第六百五十話『君は美しい』
ルーギスと聖女アリュエノの相対は、言葉にするなら余りに隔絶したものだった。
片や右腕の感覚を失った瀕死の有様。片や象徴たる玉座を得た完全な状態。更には今この時も変動を続ける王都はアリュエノに力を注ぎ続けている。もはやその力は、誰かの比較で語れるようなものではない。
彼女が呑み込んだ大英雄アルティアは、言葉遊びではなく、かつて間違いなく世界に君臨したのだ。
数多の大魔をひれ伏せさせ、魔族を牛耳り、魔獣を駆逐した大魔の王。大地を睥睨する視線すらも物質を凌駕する異様。
「――【神威の剣】」
アリュエノの手の平の上で、一本の剣が展開される。王都前でアルティアが見せた剣よりも、その驚異を増したように見えた。
信仰と、神殿と、原典。三位を一体とした果てに創造された『剣』は、もはや『剣』と呼ぶのが相応しくない。
此れは、かつて世界を造り上げ魔性を育み、数多の種を産み落とさせた創造種――機械仕掛けの神々に打ち込んだ楔そのもの。
神々と人類とを切り離した大英雄の物語が、単なる伝説ではない事をこの楔が証明している。
「ルーギス」
神話を代弁する様子で、アリュエノは言った。黄金の瞳は熱に熟れるではなく、冷え切ったものでもない。ただ事実だけを見据えている。
「ずっと昔。貴方は私がいるから一緒に旅をするんだって言ってたわよね。逆よ。私がね、貴方がいるから旅をしていたの。世界なんてどうだって良かった。滅んだって構わない。
だってね、きっと私達二人が一緒に幸せになるにはそれしかないのよ。私達以外がいなくなるか、私達がいなくなるか」
「アリュエノ、俺は十分に幸せだよ。お前がいてくれたらな。それじゃあ駄目なのか」
「……ええ、駄目なの。この世界で、私達は真面なまま幸せになんてなれはしない」
アリュエノの瞳は、もはや彼女のものではなかった。神話を継承した者の神々しさと、世界の残酷さを知る者の哀れみに満ちていた。
アリュエノは思う。きっと、かつてアルティアも此れと同じものを見たのだ。数多の運命、数え切れない別離。愛する者の喪失。
所詮この世界そのものが、かつて機械仕掛けの神々に仕立て上げられたもの。彼らが死した後もその歯車は、未だ魔性と人々に運命を与え続けている。
大英雄も、人間王も、勇者すらも。もしかすれば彼らに与えられた役割に沿っているだけなのかもしれない。
アルティアは、其の運命に反逆し全てを犠牲にして自ら運命を作り上げた。絶対に叶わなかったはずの未来に向けて、手を伸ばしていただけだ。だからと、アリュエノは手の平にある其れを握りしめた。
己も叶わぬ運命を手にしたいと思うのならば。――運命を革命するしかない。何を犠牲にしても。
「だから、私は私の手で貴方を手に入れてみせる。ええ、構わないわ」
アリュエノの宣言は、神の宣告に似ていた。収束した絶光を手に掲げながら、振り上げる。渦巻く魔力はもはや抑えきれず、怯えるように玉座の間を蠢動させた。
ルーギスもまた相対するように魔剣にひゅぅっと風を斬らせた。彼に間合いは関係がない。本来であれば、ただの一振りで敵の首をかき切れる。しかしその首筋を冷たい汗が伝っていた。
果たして、アレを殺しきれるのだろうか。アリュエノを制圧する為には、彼女が持つ神話をねじ伏せねばならない。しかし彼女が持つのは即ち人類神話。人類がこれまで積み上げてきた歴史そのものだ。此れに勝利するというのは、人類という総体を単体で凌駕するという事。
そんな真似は到底不可能。では、どうするか。
喉を鳴らしたルーギスの視界を、アリュエノの光が覆った。瞬間、全身が脱力していく感触を覚える。光そのものに包まれる事が、至福にすら感じられた。
魔剣が反射的に振り落とされ、其れらを斬り殺す。脚が知らない間に跳んでいた。魔剣が自らルーギスの身体を操舵したかのよう。
「……悪い。助けられたな」
魔剣に囁いて、ルーギスが言う。今間違いなく、刹那の間だが意識を失っていた。未だ目元がふらついてすらいる。アリュエノの黄金の瞳が自身を見ている事だけに気付いていた。
