第六百二十話『信仰の争い』
正義と悪の戦いは意志の争いであり、雷と風とが矜持の争いであるならば、使徒と宝石との戦いは信仰の鬩ぎ合いと呼んで良いだろう。
レウの身体が使徒ジルイールの蒼い魔力に貫かれ、空から零れ落ちていく。白い髪の毛が揺蕩い、もはや彼女に浮き上がるだけの力がない事を示していた。
口元から血が込み上がってくるのが分かる、手足に痺れに近い痛覚があった。この感触にはレウは覚えがある。再び魔力が枯渇しかけているのだ。
当然だった。複数の存在を宝石に封じた上、宝石を操舵して宙を駆け回ったのだ。廃村で失われた魔力はそう簡単に戻りはしない。
だからレウはこのまま墜落する事を選んだ。無理をして空を駆け回ろうとすれば、気を逸してしまいかねない。奥歯を食いしばる。大丈夫、痛みには慣れている。
殆ど受け身すら取れない無防備な状態で、レウは煉瓦造りの道に墜落した。
身体が軋む、明確に落ちてはいけない角度で落ちてしまった。人間ならまず間違いなく即死だろう。
しかし、魔人の身体はただ在るだけで人間を超越している。痛みはあるが、機能に問題はない。むしろ危ういのはそれよりも――。
「不遜な。主の王都を踏み荒らしたばかりか、未だ邪魔をしようと侵入するとは」
ジルイールの魔力が、空中を迸る。魔人の魂が次々に身体の破片を構築していき、レウより少し大きい程度の身体が出来上がった。廃村で現した姿そのままだ。
蒼い髪の毛に、瞳には狂信の色。魂だけとなった姿は朧ではあるが、それでもアルティアの魔人としての畏怖をその身に纏わせていた。
「しかし分かりかねますね。どうしてお前のような者まで、我が主に反逆しようとするのです」
奇妙なものでも見るように、ジルイールは転がったままのレウに視線をやった。もはや彼女に抵抗できるだけの力がないと理解しているのか、それとも近づく事による最後の一矢を警戒しているのか間合いを取ったままだ。
レウは全身の痛みよりも、ジルイールの視線に恐怖を覚えていた。
あれはただ見ているのではない、憎悪すべき敵を睨みつけているのでもない。視線でもって魂を貫いている。
「本当に、分かりかねます。お前は弱き者ではないですか。だというのに、どうしてそちら側にいようとするのです」
ジルイールは重ねるように言った。どういうわけか、信仰のみであった瞳が僅かに歪む。
信仰以外の他の感情が、彼女の瞳からあふれ出そうとしていた。それは戦慄させる程の怒気だ。
憤激、憤慨、憤怒。言葉で到底言い表せない感情が、ジルイールの瞳を覆っていた。
「どう、して……? 意味が、わかりま、せん」
「――我が主は、弱き者に手を差し伸べてくださる。今の世を見ればよろしい。力無き者は虐げられ、奪われ、踏みつけにされるだけ」
権力にしろ、暴力にしろ、財力、魅力といったものにしろ。力を持たぬ者の末路など知れている。いいや、強者は思い知らせて来た。
弱き者は頭を垂れながら、不遇の人生を送り続けるしかない。閉塞した世界に押し込まれ、歩く道もない世界で生きねばならない。
ジルイールは口を開きながら、ようやく身体を起き上がらせたレウを見る。
「道を選べるのも、戦う事が出来るのも。それは強き者の特権でしかない。――母すらも奪われたお前はよく知っているはずでしょう」
レウの瞳が、見開かれた。何故、という言葉は出てこない。不思議と彼女の瞳はそういった類のものなのだと理解した。
魂の記録すらも射貫く瞳が、魔人ジルイールの本領なのだ。
「この世界では力を持つ事が第一。お前は今宝石として力を持った。だから、そちら側にいるのですか? かつて母を見殺した強者共と肩を並べ、笑みを浮かべて生きるのが良い生き方だと?」
「……っ、ち、がう」
「何が違うと言うのです」
足元をふらつかせながら、レウはジルイールを見た。
数秒の空白の後、レウの悲痛な声が喉から絞り落とされた。殆ど魔力を失って、息も絶え絶えに言葉を漏らす。
「私、だって……思った事は、ありますよ。どうしてあちら側じゃないのか、って」
あちら側。平凡な日常、高望みではない幸福、普通の村娘としての日常。
もしもあちら側にいたならば、其処にはあったはずだ。優しい両親がいて、暖かい食事があり、笑って暮らしていける日常が。
嫌な事や苦しい事だってあるだろう。それでも大丈夫。父さんや母さん、信頼できる友達に話を聞いてもらって、きっと乗り越えていける。明日には笑いあって、また歌遊びでもしながら畑仕事に精を出すのだ。
時にはお祭りに参加して、飴だって買ってもらえるかもしれない。年に一度くらいは綺麗な服だって着れるだろうか。
もしも――レウが平凡な側にいれたならば。与えられていたはずのもの。結局、彼女には与えられなかったもの。
