第六百五十四話『物語の幕が下り』
「嫌な夢だった」
銀色の瞳が悪夢から跳び起きて、大きく息を荒げる。
怖い夢だった。内容はよく覚えていないが、凍えてしまいそうになる夢。肌身は冷えて剥がれ落ち、魂は眠りにつく。
子供の頃から、そんな夢を見た時は必ず剣を握った。剣だけが自分を勇気づけてくれたし、誇りを持たせてくれたからだ。
一振り、また一振り。自分の思い描いた軌道を剣が沿う度に悪い夢の気配は立ち去っていく。運動の火照りと心臓の動悸が、身体に熱を取り戻してくれた。どんな時でも、剣にだけは集中出来たのだ。
最初に同輩に敗北した日も、弟が生まれ父を含めた皆の興味が自分から失われた日も、カリア=バードニックは剣を握りしめていた。
「私には、剣しかない。それしか価値を証明する手だては無い」
自分に言い聞かせるように、彼女は言った。
剣と力への執着は、間違いなく彼女に一つの栄光を与えたと言える。剣に関して彼女の才に比類する者はおらず、騎士団で頭角を現したのもその剣技の為。
だから彼女はより力に拘泥するようになった。栄光は力によってのみ与えられ、それ以外のものは彼女を軽蔑する。
今日も彼女は銀剣を振るった。血をその白い頬に浴びる為。自らの価値を証明する為。
其の振るった先に、あの男がいた。
「あんたは強いのに、何時も不機嫌だな」
「黙れ」
男はナイフを構えていた。弱っちい癖に、牙を立てた獣のように唸りを鳴らしてカリアに対面している。理由は忘れた。事実は一つ、此の男と己が敵対しているという事だけだ。
取るに足らない、歯牙にもかけない弱者が立ち向かってくる事が何よりもカリアの心を燃え上がらせた。力有る者に、力無き者は従うものだ。
カリアだって慣習に、伝統に、どうにもならない柵に従ってきた。力を持ったから、初めて己は自由に振舞えるのだ。
なのに、こいつは。
「そうかい、騎士様」
男に何時もの様な恐怖や恐れは無かった。まるで一つ線を千切り取ってしまったかの如く、男の瞳にはぎらぎらとした感情が宿っている。
彼は、命の危機をせせら笑うように言った。
「それならあんたは勝てる相手としか戦わないのか? そんな臆病者じゃあないだろう」
その先どうなったか覚えていない。自分も傷を負っていた気がする。ナイフの刃が肌に食い込んだかもしれない。しかし間違いがないのは、己の銀が敵の心臓を食いつぶしたという事だ。
そうして殺した瞬間に、何時も気づく。
自分の腕の中で死んでいくのが誰か。むき出しの敵意すら見せる彼は誰か。
全身が凍り付いた様に冷たくなっていく。銀瞳が硬直し、暖かな唇からは生気が失われていた。
「――ルーギス」
カリアが、涙を流して言う。
悪夢から、目覚めた。目覚めては悪夢を見、また次の悪夢を見る。何度も、何度も。まるで終わりのない螺旋階段を昇り続けているかのような感触。
「私は……駄目だ。私は本当は、弱いんだ。お前が望むように強い女じゃない。お前の、期待に応える事……なんて……っ」
カリアは自らの喉を掻きむしりながら、一人言った。まるでか弱い幼子が、世界のままならなさに初めて直面したかのようだった。
泣き声が、悪夢に落ちる。
◇◆◇◆
西方辺境砦コーリデン。先代の建築王によって手がけられながら、歴史から取り残された異物。
石と粘土で造り上げられた砦は補修こそされれど経年による劣化は免れ得ない。西方ロアとの同盟が築けた後となっては、もはや無用の長物とすら言えた。
其処に、一万を超える西方ロアの軍勢は来た。
複数の島国が連なる彼らの連合は、外部に対しては手を取り合っているが主導権争いの内紛が絶えない。ガーライスト王国と同盟を結んだ後は、複数の諸侯に別れ骨肉の争いを繰り広げていたほどだ。だがだからこそ、その兵は戦いに慣れた屈強な精鋭達と言える。まさしくコーリデン砦の敵に相応しい。
しかし彼らは正確には外敵では無かった。アメライツ国王率いる旧王国への援軍、新王国との内戦に終止符を打つための友軍と言えただろう。
無論、コーリデン砦を一任されているバーベリッジ=バードニックもその事を十分に承知していた。
「父上、もう彼らが到着するようで。軍使を寄こしてきました」
「家以外で、そのように呼ぶなといったはずだが」
バーベリッジは眉間に皺を寄せた険しい目つきを動かした。右目の大きな傷が、必要以上の迫力を彼に持たせていた。
睨みつけられた男はまだ随分若い。それ所か未だ幼さが抜けきっていない顔つきをしていたが、目つきだけは父親譲りだった。バードニック家の若君。その瞳を見れば、彼に次期当主の自覚が十分に芽生えているのが分かる。
苦笑をしながら、彼は言った。
「失礼しました閣下。それで、迎え入れますか。あちらはその気のようですが」
バードニック家は、騎士階級に転落したとはいえ元は上級貴族の家柄。特にアメライツ国王派と有名だった。彼らは義務の履行を第一とする。
