第六百十二話『斬り結ぶ黄金』
赤銅竜が大きく口を開く。赫々たる振舞いが、己こそ大地を照らす陽光なのだと語っていた。城壁を超える威容を示し、吹き荒れるブレスで兵の津波を押し返す。
その光景は壮絶だ。痛快とは到底言えない。フィアラートは指先に魔力を集中させながら、改めて竜の脅威を思い知る。
「でも……聞いてた話と随分違うのよね」
赤銅竜シャドラプトは逃亡者だ。逃走こそが、彼女の闘争の一形態なのだとフィアラートは聞いていた。その彼女が今戦いの場に自ら躍り出ている。
無論嬉しい誤算ではあるのだが、魔術師としての習性か。前情報と違う事が起これば胸がざわめく。
そこには理由があるべきだからだ。何かしら本質とは異なる事象が起こる背景が。策があるのか、それとも彼が何事かを起こしたのか。疑問は尽きない。
しかしフィアラートにもシャドラプトにも問答をしている時間は無かった。
フィアラートは鋭く呼気を吐いて、赤銅の鱗から視線を切る。
あの人間は、余所見をしながら相手取れる存在ではない。眼下に視線を向ける。
聖女と同じ黄金の頭髪に瞳。いいや、聖女の側が彼と同じ頭髪と瞳の色をしているのだ。
静かに歩く姿は、しかし威容に満ち溢れている。遠く城壁の下にいながら、その圧迫感がフィアラートの心臓を掴んだ。
白銀の剣を持ちながら、ヘルト=スタンレーは来た。
かつて城壁都市ガルーアマリアの学舎で共に学んだ黄金が、フィアラートの敵として立っている。紛れもない才覚を持った英雄。
彼が、崩れた城壁の破片に足を掛ける。フィアラートは魔術を射出すべく指を突き刺した。
「――汝らには生まれたときから牙が生えていた。喰い散らせ」
指先に魔力が集中する瞬間、黄金が眼下で揺らいだ。崩れた城壁の瓦礫からまた瓦礫へと、時に僅かな歪みだけを足がかりに彼は跳躍する。しかも無理をしている風ではなく、悠然と。
駆け抜けるヘルトを射ち落とすべく、炎が蛇の形を取って宙を走った。放たれた蛇は、縦横無尽に動きながら獲物のみを目掛け這い寄っていく。不安定な態勢の者を殺すには、十分な魔術だ。
加減も油断もしていない。
けれどフィアラートは次に備え指を鳴らした。
「天蓋よ、崩れ落ちなさい」
視界では、ヘルトの剣が炎の蛇を斬り殺している。髪の毛一本たりとも焼けていなかった。
やはり、彼を穿つのに必要なのは凶悪な魔術ではない。――質量だ。
フィアラートが流れる言葉で詠唱を終え、指を鳴らす。空が震え、崩れ、亀裂が走る。世界の理が歪んでいく。
ごう、と膨大な物量が滑り落ちる音がした。瓦礫の上を、洪水が舐めていく。
ヘルト個人を狙ったものではない。彼ごと瓦礫全てを洗い流してしまう膨大な濁流の嵐。さしもの英雄も、圧倒的な質量には呑み込まれるしかない。黄金が、洪水の中に消えて。
――そうして、再び跳んだ。
洪水すらも斬ったか、それとも流れの継ぎ目を突き止めたのか。理屈は分からない。しかしその英雄は濁流の渦に呑み込まれて尚、城壁の上に――フィアラートの眼前に立った。
「久しぶりね、ヘルト」
だがそれすらも当然だというように、フィアラートは黒瞳を開きながら彼を出迎えた。白銀の剣を振るって、ヘルトは顎を頷かせる。
「……ええ、そうですね。どうでしょう。今からでも和解に至るというのは」
「変わらないのね、貴方は。いえ、一度変わったけど戻った?」
「そうでしょうか?」
ヘルトは言葉を酷く選ぶように、ゆっくりと唇を動かした。
「僕は昔から変わらないと自負します。正義と善に身を捧げるべきであると信じていますから。むしろどうして貴方がそちら側にいるのか。僕には理解できない」
淡々とした一切の疑念を挟まない声。ああ、良かったとフィアラートは目元を緩めた。ヘルトはフィアラートのよく知る、学舎の頃の彼だった。正義と善のみを信奉する黄金。
「ふ、ふふふ……あはは……」
