第六百四十九話『アリュエノ』
玉座の間。俺とアリュエノ以外の何者も立ち上がっていない空間で、吐き出すように言った。
「じゃあ、そうだな。喧嘩の続きをしようかアリュエノ」
――全てが終わってしまう前に、私を止められればルーギスの勝ち。止められなければ、私の勝ち。
アリュエノが言った言葉が耳に響く。彼女は宮殿前で出会った時と変わらない、蕩けそうな笑みを浮かべている。かつてこの王都で共に過ごした頃と変わらないあどけなさ。頬は紅潮し、笑顔ははじけ、瞳の輝きは相手を魅了する。
背景に、凄惨な血みどろを背負いながら彼女は笑っていた。
アリュエノの手から零れ落ちたものはアガトスか。魔人の生命力だけがまだ彼女を生かしているが、虫の息と言って良い。
カリアやフィアラート、エルディス。それにマティアやフィロスも。まるでアリュエノという唯一の主人に傅くように、彼女らは玉座の間に倒れ伏していた。
全員が息は有る。だがそれだけ。
しかし、俺の中の衝撃は少なかった。ブルーダーがあんな状態になっていた時点で、推察の一つも出来なきゃただの馬鹿だ。
口の中で、軽く喉を鳴らした。魔剣が左手の指に吸い付く。
「あら、まだ喧嘩を続けるのね。勿論、構わないけれど。無茶はしちゃ駄目よルーギス。貴方ってばすぐに無理や無茶をして怪我をするんだもの」
奇妙なものだった。彼女は自分の両手を血に汚しながら、ただ俺の心配に意識を傾けている。彼女の中にあるものは、善意なのだろうか。それとも愛情と、そう呼んで良いものなのか。
ならば誰かが言った、愛情は狂気に近しいのだという言葉も強ち間違いではないのかもしれない。
「言っただろう。お前を止めて他の連中も助けるって。その為なら多少の無茶も必要だろう?」
「……やっぱり、他の人間がいるから駄目なのかしら。私は、貴方を傷つけたくなんてないの。それでも貴方は、他の誰かの為に無茶をして歩き出す。
ええ、良いわ。私が貴方を止めてあげる」
アリュエノが軽く指を鳴らす。玉座の間に蠢いていた魔力――悪意とでも言うべき其れらが、一斉に人の姿を取り始めた。
顔は知らない、誰かもわからない。しかし彼らが何をしようとしているのかは分かった。
なるほど、そうか。アリュエノ。お前は本当に、俺の周囲に誰もいなきゃあ良いって思っているわけだ。こうも願われるのは幸福なのか、それとも歪なのか。
悪意の軍勢とも言うべき彼らは、地に伏した人魔達の首筋に狙いを付けていた。詰まり彼女らを生かしていたのは、こうする為というわけだ。
「大丈夫よルーギス。私は貴方と、一緒にいるんだもの」
瞬間、数歩分を踏み出す。瞳が捩れるほどに熱い。左手一本を右腰から放つようにして、身体の軸を固定させ半身を回す。
一閃を、玉座の間に描いた。
悪意という悪意を、斬り殺す。左手一本で十分だった。距離も間合いも、位置取りすら俺にはもう意味がない。ただ意志を込め、振るうだけ。原典が魔剣の形を取って嘶いた。
死ぬ、死ぬ、死ぬ。悪意たちが死んでいく。断末魔すら失って、人の形が崩れていく。
更に一歩を踏んだ。
「――そう。本気なのねルーギス」
「おいおい、鈍くなったのかアリュエノ。子供の頃のお前なら、俺の企みなんて一目で見破ったじゃねぇか」
アリュエノは、呟くように、逡巡するように「どうして」と言った。瞳には困惑の色が浮かんでいる。本当に、俺が何をしたいのか分かっていない様子だ。
俺は無性に胸を掻きむしりたい衝動に襲われた。彼女にそのような顔はさせたく無かった。
けれどそれでも、彼女を無二の悪役にするわけにはいかない。其れは何時だって俺の役目だ。
「私達、何時も一緒だったじゃない」
ああ、そうだな。返事をして魔剣を構えなおす。左手一本だというのに、恐ろしいほどによく馴染んだ。刃そのものが、意志を持ってアリュエノに向いている。
「私、貴方を待っていたのよルーギス」
「待たせた。悪かったよ」
「ええ、とっても辛かったわ……ねぇ、教えて。本当に、どうして?
