第六四十話『其れは我が理想の姿』
黒剣が雷光を纏う。勇者の力に呼応するが如く、雄々しい雷が宮殿の一角を食らった。
しかし如何に勇者が強靭無比な存在と言えど、相手取るは人類の天敵たる魔人。彼らは常人であれば指先一つで捻りつぶせる。本来からして、人類が勝ちえぬ者達だ。更には勇者は手負い。体躯の中に呪いすら巣くっている。状況だけを見ればどちらの態勢が有利かなど、問うまでも無い。
だからこそ、今この場を指して言える事があった。リチャード=パーミリスとは規格外の存在だ。
「――『雷』」
短い呟きと同時、雷光が視界を走る。それを見てガルラスは思わず舌を打った。紅蓮の槍を横に構え、指先で機を図る。瞬きすら許されないのは十分承知している。
来る、来る、来る。――来た。
牙の如き穂先が、虚空を穿つ。空気そのものを打ち砕いてしまうガルラスの一撃が、リチャードの刃を掠めた。
リチャードの超人的な速度に反応出来たのは、まさしくガルラスが有する獣以上の闘争本能あってのものだろう。
だがガルラスの槍は、あくまで後手を踏む事しか出来なかった。反応を可能としただけで、リチャードの速度に追いついたわけではない。
其の事実が勇者との相性を致命的に悪いものとした。ばちり、ばちりと雷火が鳴る音が、ガルラスの耳元で聞こえた。
「魔人は厄介だよなぁ、おい」
すぅ、とリチャードの刃が騎士鎧の隙間を縫う。咄嗟に身体を捩って態勢を立て直そうとしたが、腹を斬られた感触が激痛と共にガルラスの脳髄を焼いた。血が沸騰し、全身から魔力を吐き出すような衝撃。呼吸すらも傷を抉り込む。
間違い無くただの刃ではない。勇者の刃は、魔性を殺す為にある。傷は魔力を滅ぼすように浸食し、刃を振るう度にその鋭さは増していった。
「斬り捨ててもそう簡単に死にやしねぇ」
リチャードはガルラスから刃を引くと、踵を返して背後に迫っていたアガトスの熱線を斬り裂いた。宝石の如きアガトスの白眼が、ぐいと歪んで勇者を睨みつける。
――勇者が魔性に敗北する事はない。
歴代の勇者を知っているアガトスは、そんなもの強がりに過ぎないと認識していた。勇者の称号を持つ者は、多数ではないが今までだって複数輩出されている。しかしその最期は魔性によって殺される事が常だった。
何故なら彼らは人に愛され、人の希望であるがゆえに、人の為に戦い続ける。そうして人類が戦う相手は、大半の歴史において魔性だった。
彼らは力及ばぬか、もしくは力尽き果てた先、必ず魔性と戦い敗北を喫して死ぬのだ。
ゆえに、今リチャードが有する魔性を滅ぼす為の権能は、また別の所から生まれたものだろう。
「ガルラス」
「おう。分かっちゃあいるぜ宝石。よぉくな」
アガトスの珍しく短い一言。ガルラスは勢いよく頷いた。
本来ならば、此処で死力を尽くして戦うべき相手ではなかったかもしれない。一度撤退するのも正しい選択だろう。だが理想の騎士であろうとするガルラスが、そんな選択が出来るわけがない。だからこそ、彼は原典を有するに至ったのだ。
猛獣のように雄々しく、騎士のように冷徹に。肌を震え上がらせるほどの魔力を全身に込めて、ガルラスは言った。
「――原典解錠『騎士章典』」
騎士鎧が魔力を吐き出し、槍がおぼろげに発光する。
ガルラスの原典の神髄は、現実に理想を重ね合わせる事にある。本来有り得ぬものを、有り得るものに。届かぬはずの地平に、足を届かせるために。そういった性質のモノ。だからこそ、分かった事があった。
リチャードもまた――己と同類だ。過去は知らない。何があったのか興味すら持たない。過程を削り取って、結論だけをガルラスは知った。
ガルラスの原典を視て、リチャードの目つきが鋭くなる。冷静に間合いを図りながら、リチャードはとん、っと足を鳴らした。
「ガルラス。どうしてお前はそうまで拘るかね。街の一つや、二つ。多少様子が変わったところで何が違う。国は国だぜ」
「ぬかせよ。全部自分の好きなように上塗りして、それで守ってやったなんざ笑い話にもならねぇ。俺こそ疑問だぜ。どうしててめぇはそうも、アルティアを信じていられる」
「信じる、信じないって話じゃあねぇな」
雷光を帯びる黒剣を構えながら、リチャードは気軽に言った。そこには疑いも動揺も無く、ただ確信だけがあった。
「聖女には才能がある。よく言えば統治、悪く言えば支配のな。俺にはその手の才能がねぇ。だから替わって奴にやらせる。良い手だろう。