唐突な笑みはフィアラートから漏れていた。本当に、おかしくて堪らないというように黒髪を揺らしながら破顔する。彼女の端正な顔つきからは想像も出来ない、子供らしさすら垣間見える無邪気な笑みだ。
周囲を覆う戦場は止まりはしないが、それでもヘルトだけはフィアラートの様子に目を見張った。
「そうねその通りね。今でも不思議に思うんだもの。どうして私はあの晩、彼の手を取る事が出来たんだろう。本来なら、貴方の側にいるのが正しかったんじゃないかってね。もしかすればそんな未来もあり得たんでしょう。
――けれどッ、そうはならなかった。間違いであったとしても、私は彼の傍が良いと思ったからこちらにいるのよヘルト。人を説得するのに正しいとか善行とか、あんまり意味がないの。だって、間違っていたって構わないっていう人間はいるんだもの」
「……分かり合えないのは残念です。しかし、貴方が曲がる事はないでしょうね。朧げですが覚えています」
「ええ。対立するしかないでしょう。私か貴方のどちらかが死ぬ。だから、ありがとうヘルト」
先ほどの笑みにしろ礼にしろ、敵に向けるには不似合いなものだった。フィアラートが見せる場違いなばかりの表情に、思わずヘルトの剣先が揺れる。
しかし当の本人は、頬をつり上げながら言った。指先が鳴り、強い色が瞳に浮かんでいる。
「――本当にありがとう、私の所に来てくれて。ルーギスは貴方の事になると他が見えなくなるからもう会わせたくなかったのよ。酷いと思わない? 私や他の人間がどれ程想っても近づいてきてくれない。それどころか、想い人すら貴方の前には霞んでた。
良かったわ、本当に」
本当に友人と雑談するくらいの気安さでフィアラートは苦笑する。肩に積んできた重みをほぉっとため息と共に吐き出してしまったよう。
「何を言っているんです」
「――貴方は私が此処で殺すという事を」
ヘルト=スタンレーという名の黄金に憧憬を抱いたのは、何もルーギスだけではない。数多の者、雑多な凡人達もまた同じ。かつて学び舎にいたころのフィアラートも含まれる。
だからこそ、ルーギスが灼き焦がれたのがよく分かった。決して届かぬ陽光に心奪われたのは理解しよう。だがその焦がれゆえに、命を賭してしまう可能性があるのなら。
――私は、その焦がれこそも奪い去ってみせる。
私情を絡ませる気は無かったが、ただこの場においてフィアラートは蕩ける笑みを見せた。ルーギスが来る前に、全てを終わらせる決意をもって。
◇◆◇◆
「シャドラプトが王都にですか――?」
聖女マティアが、疑念を漏らすようにそう呟く。瞳には困惑の色が広がっていた。
ラルグド=アンが応じて頷く。
「はい。聖女マティア。斥候の情報通り、旧王国軍が王都に迫っている動きが確認できました。それでシャドラプト様は先に行かれると」
正直を言えば、理由までは分かりかねますとアンは不審を頬に浮かべて言い切った。元よりアンの交渉能力は人間に対応したものだ。竜の思考回路までは理解の範囲外だろう。
アンの言葉に、目覚めたばかりのレウが付け足した。白髪が未だ眠たげに揺蕩っている。
「でも……逃げたわけじゃないと、思います。私に、此れを預けて行ったの、で」
そう言ってレウが片手に持って見せたのは、一粒の宝石だ。大魔ゼブレリリスとの戦いで、ルーギスへの協力の見返りとして渡したもの。シャドラプトは其れをレウに預けた上で、翼を広げ言ったのを覚えている。
――其れを持って逃げるのだな。もう、間に合わないじゃないか。己は手を打ってくる。
シャドラプトが言う『手』というものが何かは分からない。けれど彼女が逃げるのではなく、他人に逃げろと諭すのは相当な異常事態だとレウにも認識出来た。
何かあるのだ。何かあったのだ。
だから彼女はたった一体で王都に出向いた。
マティアは二人の話を聞いて、眉間に皺を寄せる。此れからの事を思案した。
