第六百十八話『王都乱戦』
煌々と日が登る。死雪にも関わらず強烈な日光が大地を照らすのは、今日この日の戦いは、未だ終わらぬのだと告げるようだった。
一滴の宝石が、太陽から零れるように空を滑る。
宝石魔人レウは、指と髪の毛に絡めるように色とりどりの宝石を煌めかせた。彼女の白い髪の毛が余計に宝石の色合いを際立たせていく。
彼女は細く小さな指で器用に宝石を操り、一つ、また一つと大地に放り投げる。決めていた事と言えど、その瞬間には不安が心を過ぎっていた。
宝石に込められたのは人間や魔性の仲間たち。もしや自分は、彼や彼女らの命を投げ落としてしまっているのではないかという気にすらなる。
もう一つ気がかりなのは、あの赤銅竜の気配が唐突に消え失せた事だ。あれほど大きくて、ごうごうと燃える炎のような存在感を漂わせていたのに。ひゅぅ、と風がふいた様子で消えてしまった。
まさか。
レウは胸中に芽生えた悲観的な考えを否定する。あの竜に限って、そんな結末はあり得ない。
彼女は何時も逃げ腰で及び腰で。だというのに奇妙な親し気と憎めない愛嬌があって、それでいて時折見守ってくれているような――。
何にしろ、自分が死ぬような選択をしてしまう性格ではないはずだった。彼女に預けられた宝石だって未だ手元に残っている。
レウにとってアガトスが己を導いてくれる姉のような存在であれば、彼女はいっそ友人のような存在だった。
だからこそ、分かっていても胸がざわめく。まさか、いやしかし。感情が何時までも百面相を止めようとしない。
ふぅ、と一息をついて考えを振り払う。今は、憂慮に思考を奪われるべき時間ではない。己がすべき事を成さねばならない。
眼下を見下ろせば、王都アルシェは何時旧王国軍に攻め寄せられてもおかしくない状況だった。戦役の道理など何も知らないレウでさえ、城壁の一角が崩れ落ちた有様は惨憺たるものに思える。
不幸中の幸いと言えるのは、崩壊した城壁周辺の大地がひび割れ陥没している事だろう。底が見通せないほどに深く、何より家屋数件分の大穴が開いたそこは、如何な兵隊達といえども容易く進行は出来ない。大軍であるからこそ、暫く身動きは取れないだろう。
これならば、上手くいくのだろうか。
廃村で語られた言葉を、レウは思い出していた。
――最後まで目を覚ます事の無かった彼が、ようやく重い瞼を動かしたのはつい数時間前の事。
聖女マティアと銀髪の剣士カリアと共に、魔剣を腰に携えて何時もの様子で彼は立った。何故三人が一緒だったのか、何故マティアとカリアは落ち着かぬ様子だったのか、レウにはよくわからなかったが。それは置いておくとして。
起きてすぐにマティアから今の情勢を聞いた彼は、険しい眼をますます鋭くして、言ったのだ。
「――分かった、行こうじゃあないか。どう足掻こうと決戦だ、分かり易くて良い」
その様子を思い出してレウは唾を呑み込んだ。じくりと、棘でも指されたように肌が鈍い感触を覚えている。
率直に言えば、レウは時折ルーギスに恐怖を感じていたのだ。それは彼が怖いというのではない。ただ、全てを呑み込んで覚悟したかのような表情が怖い。
まるで殺す事と殺される事全てを同意してしまったような。本能に訴えかける強烈な忌避感情を覚えさせるのだ。
戦場とはそういうものなのかもしれないが。ふと瞬きをすれば、この戦いの後にでも彼が死に絶えてしまっていそうで、レウは怖かった。
宝石を配置し終わり、レウは宙を滑空して最後の目的地である宮殿を目指す。後は宮殿の者らと合流さえすれば、レウの役目は終わる。
そのはずだった。
中空で、まるで閃光が走るように蒼が瞬く。あふれ出る魔力の固まりである其れは、レウの身体を白々しく貫いて、彼女の動きを停止させた。すぐに身体が落ちていく。
意識が混濁する。何が起こったか、というより今何が出来るかをレウは直ぐに考えた。宝石を操って空を飛ぶ事は出来ない。身動きをして受け身を取るのも困難だろう。
だからこそレウは、唯一動きうる瞳だけを動かした。例え自分の身体が墜落しても、痛みはあれど壊れはしない。魔人の身体がどれほど丈夫かは実証済みだ。
今は、己を攻撃した敵をこそ追跡すべきだった。瞳がぐるりと動き、一瞬で世界を俯瞰する。
しかし、何処にも敵は見当たらない。新王国軍の兵がまばらに見え隠れはしているが、彼らがレウを、魔人を射ち落とすような魔法は放てまい。
