第六百四十七話『未来を望む』
戦斧が落ちる。首筋に確かな殺意が走った。自らの終わりをブルーダーは確信する。悪意は意志を失ったものから食い散らすのだ。
深い、深い絶望に突き落とされる感触。それはいっそ心地よい眠りにも似ている。
だが瞼が落ちそうになる間際、記憶にない記憶の中でブルーダーは見た。
今とは違う世界。両親も妹も失った孤独な己に、ただ一人、友人がいた。
そいつは何時も人を食ったような表情をして、自分だって碌な状況じゃない癖に言うのだ。顔に見覚えがあり、聞きなれた声だった。
『行こうぜブルーダー。失敗したならそれはそれ。上手くいったら、良い鹿肉でも食いに行こう』
ブルーダーの脚が、震えた。
ああ、そうか。あちらでも、こちらでも。貴方は近くにいてくれたのだ。
両脚に渾身の力があった。相手を殺す為ではなく、ただ跳びのく為だけの力。それで何が変わるかは分からない。ただ己の死を数秒引き延ばすだけかもしれない。
だがそれでも――絶望するにはまだ早い。
悪意の軍勢、その一角から突き出された斧は、ブルーダーの太腿を深く切り裂くだけに終わった。首はまだ繋がっているというだけ。
しかしそれで十分だった。
「――舐めた真似を、してくれるじゃない」
入れ替わりになるように、幻像のヴェスタリヌを弾き飛ばす熱線が走る。倒れ込んだブルーダーを背にするようにしながら、彼女は立っていた。
宝石アガトス。いいや、正確に言うならばその影。しかし本人と見紛う気迫と、そうして殺気が全身から滲みだしている。
その身体からは、片腕と片脚が失われて影のように黒く歪んでいる。それは自らの手によるものだ。自ら半身を失って、僅かな理性をアガトスは獲得していた。しかし瞳はそんな喪失など一切を感じさせない気迫に満ち溢れている。
「よくも」
唇が、大きく歪む。宝石の如き瞳が、悪夢の如く凶たる意志を発露した。アリュエノにのみ、視線が注がれる。
「よくも私に、あの子を踏み躙らせてくれたわね。よくも、あの子を失わせてくれたわね」
「あら。私ではなくて、貴方がした事じゃないの?」
アリュエノは、本当に何気ない。無邪気さすら感じさせる声で言った。しかしだからこそ、背筋を這いまわるような悪意に満ちている。
「心変わりするだなんて、恐ろしいものね」
「――よく言ったわアルティアの眷属。私の意志が必ずあんたを殺してあげる。必ず、あんたの息の根を止めてあげる」
宝石が煌めく。憤激とも、怨念とも言い切れない熱線の嵐。本来なら城そのものを崩壊させかねない熱が悪意の軍勢へと撃ち込まれる。それでいて尚軍勢を圧しきれないのが、アリュエノの脅威の証明と言えるだろうか。
その合間だった。アガトスが軽く足先で床を叩く。ブルーダーはそれが自分への合図だと、意識せずに分かった。顔をふいと上げる。アガトスと視線があった。
「勘が良いのね。よく聞きなさい。そこの三人は、私達ほど簡単じゃないわ。私はただの影、あんたは例外。あいつらは蹴り上げたって起きてきやしないでしょう。いいや、それより早く自分で自分を殺すかもね。
だから、あんたが動きなさい」
アガトスの唐突な呼びかけと、信じていいか分からない言葉の羅列。しかしすぐにブルーダーは反応した。
「……分かった」
「物分かりが良いのね。良いことよ。言いたい事は言ったけどね、アルティアを殺せなかった私達に、アルティアの眷属は殺せないわ。なら殺せる奴に殺させるしかない。あんたは、私が今から言う事をよく覚えて、あいつに伝えなさい。そうじゃなくちゃあ、あいつも負けちゃうでしょうから」
二言を、アガトスは言った。ブルーダーにその意味がはっきりとは分からなかったが、しかし単語を覚える事は出来る。聞き返さずに頷き、一つを聞いた。