――良いか小僧。俺の才能も、お前の才能も所詮は小さなもんだ。戦って戦って、何時かはくたばるだけの才能さ。魔性を殺す事は出来ても、魔性に殺される人間を無くすことなんざできやしねぇ」
ばちん、っとひと際大きく雷火が鳴った。リチャードの言葉と感情に、呼応しているかのようだった。声に色が乗っている。それは、魂から捻りだした声だった。
何処か、何かを思い出すかのように言葉を続ける。
「よくある不幸、ありふれた結末。そんなもんも全ては人間の営みだ。全員好きにさせてる限り必ず起こるのさ。そいつを無くそうと思ったら、何でも使わなきゃならねぇわな。だから、お前らには負けてられねぇんだよ」
リチャードは一瞬だけ瞼を閉じて、開いた。瞳にはもはや何者も受け付けない、過去と才に囚われた妄執が宿っているように見えた。
「行くぜ。――原典解錠『勇者神髄』」
雷火が、燃え上がる様な勢いで吹きあがった。
◇◆◇◆
「何を、するのよッ!」
ネイマール=グロリアは、上下に揺れる肩を隠しもしないで叫んだ。握りしめた弓と剣に、汗が滲んでいる。しかし逸る気を抑え込む事がどうしても出来なかった。
目の前では、もはや自分が生涯到達出来ないだろう戦役が行われていた。戦っているのは、騎士と、己が師――であった者。
互いの槍と刃は一部の隙も無く競わされ、ネイマールでは視線で追う事すら出来ない。
しかし、それでも。ただ其れを見ているくらいなら。師が侮辱されたまま俯いてしまうくらいなら、無謀でも戦って死んだ方が良い。
事ここにおいて、ネイマールの中に戦士の魂とも言うべき感情が宿り始めていた。
「ふざけてるんじゃないわよ。あんたねぇ、ただの人間の癖に入ってこようとして。昔の私なら見捨ててたわよ。良い? 魔人同士の戦いに、人間のあんたが策も無しに手だしできるわけないでしょ」
そのネイマールを押しとどめたのは、宝石アガトスだ。もはやこの場は魔人同士の戦役。人間が介在する予知などないと、そう告げる。ぐ、っと思わずネイマールは歯噛みした。理性では分かっている。言われずともすでに知っている事だ。けれど、それでも。だが。
「それでも……っ! ただ見ているだけなんて出来るものですかっ!」
乱暴に細い腕を跳ね飛ばそうとしたが、アガトスの手は決して離れない。この場で唯一の人間であるネイマールが、魔人を振り払えるわけがなかった。
アガトスの瞳が輝く、じぃとネイマールに顔を近づけて言った。
「馬鹿ね。誰が黙ってろって言ったのよ。あんたには当然働いてもらうわ。この場に居合わせたのが運の尽きね」
ふわりと宝石を浮かして言うアガトスの言葉に、思わずネイマールは呆気に取られた。身体が弛緩して、弓を取り落としそうになる。此の魔人は、つい先ほど己に手だしできるわけがないと言ったばかりではないか。
「策が無ければ、って言ったでしょう。あの男――アレは本当の勇者に成り果ててる。魔人と化して尚ね。だからきっと、本当に私達じゃ殺せない。どう足掻いても死なないはずよ。おかしいと思ったわ。満身創痍だったのに、まるで倒れやしないんだもの」
あんた、因縁があるんでしょう。と気軽にアガトスは聞いた。
因縁と言われると、素直に頷きがたいものがあったが。しかしアガトスはネイマールの表情を見て察し取ったのだろう。
「私達にアレは殺せない。だから、あんたが奴に最期をくれてやるのよ」
言われて、思わずネイマールは心臓を鳴らした。己が、師に最期を与える。勿論それを考えて動いていたのだけれど、実際にこの刃が届くかと問われれば、返答に詰まる。
喉がごくりと震えた。
数秒が、永遠に感じられる。
「……分かったわ。けど、私に剣の才能はないわよ」
「あんたまでそんな事を言ってるわけ?」
アガトスは、両肩を竦めて大きくため息をついた。そして心底くだらないと告げるように、言葉を吐き出す。
「あんたも分かってないわね。確かに、才能は美しいわ。其れがあるべき世界で輝く事もね。けれど、才能が無い事が即ち醜いわけじゃあないでしょう。それともあんたは、才能に操られて生きていくの? ならあんたは何で物を考えて暮らしているわけ。才能の乗り物じゃあないんでしょう。
教えてあげるわ。美しいっていうのは、何を想って、どう生きたかで決まるのよ」
宝石が輝く、ぎらぎらとした光は彼女が本当に生きているかのよう。ネイマールは呼吸をするのすら忘れて、宝石の輝きを目に焼き付けた。そうして、剣を片手に持ちながら口を開く。
「――分かったわ。教えて、私はどうすれば良いかを」