レウの生涯は舞台裏から、表舞台を見続けるだけのものでしかなかった。
「だから、私は貴方の全てを否定なんて、出来ない」
か細い声で、レウが言う。
もしかすれば、ボタンを一つ掛け間違えたならば。レウはジルイールと同じ事を語ったかもしれない。否定など、出来るわけがなかった。
「――――」
ジルイールは言葉を発しなかった。時に舌を武器とする彼女が驚くほどに沈黙を保っている。目を細め、ただ何かを思い出すように唇を噛んでいた。
「でも……私は、アガトスに会えたから。フィアラートさんにも、ルーギスさんにも。他の人にだって。だから違う。貴方は、勘違いしてる」
両者の違いがあるとするならば。ただ、誰と出会い何を知ったか。
レウは知った。世界は力を絶対などとしていない。それを絶対とする人間がいるだけだ。美しいものに出会った彼女は、絶望をしなかった。
ジルイールは知った。この世において力は絶対だ。ならばもはや、それを変えうる者に仕えるしかない。絶対者に出会った彼女は、それゆえに絶望した。
「そうですか」
ほぉと、一息を吐いてジルイールは言った。張り続けた肩ひじが緩んでいる様子が、陽光に照らされていた。死雪の中、僅かに射した日光が両者を包む。
「では思い違いを呑んだまま、此処で滅びなさい」
「――嫌です。私は生きて、生きて、生き続けます」
レウは宝石を指で握りしめながら、唇を強く引き締めて言う。
ジルイールもまた、唇を嚙みながら指先を跳ねさせた。
本来彼女は魔人としては低位に位置する。かつて精霊神の元で蛮勇を振るった『宝石』とは比べるべくもない。しかし魔力を枯渇させた相手であれば話は別だ。
無論、ジルイールも廃村にてカリアの一撃を受け止めている。その身が魂であればこそ壊されることはなかったが、それでも風前の灯である事はレウと同じ。
本来であれば、ジルイールは退くべきだった。レウはもはやろくに動けず戦力にはならないだろう。だがジルイールは生きている限り敵陣を翻弄できる。彼女が有する魂の捕獲機能は、死者ですら自らの陣営に引き込める奇跡。
だがジルイールは退かなかった。彼女はこの時初めて自ら勝利を望んだのだ。
今まで彼女が望んでいたものは、あくまで神の意志に沿う事のみ。それ以外の事象はない。
今初めて勝利を望んだのは、レウと名乗る魔人が許せなかったからだ。彼女は弱者として産まれ、育ち、生きた。己と変わらない。それこそジルイールと同一であるはずだ。同じ想いを抱いて良いはずだ。
その彼女が主の信仰を否定するのであれば。否定して尚幸福であると主張してしまうのであれば。其れは己の信仰の否定に近しい。
――勝ちたい。お前が間違っているのだと、否定してやりたい。
ジルイールの渾身の魔力が、指先に集中する。彼女に原典を用いた攻撃方法はなく、また最低限の魔術の心得しか持たない。故に用いれるのは、精々が魔力の矢。
しかしそれでも、今のレウを縫い留めるには十分だ。虚空を撃つように、魔が射出される。
「――ッ!」
たかが、一矢。今までレウが経験し、そうして視て来た偉業に比べれば余りに儚い。魔人の魔とは到底思えない有様だ。
だが疲労困憊のレウには十分な脅威。紛れもない殺意が込められた一矢。
レウが宝石を構える。アガトスの残り香を握りしめるように指に力を込めた。
足先は震えている。吐息が漏れる。もはや避ける事も出来ない。
「――ぐ、ぅぁ!?」
魔力の矢が、レウの片腹を貫いた。それだけでも身体の核を抉られる衝撃だ。こんな戦い方をしていれば、アガトスに怒られてしまうだろうか。しかし仕方ないではないか。周囲には、身を削って戦う人たちしかいなかったのだ。
それに、私だって――彼らと共に戦いたい。
宝石が、レウに許された最後の熱線を放つ。白い閃光は目に止まらぬ速度で宙を駆け、光を放つ。
宝石が宝石たる為の光。至高たるバゥ=アガトスが、最も美しいと認めた輝き。
それは彼女の一閃が、ジルイールの体躯を貫いたのと全く同時の事だった。
――レウの体躯は、背後から魔の刃に貫かれていた。
「……っ、己は、弱いですから、ね」
ジルイールの声が、レウの耳元で囁かれる。正面で身体を打ち砕かれるジルイールと、同じ姿が其処にあった。
彼女の身体は、肉ではなく魂に過ぎない。魂であればこそ、ただ一つに留まらせず空間の中に偏在する事は出来る。
「汚い手も……思いつこうというものです」
ジルイールは、殆ど血を吐き出すような様子で言った。魂を分割した彼女も、傷痕は大きい。しかもその片割れはレウの熱線に砕かれたのだ。
だが、それでも。
「――お前が滅びなさい。弱き者よ」
彼女が振るう魔力の刃は、レウの心臓を貫いていた。