私達の味方は、私達だけだったじゃない。私達が空腹に苦しんでいた時、この人たちは何をしてくれたの? 貴方が英雄にならなければ、見向きもされなかったのよ。私達が泣こうが、苦しもうが、叫ぼうが。誰も助けてはくれなかったじゃない。私達を救ってくれるのは、何時だって私達だけでしょう。――少なくとも、ええ。私は、そうだったわ。」
アリュエノは、芯から言葉を発していた。困惑と動揺を抱えたように、黄金の瞳を大きくして口を開く。本当に俺の反応が意外で堪らないという様子だ。
孤児の時代が、瞼に浮かぶ。酷い時代だった。良かった事はアリュエノやナインズさんが共にいてくれた事くらいだろう。食い物は勿論、自分の物を持つことなんて出来なかった。時に手に血を滲ませながら仕事をしなければならない。
そんな中、孤児たちが頼れるものといえばナインズさんを除けばお互い同士だけなのだ。同じ境遇であり、同じ泥を舐めた者にしか、彼らは心を開かない。
アリュエノの首筋が傾き、吐き出すように言う。
「大聖堂での日々を乗り越えられたのも、聖女に選ばれてからの日々も、乗り越えられたのは貴方がいたから。貴方が、迎えに来てくれると信じていたから……。
でも――貴方は、見つけられたわけね。私以外に、助けてくれる人を」
黄金の瞳が真っすぐに俺を見つめていた。それは蕩けるような愛情が詰め込まれたのでも、魂を食い散らす悪意が固まったものでもない。
ただ、純粋な瞳。アリュエノは今、こう言っているのだ。お前は、どちら側の味方になるのだと。
答えは一つしかない。
「アリュエノ。俺はお前の味方だ――だが、他の奴らも助ける。彼女らは俺の仲間で、俺は皆に助けられた。言っただろう。例えお前であろうが、彼女らを傷つける事は許さない」
魔剣を握りしめ、右肩に乗せて構える。アリュエノは一瞬瞳を大きく見開き、指を軽く鳴らした。その瞳が深く色を落とし、まるで周囲全てを呑み込まんばかりの様子で喉を震わせている。
アリュエノは両手を広げて、瞳を細めた。
「――分かったわ。私に勝てるつもりなのねルーギス。他の誰も貴方を救ってくれはしないのに」
「そうかね。あいつらは俺と違って紛い無しの英雄だぜ。そう簡単に寝ちまうもんかよ。囚われてるだけなんだろう、アレは」
頬を拉げさせ、地に伏せたままになっている彼女らを見た。全く英雄様がなんて姿だ。無論、もはやかつての頃の見た光景と、今の彼女らが同一でない事は分かっている。
けれど、この世界においても彼女らは十分な事を成し遂げているではないか。やはり彼女らは英雄なのだ。俺は今も、彼女らに憧れる。ならば、例え世界が許しても彼女らを貶める事を俺は許さない。
「ならすぐ起きるさ。俺の英雄達はな」
言い切って、魔剣を横に傾けた。
◇◆◇◆
正気でありながら、狂いを持つというのは異様な気分だった。其れは仮面を被っているようであり、しかし己そのものだとも感じる。
指先が常に熱い。魔力が暴走している証拠だ。視界が定まらない。足元がふらつく。脳が常に刻まれているように痛い。其れに、何より、何より。
誰が何で、何が誰かを判別出来ない。
エルディスにとって、全ての光景が異様だった。木々や草花の固まりが、人やエルフの形をしてうろついているように見える。言葉は殆どが草木が風に揺られる音に聞こえ、聞き取れる事の方が稀だった。
ああ、やはり僕は狂っている。驚くほど簡単にエルディスは納得した。思考はぼんやりとして全く固まろうとしなかったが、自分が異常だという事だけは理解出来た。
何故かと言えば、目の前の動く草花をどうしても壊してしまいたくなるのだ。其れはきっと生き物なのだとは分かっていても。本来動かないはずの彼らが意気揚々と動き、時に笑う様はエルディスの胸を湧きたたせる。
「止めろ、止めろ、止めろッ!」
腕を振るい、木々の固まりを吹き飛ばす。呪術とはまた違う、ただ乱暴に魔力を振りかざす自壊すら辞さない怒涛の奔流。もはやエルディスには、誰かを呪う事も祝福する事も出来なかった。
だから、こんな精霊術の出来損ないしか使えない。出来損ないの己にはお似合いだ。
けれどそんな出来損ないにも、認識できる奴らはいた。
見え方は同じだが、僅かに匂いが他とは違う。英雄と、騎士と、魔術師、そうしてあと一人。
どういうわけかエルディスは彼らと共にいた。時折理由が分かった気にもなったし、まるで分からない時もある。けれど認識が出来る分、まだマシだった。
ふとその中の一人が、エルディスの碧眼に止まる。
理由は不明。意図も分からない。けれどどういうわけか、其れを壊したいと。そう思ってしまった。
指先が震える。壊してはならないと心の何処かで響いている。しかし真逆の考えがすぐに頭に浮かんでくる。
手の平を開く。魔力の奔流を何時もの様に吐き出せば。呆気なくその木々の固まりは吹き飛ぶだろう。其んなことを後悔する事も、躊躇する事も此のエルディスには無い。
止めてくれと、狂気の仮面の中でエルディスは声を漏らす。しかし身体は狂気に誘われる様に、高く手をあげる。後は、振り下ろすだけ。
嫌だ、違う、違うのだ。僕は彼に、こんな真似はしていない。
エルディスの悲痛な叫びが胸中に響く。腕がゆっくりと、振り落とされ。
――彼に、腕を捕まれた。
木々の塊が、こちらをじぃっと見ているのが分かる。瞳の位置すら分からないのに、それでも何故か一瞬魅入ってしまった。
狂気の仮面を被ったまま、エルディスは視線を返した。彼が、言うのだ。
「それで、次はどうするんだ――女王陛下」
ふらついた足元を今一度踏みなおし、喉を鳴らす。
ああ、そうだった。
フィン=エルディスは明確に腑に落ちたように、頷く。己はやはり、こんな者ではなかった。己は彼の女王だ。それが故に此処にいるのではないか。それ以外の理由などない。
精霊術の魔力を視界に集中させながら、エルディスは呼気を鳴らした。
「じゃあ行こうか、僕の騎士」
碧眼が、勢いよく見開かれた。