第六百十五話『我は此処にあり』
聖女アリュエノ――アルティアの一瞬の動揺と瞠目。決して乱れる事の無かった吐息が震え、目元が揺らぐ。
かつて魔性を前にして一度も隙を見せた事は無かった彼女が、今この時揺れ動いてしまった理由はただ一つ。眼前にあるオウフルの姿だ。彼女が愛し、また彼女を愛した者。
あり得ないと分かっている。此れは本物ではなく、シャドラプトが変貌した姿だ。その証拠に、此のオウフルは過去の姿のもの。今の彼ではない。
だが分かっていても、意識が断絶してしまった。殺意そのものであった指先が押し留まり、見惚れるようにアルティアが呼気を止める。
その僅かに出来た絶好の機会を、シャドラプトは逃がさない。
彼女の真骨頂は変幻自在の容貌でも、数千の時を生き抜いた逃走力でも無く、機会を読み取る力だ。物事において要たるは何であるかを彼女の双眸は捉え続ける。
脆弱な存在に過ぎなかった彼女が今に至るまで生き延びられたのはその能力のお陰と言えるだろう。それが今、他者を害する為に用いられた。
光剣が視界に留める事すら困難な速度で宙を走る。まさしく刹那の出来事。
知らず、シャドラプトが息を呑んだ。
冗談のような気軽さで――アルティアの胸には剣が突き刺さっていた。彼女はゆったりとした様子で口を開く。
「……懐かしいものだな。感謝しようシャドラプト。久しぶりに、過去の彼を垣間見る事が出来た。記憶の中ですら薄れかけていた姿だ」
胸から剣を生えさせたままの姿で、アルティアが眦を下げる。殆どの感情を見せる事がない彼女が、僅かに笑みを浮かべていた。湧きたつ感情を隠しきれないという様子だ。
だが次の瞬間、アルティアは笑みを崩さぬまま胸に突き刺さった剣を掴み取る。シャドラプトの瞳が見開かれた。
「感心するよ。私の姿で私を殺す事は出来なかった。ならばとオウフルが私を殺害した過去を以て、神殺しの再現をしようとしたわけだ。よく考えるものだな、それ自体は間違っていないよ。今の私はどう足掻こうと生前に引きずられる。
しかし、手段が不味いだろう。ただ彼の姿を盗み取っただけでは、未だ足りない」
「足り、ない?」
ぐちゃりと、潰れた肉が引きずられる音がした。シャドラプトが渾身の力でもって押し込む剣が、ゆっくりと押し返されていた。アルティアの胸元から血が零れ落ちていく。此の体躯になって初めて彼女が負った傷だ。
ある種の愛おしさすら感じながら、アルティアは唇を尖らせる。
「オウフルは、彼は私にとっての特別だ。私が初めて例外とした者だ。だからこそ彼は私を殺せた。彼を彼たらしめているものは、その姿ではない。彼の魂であり信念であり矜持だ。決して、皮一枚を覆っただけの容姿ではないんだよ」
とはいえ、その姿が嫌いなわけではないが。そうアルティアは付け加えて、シャドラプトの首筋を掴みあげた。
思わず苦悶の訴えがシャドラプトの表情に浮かび出る。まるで鋼鉄で首を挟み込まれたかのようだった。もはや決して離せまい。例え羽虫に姿を変えたとしても、今のアルティアからは逃げきれない。彼女の間合いに入るというのは、そういう事だった。
一瞬の逡巡の後、此れが最期かとシャドラプトは嘆息した。
シャドラプトは必ず『誰か』に捕まる運命だった。盗人であり、逃亡者である彼女の最期は、誰かに捉えられる末路でなくてはならない。
逃げて逃げて逃げ続けたが、今此処に至って、彼女は数百年前に逃れたアルティアの手に捕まった。もはやオウフルの姿を保つ事すら出来ず、慣れ親しんだ赤髪の姿へと舞い戻る。
「……つくづく不思議になるのだな。どうして人間に、貴のような怪物が生まれてしまったのか」
「簡単だシャドラプト。必要とされたからだよ。私は望まれたからこそ産まれ、必要とされたから今も此処にいる。さて、もう十分だろう最古の生物。
君は、オウフルの姿を一時とはいえ盗んだんだ。――生きて逃げられるとは思わないことだね」
声から漏れだすのは、肌を切り裂くほどの殺意。言葉の一節から滲み出る憤激の色合い。
それはもはや怒りと呼んでしまっていいものか分からないが。確実なのは、彼女は欠片たりともシャドラプトを生きて返す気はないという事だ。
当然、こうなる事をシャドラプトは理解していた。むしろ、ならない方がおかしいのだ。だからこそ頬を歪めて声を発する。
「逃げる? どうして己が逃げなきゃいけないのだな。言ったじゃないか。己は貴を克服する。勝利するのだと」
呼気を一つ。そうしてから、魔力を喉に溜めた。
此れはアルティアのものでも、オウフルのものでも、ましてコリオラティや他の者の技能ではない。ただ魂を変質させ赤銅竜となったシャドラプトが、自ら好んで用いた魔の一つ。