間違いがなく、あの光の影響だ。ただ一度の邂逅でその正体がおおよそ掴めた。その者の持つ権能と、力とを剥ぎ取る神の光。そうして其れを幸福なる神の抱擁とすら思わせる異常。
「不幸に逆らえる者はいても、幸福に逆らえる者はいない。そうでしょう、ルーギス」
アリュエノが、言った。玉座から立ち上がった姿のまま、跳ね飛んだルーギスの姿を見ている。その頬に、笑みが浮かぶ。すぐに光が、蠢動した。
如何にルーギスがこの世全てに死を与えられようと。夜の帳をその身に宿そうと。大元の魂は人間に過ぎない。全てを凌駕する光の速度を超越する事は勿論、追いつくことすら出来はしない――。
「――嫌になるね」
何故なら、光は本来精霊が有していた領域だ。対抗出来うるものは、人類ではなく精霊の御業のみ。
光を貫いて、黒が瞬く。もはやそれは呪術では無い。いいや呪術だけではないと評する方が適切だ。
本来呪術は、祝福と表裏一体の想いと信仰の顕現。だが言ってしまえば、想いであるが故に其処にあるだけなのだ。魔術のように指向性を持つわけではなく、ただ其処にあるだけで対象を害しうる現象が呪いと呼ばれるもの。
エルディスは精霊術の一端としてその現象を用いていたに過ぎない。それしか術を知らなかった。
しかし今日、エルディスは見たのだ。
あの何もかも色あせた世界。彼が彼でなく、全てが全てでなかった世界で己は、全く別方向の成長を遂げていた。呪いや祝福には、ああいう扱い方もあるのだと知った。
碧眼が見開き、指が動く。呼気を鳴らす。ふらつく頭をねじ伏せ、ふらりと彼女は立ち上がった。そこには張り詰めた弓の弦のような儚さと、相反する力強さが同居している。
二重に揺れ動く視界の中で、ただ二つを認識してフィン=エルディスは呟いた。
「行こうか、僕の騎士」
指先に練り上げられた魔力が蠢動する。光を遮る黒が、吼えた。
呪術とは現象だ。受動的なものでしかないそれは、世界に揺蕩っているだけに過ぎない。
しかしアレは呪いを、能動的なものとして扱っていた。其れはどうやったのか。簡単だ。人や、物という単体をアレは呪っていない。
アレは世界全てを呪い尽くした上で、呪いによって世界を浸食していたのだ。乱暴的すぎる有様は、到底本来あるべき呪術の形を捉えきれていなかったが。
しかし其れを、エルディスが起源呪術という形式に当て嵌め、新たに昇華させたならば。結果はこうなる。
「食い尽くし、増殖しろ。永遠に」
黒が光を、空間を食らっていく。まるで呪術そのものがエルディスの手を離れて生物として独立したかのよう。当然だった。此の呪いにとって、周囲全てが食らいつくし呪いつくす対象なのだ。
食らい、食らい、食らい。其れを糧に増殖し続ける永遠の黒。
其の手綱を握りしめながら、エルディスはルーギスを見た。
「過去を踏み越えて来てやったよ、ルーギス。酷いな、君は酷い奴だ。埋め合わせは簡単じゃあないぞ」
「……お気の召すままになさってくださいな、女王陛下。全部終わった後で良ければな」
光を食らいながら、エルディスは笑った。顔はやや青ざめているが、碧眼は何時になく冴え渡っている。
視線だけをやって、フィアラートとカリアが横たわっているのを見る。彼女らが目覚めるかは分からない。アレは、例えようのない地獄だった。もしかすれば永遠に目を覚まさない事だって有り得る。
けれど、ルーギスは違うようだった。彼は信じている。其処にあるものが友情か、親愛か、それともまた別のものかは分からないけれど。
だからエルディスも信じた。女王としての威厳を目元に漂わせながら、二人を庇うように足元を鳴らす。
「フィアラート、カリア。君らが起きてこないなら、ルーギスは間違いなく僕のものだ。無論、起きて来ても同じだけれどね。それで良いのなら、寝ていると良い」
長い耳をつんっと跳ねさせながら、そう言った。頬に今までにない、精霊女王としての美しさを飾り付けて。