人間王メディクが周囲の魔性を掃討してくれた事で、斥候は随分動きやすくなった。情報が手に入り、だからこそマティアは懊悩する。
王都がもはや戦場になる事は間違いがない。可能ならば今すぐにでも駆けつけるべきだ。シャドラプトの動きは読めないが、レウの権能を用いればさほどの時間をかけずに移動する事は出来る。
今の彼女の状態を思えば人数は限定されるだろうが、それでも十分だ。
問題があると言えば――。
「……彼と、カリアの様子は?」
「変わりません。ルーギス様は起きられませんし、カリア様は傍を離れようとされません」
数時間前に聞いた報告と同じ言葉に、再びマティアはため息をついた。一分一秒が血液に近しい今この場で、マティアは決断を迫られている。
彼をこの場に置きとどめるべきか。――その場合、レウが此処に戻ってこれなければ彼は戦場に参加できないだろう。戦場では何が起こるかわからない。不測の事態は幾らでも起こりうる。その上カリアは決して彼の傍を離れないのは確実だ。
では彼を待つべきか。――彼を待つ間に、全てが終わってしまう可能性もある。マティアを含めて戦場で役割を成せる者は少ないが、それでも旗印くらいの意味はあるのだ。無為に時間を浪費するのは余りに惜しい。
ああいや、とマティアは思い直す。もう一つ、選択はあった。
シャドラプトが言うように、逃げてしまう事だ。旧王国軍は圧倒的な大軍。ルーギスやカリアの話を勘案すれば、大魔にも数えられる魔性も有している。
ならば此の状況、生き残る為に全てを手放して逃走するのも現実的な手段として考えねばならない。
「……はぁ。しかし、本当に」
愚痴がマティアから零れ出た。ルーギスが起きさえすれば、事は単純だ。悩む必要もきっと失せる。事ここに至っても、未だ彼の挙動一つに思考が振り回される状況に懐かしさすらマティアは覚える。
――思えば、本来私は彼が嫌いだったのだったな。マティアは目を細めた。
自分勝手で大言壮語。打算や理性をあざ笑うような軽挙妄動。
大嫌いだった。英雄と呼ばれようが勇者と呼ばれようが、くだらない人間だと思っていた。
それがどうして、その相手に求婚する事になったのだろう。その上断られて――いいや待てよ。そういえば彼の想い人は今、戦場にいるのだった。
ふぅ、ともう一度ため息をついた。それから踵を返して歩き出す。ルーギスが寝入ったままの家屋へと向かった。
マティアが家屋に入れば兵や文官らの視線がすぐに集まるが、そんなものは気にせずに奥へと踏み入る。眠ったままのルーギスと、傍らにいるカリアだけがマティアを見ていなかった。
前置きは捨て去って、率直に尋ねる。
「彼が眠っているのは、魔力が足りないからなのですよね」
「……分からん。それならば、私の血で事足りるはずだ」
カリアはマティアに視線すら向けないまま、ベッドに横たわるルーギスにはべる。表情は悄然とし、何時もの剛毅な様子は欠片も見られない。涙の痕を隠そうともしないで銀瞳を淀ませていた。
とてもではないが、今の様子で戦場に立つのは不可能だ。彼女の思考は全て彼に注がれている。
だが逆を言えば、彼が起きさえすれば解決する。マティアにそれが確信出来てしまった。痛いほどにカリアの気持ちが分かってしまう。
だから一つ、思いついたのだ。
「魔性は魔力を求めるもの。しかしそれだけであれば、魔性は魔性を襲っても良い。であるのに人間を食い物とする一因には、人間と魔性の魔力は性質が違うからだという説があります」
「それが、どうかしたか」
マティアの唐突な物言いに、カリアが虚ろに反応する。青白くすら見える頬が小さく揺れる。
「魔力が譲り渡されれば良いのでしょう」
良い機会だとマティアは思った。今この場で、彼に恩と事実を作っておこう。
これこそが最善の選択なのだと、マティアは判断をした。
「――手段は選びません。協力をしてくださいますね?」