「――承知した。私は貴様の盾だ。ならば当然に役目を果たしてみせよう。そこでみていろ、貴様」
銀瞳が背後のフィアラートとエルディスに目配せをした。性格が噛み合わないようでいて、やはりその根本は似た部分があるのだろう。両者が軽く頷く。
「任せると良い。エルフの呪いは君と相性が良い。上手くやるとも」
「それに、ルーギスには終わった後に話して貰わないといけない事が幾らでもあるものね」
フィアラートの言葉に笑みを浮かべてから、カリアは黒緋を横に構えた。巨人の神話が、彼女の血統から溢れ出している。アルティアの威光を、食い尽くさんばかりだった。
巨人は他の種族とは趣が異なる存在だ。精霊にしろ竜にしろ、アルティアに打ち倒された後は其の足元に屈した。勢力は縮小され、細々と生きながらえるのみとなった。
だが巨人は違う。彼らは滅んだのだ。
数多の血族と眷属が死に絶え、アルティアへの呪いを吐き出しながら命を失った。巨人の王もまた、腐った体躯を大地に横たわらせながらもアルティアに屈するを良しとしなかった。
巨人族の王は、唯一アルティアが其の肉体を殺す事が出来なかった存在だ。アルティアは彼らの種族を、ただ滅ぼす事しか出来なかった。
滅ぼされた王は、小さき巨人に自らの原典を譲り渡した。尊厳と、一族の意地のために。彼らは意地の為に滅んだ。そうして意地の為に、今再び人類英雄に牙を突き立てんとしている。
其の原典は、決してアルティアに屈してなどいない。
「――原典解錠『巨人神話』」
無念と不屈の咆哮が、黒緋に宿る。振り下ろすだけでかつて天蓋を砕いた破壊の極致。神殿と信仰亡き今、原典のみとなってしまったがその本質は失われない。世界すらも絶叫をあげる巨人の剛腕。
それはカリアの記憶の中にのみ残る、彼女の本質に似ていた。ただ破壊を、ただ力を。そこにもはや目的は無く。理性すら打ち砕いた最果ての姿。彼女が原典を手にする事は決してなかったが、しかし原典への適正となる破壊欲求には最も相性が良い
其れが今、カリアの胸に灯となって存在していた。
「そう。ええ、構わないわ。例え貴方達がどれほど歩みを続けようと。だからこそ与えられる終わりを教えてあげる」
アリュエノは己に降りかかる脅威を見て尚、黄金の煌めきを陰らせない。
当然の事だった。絶望は何度も見た。苦境は何度も知った。数多の世界の巡りの記憶、アリュエノはアルティアの記憶すらも共有している。
寝床にしていた教会が、化物の巣になった事もある。己以外の仲間が化物に食われてしまった事もある。神を名乗る連中に、愛する存在を奪われた事もあった。
では今の苦境は何か。精々、愛する者を奪おうとする魔性が三体。絶望の内にも入らない。
アリュエノはすぐに思考を走らせる。
どう殺すべきか。
どう対処すべきか。
どうすれば、最も彼を絶望させられるか。
すぐに結論は出た。神威の剣は棄てる。もはや用済みだった。ただ刺し貫く事しか出来ないものに、拘る理由がアリュエノにはない。彼女にとってあらゆる武具も、あらゆる手段も。彼を奪い取るために必要だから選択するものだ。
一瞬だけルーギスを見てから、巨人と竜と精霊の落とし子達を見た。アリュエノは喉を鳴らす。
「本当は、とてもとても嫌だけれど」
黄金が、初めて本当の意味で彼女らを見たかもしれなかった。悪意の発露先としてではなく、敵として彼女らを認識した。
「私がどういうものに成ったか、教えてあげる」
そうして、歌う。口が喉が震えて歌う。それはもはや凱歌だ。勝利と栄光を歌う。人類の凱歌。
かつてアルティアが、そうして人類皆が奏でた歌。
――人類が、魔性を制圧したと証明した歌。
「――我らは勝利した。旗を掲げよ。魔性どもが、音を立てて崩れて行く。我らは彼らを、手懐ける」
其れを、何と呼ぶべきなのだろう。
ルーギスは知らなかった。カリアもフィアラートも、エルディスですら知らなかった。しかし現実に、其の魔は神々しい輝きすら発しながら玉座の間を包み込んでいく。
魔の軍勢が、アリュエノが発する魔力の渦からその姿を零れ落とす。
大魔の王となったアルティアが、呑み込んできた数々の魔。彼女が打ち滅ぼし、己がものとしてきた魔性の軍勢。
人類の神話が内包する魔の全てがアリュエノの歌声に起き上がるように、彼女の影から浮かび上がってくる。
かつて、魔人と呼ばれた者らすらも。
「ルーギス。諦めないのでしょう。貴方が諦めるまで、付き合ってあげる」
「諦める必要があるかよ。昔アルティアはこいつらを殺したんだろう。なら、俺が出来ない理由が何処にある」
新王国と旧王国。大聖教と紋章教。人類と神。
全ての決着が、もう直ぐ其処に迫っていた。