ぞくりとした。まるで全身が凍てついた様な感触があった。首筋に指が絡みつく。
「愚かな。全ては無駄に終わるのですよ」
女の声だった。蒼い髪の毛をはためかせながら、墜落するレウに絡みつく彼女には、全身がなかった。ただ声と身体の一部だけを中空に揺蕩わせて其処にいる。眼が宙に浮き上がり、ぎょろりとレウを見た。
「されどこれ以上、主の邪魔を許す程我々は寛容ではありません」
使徒ジルイール=ハーノは、魂だけの身体をもって、宝石を大地に縛りつけるが如く囁いた。
◇◆◇◆
燃える、燃える、燃える。世界が燃える。
フィアラート=ラ=ボルゴグラードの魔術によって、城壁の一部は炎の海と化していた。燃え行く炎の輝きが、彼女の瞳を照らしている。表情は恍惚としてすら見えた。
どうして己は炎を用いる魔術が好きなのか。かつて自問した言葉を、今一度フィアラートは問うた。
其れは己の昂ぶりを抑える為の儀式でもあったし、己の感情が揺れ動いていないかの確認でもある。
結果は明瞭。一欠片たりとも狂い無し。
彼が、炎の中に立っていたからだ。燃え盛り蠢く炎の嵐の中、彼が生きていたからだ。彼との始りは炎だった。
思えば、フィアラートの始りも炎だ。いいや、燻りと表現した方が真っ当かもしれない。
振るわぬ才能、過ぎ去る穏やかな日々。彼に出会う前のあの日常は、燻り続けた鈍色の時代と言える。
彼女は自身で燃え盛る事は出来なかった。それこそ、神の描いた脚本の通りに事が進む迄は彼女に運命は訪れない。
だから彼がフィアラートに与えたのは、運命ではない。一片の炎だ。燻りなど二度と起こせないほどの熱量。
いいやそういう意味で言うのならば、彼が炎を与えたのはフィアラートに限らないのだろう。
一介の冒険者に過ぎなかった彼の道筋にあったモノは、勝利と歴史の残骸。その背中に焚きつけられた人間がどれほどいたものか。
その第一人者が、今此処にいる。
「ヘルト。死んでないんでしょう? 無駄な事は止めにしましょうよ。馬鹿らしいわ」
炎の海にぽつりとフィアラートは投げ込んだ。答えがある事を、確信すらしている。
黄金の頭髪がはらりと炎の中に浮かび上がった。
「驚きました。これほどの魔術が展開できるとは、ボルヴァートの宮廷魔術師でも届かないでしょう」
「そう。ありがとう。余裕綽々で言われても嬉しくないけど」
白金の剣が一振りで炎を掬い上げる。魔を纏った様子は無かった。炎を断ち切ったのはただ異様な速度と、そうして技術だ。静かすぎるほどの有り様で、彼はフィアラートの魔術を斬獲していく。
無論、フィアラートもそんな事は理解しきっている。黄金の英雄が、この程度の炎で打ち倒されるはずがない。
「じゃあ、これはどうかしらね」
ヘルトが炎を切り裂き、顔を上げた瞬間だ。中空には巨大な槍が四本舞っていた。
業炎を纏い、蒼天の空を焼き尽くす勢いで、炎の槍が鎮座する。巨人が振るう槍と言われても何ら違和感がないだけの巨大さ。
フィアラートの収奪の魔眼が瞬いた瞬間、それらが大英雄一人に向かって殺到した。炎で焼き殺そうとしているのか、質量で押しつぶそうとしているのかすらもはや分からない。人一人をこの世から消滅させるほどの熱量があった。
四本の炎が、城壁へ向け射出される。人は勿論、鉄鋼や城壁もそのまま失われかねない勢い。
――しかし、されど、だが。
黄金の大英雄は其処にいる。
「御見事」
美技か魔技かはもはや分からない。しかし炎の四槍が自らと城壁とを穿ち貫く瞬間に、ヘルトは間違いなく其れを両断した。大英雄の魂は、魔性に決して敗北しないのだとでも言うように。
剣がただの鉄塊でないのは確かだが、それでもこれらを断ち切れるのは間違いなく彼の技量だろう。
だから、フィアラートは指を鳴らした。
「――分かってるに決まってるでしょうが。そんな程度。炎だろうが水だろうが、斬れるものは貴方は斬っちゃうものね。でも果たして其れが正解かしら?」
白金の剣によって両断された四本の炎槍。
瞬間、それらが爆散する。自らが切り刻まれる事を認めていたような潔さで、周囲を炎の渦が呑んだ。
それらはもはや数多の粒になった炎の豪雨だ。雨は例え両断できたとて、剣一つで全てを切り刻む事は不可能。彼が、人間であるならば。
「此れで終わってくれれば一番良いんだけれど。次の手をご所望?」
フィアラートは黒い髪の毛をかきあげながら、熱い吐息を漏らした。まるで心臓そのものを包み込むように、彼女の全身の魔力が呼気を荒げていた。