「別に此処で貴が死ぬ必要はないじゃないか。――王都へ入るまでの時間が稼げればそれは己の勝利なのだな」
そうすれば、彼らが遠方へ逃げる時間は稼げるだろう。アルティアが支配する世界に逃走先があるかは分からないが、諦めなければ逃げ続ける事は出来る。逃げ続ける事は何も、全てを諦めてしまうのではない。諦めないからこそ逃走を選ぶ時だってあるのだ。
――もしくは、彼らが愚かしい事にアルティアとの闘争を選ぶのであれば。それはそれで時間を与えてやる必要があった。
廃村の戦役にてルーギスが失った魔力は膨大だ。となれば全てを取り戻す事は出来ずとも、出来る限りの回復時間は必要だろう。焼石に水な気分ではあったが、何もしないよりはマシだ。
――しかしどうして、己はこうも無謀な戦いに身を投じているのか。
改めて辟易するように、シャドラプトは目元を一瞬細めた。どうして馬鹿共の為に自分が傷つく必要があるのだろうかと自問する。
ルーギスを含め、アレらは大馬鹿だ。シャドラプトが例え逃走するための策を弄しても、それを踏み躙って好き勝手に振舞ってしまうような輩と言って良い。そんな彼らの為に命を賭けてどうする。
むしろ彼らも己が逃げる事を想定しているのだから、さっさと逃げてしまっても何ら問題はないのではないのか。
結果的に彼らがアルティアに敗北し、その上で世界が彼女の手に転がってしまったとしても構わない。人間など所詮は欲深く、されど力は無く惨めで儚い種族だ。滅んだってシャドラプトは瞬き一つもせず、悲しみもしないだろう。
何せ今まで何度も、数え切れぬほどの種族の滅びを見てきた。中には親しくした者らもいたし、共に戦った者らもいる。そんな同胞達を、シャドラプトは見捨て続けて来たのだ。
今更少し変わった存在を見つけただけで、どうして教えを与え、助け、そうして命まで賭けねばならないのか。
逡巡とも懊悩とも言える問答がシャドラプトを駆け抜けていく。
だが答えはすぐに出た。迷う暇すらなかった。
「君が彼にどのような期待をしているか分からないが。どれも期待外れに終わる。彼は私に打ち倒される。それによもや私を打ち倒したとして、彼も私と同じように成るだけさ。人間というものはね、そう変わりはしない」
感情を打ち殺したような声で、アルティアが言う。
しかしシャドラプトは笑った。無邪気な笑みだった。
「――愚か者め。彼と貴とでは話にもならないのだな。貴は己に命を賭けさせる事が出来たか?」
ああ、そうとも。彼らは大馬鹿だ。だからこそ、どうせ逃げやしない。彼らは必ず此処に来る。その時アルティアが完全な姿でいれば、彼らの勝利は消えてしまうだろう。
ならば此れは、勝利への道だ。己が勝利の楔を打ち込むのだ。だからこそ己は命を賭けた。
シャドラプトは最期の一息を、吐いた。
「『竜の咆哮』」
瞬間、大音声が周囲一帯を覆いつくす。竜にとってすら喉と体躯とを燃焼しかねない爆発的な音量。
人は其れだけで死を受け入れ、数多の動物は大地に伏せる。全盛期には山脈すら吹き飛ばしたという純粋なる竜が奥義の一つ。
けれど今となっては、精々地面を陥落させるのが限度だろう。
竜の咆哮に共鳴するように、大地が音を響かせた。小さな軋みが崩壊音に繋がり、すぐに轟音が鳴り響く。
「やはり、不思議だ」
そんな中、アルティアはぽつりと呟いた。崩れ行く地面に欠片の興味も示さない様子で、むしろ首を掴み込んだシャドラプトの存在にだけ視線を向けて言う。
「君がこんな最期を選ぶとは、私も少々予想の外だったよ」
それが最期だった。
次に響くは、肉の潰れる不快な音、血液が吐き出される音。それらが轟音にかき消されながら尚耳に届く。
アルティアは手元に持った彼女の首筋をねじり切り、そのまま体内を指先で斬り破るようにして縦に裂いた。それで尚止まらない。皮膚と肉とが開かれ、血液に塗れた心臓を細く白い指先が掴み取る。
「ヴリリガントの再現としようか、シャドラプト。此れで君は滅ぶ」
かつての天城竜にしたように。アルティアはあっさりと指先に力を込めて。
――その心臓を砕き割った。
赤銅竜シャドラプトの体躯は、もはや動く事は無かった。長きに渡り使い続けられたその身体からようやく脱するのだとでも言うように、血液が流れ続けていく。それを押しとどめる者はもはや誰もいない。
ただシャドラプトの想いを受け止めるように大地が砕かれ、血液は地下に降り注ぐ。
だがその最中にも、シャドラプトは声一つをあげなかった。彼女が逃走し続けた死が、今彼女の首を掴んでいた。