「他の奴らは、どうする。放っておいたら殺されるんじゃないか」
「殺されないわ。殺すならとっくの昔に出来ていたもの。私やあんたも起きなきゃ無事だったわよ。それに先に床に転がされていた奴らだって死んでない。理由は分からなくたって良いわ。ただあの女が、悪趣味なだけだから」
そう、悪趣味だ。何故敵とも言える人間を殺さないのか。手にした勝機を確実なものにしないのか。理由は一つしかない。
アガトスは辟易するようにため息をついた。いいやしかし、それも一種の純粋さと言うべきなのか。純粋さとは美しいものだが、此れでは余りに救いがない。アリュエノだけではなく、誰もにだ。
運命という名のものがあるのなら、其れを知っているものは、今此の場を見て何というのだろう。
「だから、行きなさい。人間なんでしょ、最後まで生きるのが義務よ」
「……だがそれじゃあ、あんたは」
ブルーダーの茶色い瞳が、いやに輝いてアガトスには見えた。魔人が人間に心配されるなど、落ちぶれたものだ。
しかしそれを屈辱と思わず、愛らしいと思う己もおかしくなったのだろうか。いいや、そもそも人間に美しさを見出した時点で、もう自分は変貌していたのだ。アガトスは優し気に笑みを浮かべて。ブルーダーに言い聞かせる。
「誰の心配をしてるのよ。私は殺せないと言っただけで、殺されるとは言ってないわ。それに私は魔人よ。肉体を失っても死にはしないわ」
嘘だった。今のアガトスはただの影。本来の彼女はすでにヴリリガントとの一戦で原典を喪失している。今はただ、僅かに残った影が映り込んでいるだけ。
「あんたが戸惑えばその分、他の連中が死ぬ可能性があがる。だから、早く!」
ブルーダーは、それ以上を聞かなかった。恐らくは性根が素直なのだろう。魔人という存在を買い被っているのかもしれない。太腿から血を垂らしながら、転がるように玉座の間から飛び出していく。
ため息を、アガトスはついた。目つきが細まる。
「醜いわね。何て醜いの」
自分の身勝手で、他人に勝手に命を背負わせる。それは美しい行為ではない。託す方は良いかもしれないが、託された方はたまらない。それを繰り返す事になるとは。
きっとレウは怒るだろうなとアガトスは思った。そうして、悲しんでもくれるだろう。それを嬉しいと思うべきか。後悔を抱えるべきかは分からない。
けれど、所詮己は影だ。今を生きる者にはなれない。彼や彼女らは違う。未来がある、生きるべき安息があるのだ。
その為に、今一度渾身を振るおう。
「ごめんなさいね。貴方と話したいことが、伝えたいことが、数え切れないほどあったのだけれど」
胸元の宝石に、指先を沿える。一瞬だけ目を瞑って、すぐに指を離した。何て、自分勝手。アガトスは思わず自嘲した。
けれど、だけども、それでも。
彼らは、彼女達は此処まで来たのだ。今にも消えてしまいそうな吐息を必死に燃やして、絶望をねじ伏せて此処にいるのだ。
命を賭してあがくその姿は愚かしく滑稽だ。絶望に心を砕かれ泥を啜る有様は醜悪だ。一歩間違えれば、その先に終わりが待ち構えていた事は記憶に無い記憶が証明している。彼らは、本来は幾つもの終焉を迎えているはずだった。
しかし此の今が、その醜悪と愚かしさの先にようやく掴み取った真実であるならば。
――何と、美しく愛おしい。
「悲哀も、苦悶も、諦念も、もう十分。悲劇にだって、救いはあるものよ」
熱線の嵐が、徐々にその出力を落としていく。かつての時代と同様であった魔力も、大部分を失った。悪意を貫く力は無い。
合間から、アリュエノの黄金が見える。周囲に倒れ伏した人間達にも目配せをして、アガトスは笑みを浮かべた。
「覚えていて、レウ。私貴方が大好きよ。だから――貴方が生きる為に道を切り開く事くらい、何てことないの」