旧王国が軍勢をあげたというのに呼応をしなかったのは、コーリデン砦を守るためだ。援軍を迎え入れればすぐアメライツ国王の下に馳せ参じるだろう。表向きは新王国に従いながら、旧王国への忠誠を捨てない貴族らの想像はそう落ち着いていた。彼らだけでなく、新王国も同様の想像をしている。
そうすれば、バードニック家は失った上級貴族の地位を取り戻すだろう。彼らは先の大戦での汚名を返上出来る。
「我らは義務を果たすのみだ。貴族のすべき事にそれ以外の事はない」
若君は、表情をまるで崩さずに指揮官室を出ようとする父親にため息をついた。固い雰囲気に振り回されぬのが、彼の性格であるらしい。
「閣下がそのようだから、姉上も出奔されたのではないのですかね」
冗談染みた口調だったが、幼いながらに棘を含んだ言葉使いだった。全ての事情に通じているわけではないが、父が姉の出奔の要因だったのは間違いないだろう。
「アレを姉と呼ぶな。もはや我が家には関係がない人間だ」
「しかし、新王国で活躍されているのは耳に入っているでしょう。家として繋ぎ止めておく事も必要なのでは?」
どうやらバードニックの若君は、貴族としての感覚も発達しているらようだった。武芸よりも政治に深く関わる事を選んだバーベリッジの息子らしいとは言える。無論、姉への情もそこにはあった。
しかしバーベリッジは、斬り捨てるような鋭さで言う。
「戯言にもならん。貴族の必要性とは、義務を果たす事のみ。アレは義務を拒んだのだ。ならばもはや我らが家名に連なる者であるはずがない」
右目を引き裂くように刻まれた戦傷が、ひと際大きく動いた様に見えた。バーベリッジが何度も繰り返す言葉だ。貴族の義務。其れを履行するために、我らはいるのだと。
その義務の果てにする事がこれかと、若君は辟易を隠さずにため息を落とした。
「それでは、僕を此処に呼んだのもその義務を果たすために?」
バーベリッジがこくりと頷き、もう振り返りもしなかった。石畳を足で叩きながら、砦の外壁へと出る。死雪の間には珍しい陽光が、彼の瞳を刺した。
普通、戦場で当主と次期当主が顔を合わす事はない。家名存続の為に必ずどちらかは安全な場所に身を移すものだ。それを敢えて破るというのは勝利に確信を持っているか、其の勝利に価値がある時のみ。
――そう、此処は戦場だった。
バーベリッジの眼下には、戦闘態勢を整えた砦兵、呼気を荒く兵達に指令を飛ばす部隊指揮官達。誰もが、バーベリッジの姿を確認すれば動きを止めた。すぐに其れを手で制してから彼は言う。
皆の目に戦意の炎があった。
「――兵士諸君。随分長い間待たせた。諸君らに汚名を着せたまま、我らは何も報いてやれるものがなかった」
バーベリッジの言葉が何を指し示しているかは明白だ。
ガーライスト王国におけるバードニック家の名声はもはや無いに等しい。それもかつての息女が敵の一翼を担っているとなれば、その兵らが戦場に向けられるわけもなかった。
与えられたのは、夜盗退治や魔獣から近隣住民を守護する程度のもの。戦記に鮮烈に輝くような活躍は彼らに与えられない。
だが今は違う。敵が、来たのだ。
「今、西方の諸島から再び異民族共が我らの国に踏み入って来た。彼らが援軍だと? 馬鹿げた事だ! 彼らが軍勢である限り、彼らは必ず我らの民を踏み躙る。軍はそうでしか生きられない。
我らとて民草の税を持って生きている。彼らの血肉を口にしている。ならば我らの義務とは何か、語るまでもない!」
バーベリッジは腰元の細剣を引き抜いた。胸元に飾られた紋章、金細工を施された剣と鞘の家紋が強い色合いを帯びている。
無論、国王が彼らを援軍としている事は分かっている。だが其れは、バーベリッジの領民を彼らの為に差し出せというのと変わらない。そんな事で、貴族としての義務を果たしたと言えるものか。
「――諸君。義務を果たせ! 待ちに待った戦場が此処にきたぞ!」
兵と指揮官が咆哮で応じる。もはや過去の汚名も屈辱も彼らの背中には無い。三度西方諸侯の侵攻を防ぎ切ったコーリデン砦が、呼応するように震えた。
大戦の参列に間に合わなかった彼らは、今此の戦役の最前線にいた。
「……こうしておけば、旧王国が勝利した際には外敵から守ったと言い訳も立つ。新王国が勝利したなら恩を売れるというわけですかね、父上。それとも、他に思惑が?」
「このような場で父と呼ぶなと何度も言っているはずだ。貴族にとって、成すべき事を成す以外に思惑なぞ無い」
相変わらず、固い。何処に本心があるのかが分からない。そりゃあ姉も含め、他の親戚連中も苦労するはずだと、若君は父の事ながら他人事のように考えていた。
「ですがまぁ、悪くないとは思いますけどね。王都は戦場、姉上だって命が幾らあっても足りないでしょう」
肉親としての情は持ちながらも、ある種貴族的な冷徹さを働かせて、若君が言った。そうして、思わず反応したように言った父の一言を彼は忘れないだろう。
「……アレが死ぬのなら、私の手元にいる時に死んでいる」
若君は、目を細めながら聞こえないようにため息をついた。歪んでいる。父にしろ姉にしろだ。
若君が思う。そんな父の手を逃れ、姉を連れ去ったという英雄は。どんな顔をしているのだろうか。