第六百十一話『神話血戦』
もしかすれば人間王メディクにとっても、大英雄アルティアの語る世界は理想であったのかもしれない。
人類が自らの手で国家を造り上げ、それだけでは飽き足らず文明の大河を起こし、大陸の覇者となる。
魔性の家畜ではなく人間として尊厳を持って生を謳歌するのだ。生きるのも死ぬのも、自らの手で決めるのだ。
飢餓によって子供を失う親は無く、親の死体を喰って生き残る子供もいない。
そんな妄言染みた世界が、メディクの夢見た未来だった。子供の頃誰もが見た夢の一幕。魔性に侵されぬ自由の世界。
かつてアルティアが見た夢と重なる部分は多い。例えば彼女がただ魔の力を持ちえた人間であり、ただ人間を救おうとしただけであったのならば。
きっと人間王メディクは彼女の視る世界を支えただろう。愚かであろうと、馬鹿らしくあろうと。人間の夢に不可能などないと信じているのだから。
けれどもう、そんな未来は消え失せた。
「最低で最悪で茫然だ。此れがお前の夢見た世界かよ」
メディクは知らず矛先を地面に落とす。目玉がねじくれそうなほどの嫌悪が全身を襲っていた。吐き気すら催す。
北方メドラウト砦。もはや軍勢の影すら見えないその場所は、どういうわけか人に覆われていた。
人、人、人。死体、死体、死体。
地面から突き出た手首、剥きだしの内臓、死雪で尚掻き消えぬ大量の血液。
一切の生命の音がしなかった。死雪が営みの全てを呑み込んでしまったかのように、この場からは命が消えている。
彼らがどう生きたのかは分からない。しかし彼らがどう死んだのかは分かる。抵抗すら出来ずに斬殺されたのだ。踏み潰され圧殺されたのだ。
ふるりと、メディクの指先が震えた。小さな動きは痙攣になり、痙攣は衝動になり、衝動は慟哭に変じた。
風が吹き叫ぶほどの轟音が響く。数秒が経ってから、ようやくメディクが呟く。
「――――生かしておかねぇ」
メディクの言葉は目の前の惨劇を起こした人間への歴然たる殺意であり、自分自身への悔恨でもあった。
もし己があの場でバロヌィスの異常に気付き、止められていたのならば。ルーギスとの一幕を演じなかったのならば。悲劇を止める事が出来たかもしれない。より良い方向に物事を進められたかもしれない。
全ては妄想に過ぎないが、だからこそメディクは決意した。
必ず此れを成した者を殺す。
鼻を鳴らした。濃密な、脳が焼きつきそうなほどの魔力の残り香。二度と忘れられない味がした。
バロヌィスが語った大魔アルティアとは、此の魔力の持ち主に間違いがない。
メディクはもはや無言のまま、矛先を上げた。
――瞬間、地面が破裂する。
人間王が先へ先へと、跳ぶ。もはや誰が味方で誰が敵なのか。迷う必要すら無かった。
その瞳は千年の時を経て変わらない。ただ一心に魔性を屠り去り、人間の王として立つべく生まれた者の眼差しだった。
◇◆◇◆
ああ、くそぅ。
ガーライスト王国王都アルシェの城壁で、ブルーダーはがたつく歯を噛みなおして震えを止めた。雇い主から貰った噛み煙草の香りが落ち着きを与えてくれたが、すぐに恐怖はこみあげて来る。
「あれは何だと思う、ヴェス」
普段の男染みた口調ではなく、姉妹の間でのみ使われる言葉遣いだった。それほどに余裕がなかった。
「なん、で、しょう。姉さん」
傍らに立つヴェスタリヌ=ゲルアは、戦斧を持ちながら何とか言葉を返した。少しは気の利いた言葉を返そうと思ったのに生返事になってしまう。
「……見たくないものは、目を閉じればいなくなってしまえばいいんだけど」
ブルーダーが震える声でそう言えたのは奇跡だったかもしれない。立ったまま、ふらりと足場を踏み直した。己の足元に本当に地面があるのか不安になったのだ。
ブルーダーにしろヴェスタリヌにしろ、傭兵としてまた新王国に属する者として、多くの魔性を視て来た。
時に魔人を、時に魔眼獣を、魔術師とも相対しただろうか。一般兵らと比べれば、濃密な魔を幾度も経験してきた。
だからこそ分かる。視界にあるアレはおかしい。
八万の軍勢の中に、その異物はいた。遠目にも分かる。ただその一人が、軍勢全てより戦力を有している。
異様で、理不尽で、暴虐で、規格外の顕現。
膝が震える。歯の根が鳴らないようにするのに必死だった。城壁の上で居並ぶ兵達にそんな音は聞かせられない。震えを起こさないために、ブルーダーはもう一度言った。
「分かり切ってる。アレは敵だ」
瞬間、城壁上の兵らが騒然とした。すぐ傍らから地面を震わす轟音が鳴った。ブルーダーはすぐにその正体に感づいた。
フィアラート=ラ=ボルゴグラードの戦場魔術が虚空を破壊したのだ。
人を溶かし空気を食い尽くす炎は一切の遠慮なく周囲の魔力を焼却した。炎が刮目せよと語る。竜の心臓を持つ魔女が放つ魔は絶対。空中を疾走し道を塞ぐ者を許さない。
全くの同時、フィン=エルディスが起源呪術を宙に振りまいた。宙を食いつぶし、生命と光とを許さない真の黒呪。
大精霊の愛し子は、妖精王の名を受け継ぎ祝福と呪いの具現と化していた。破壊なぞ生ぬるい。犯し食らう事こそが生物の終わりなのだとそう語る。
両者の魔は、一点にのみ注がれていた。ただの人相手であれば、影すら残さず吹き飛ぶであろう戦力。
此れはまさしく神話の再現。英雄勇者のみが成せる、一つの時代を象徴する力。
しかし、されど、だけれども。
――神代の大英雄が其処にいる。
彼女はもはや馬車の中に居座る事を止めていた。聖女のドレスで着飾るのを止めていた。
かつての如く長い金髪を一つに纏めて括りあげる。纏めた髪の毛の端は腰元辺りまで伸びていた。片手に持つのは魔法の杖ではなく、剣だ。彼女の王権の象徴であった鋼をすいと横に振るう。
彼女用に拵えられた淡い白色の鎧を身に纏ったまま、唇を揺蕩わせた。直ぐそこに業炎と黒呪が迫っているというのに悠然と言葉を紡ぐ。
「実に惜しいな、私の愛しい英雄達。私は此れでも君たちを愛している。人類を愛している。生かすのも殺すのも愛に他ならない。愛憎は一つのもの」
刹那、黄金の瞳が見開かれた。瞳に含まれるものが真に愛情であるのか、狂気であるのか、はたまた信仰であるのかは彼女にしか分からない。
何故なら、彼女の言葉には感情が無かった。表情は笑っているようで、何も伝えていない。有るのはただ隔絶した熱量のみ。
彼女は剣を振り上げた。空気を溶かす戦場魔術も、生を喰い散らす起源呪術も、彼女を殺すには至らない。ただ彼女の魔力を数秒押しとどめるのみ。
絶大なる魔力を込めた神剣が、世界を断ち切って振り下ろされる。
「――【神威の剣】」
歌うように言って、アルティアは剣一本で世界を蹂躙した。
同時に放たれた天にも登る一閃が、光の柱となって城壁を崩壊させる。雷以上に煌びやかで、濁流より破壊的。
衝撃以外の何者でも無かった。堅牢であったはずの城壁は、彼女の一振りが崩壊させる。もはや防備など何ら意味を成していない。
当然の事だ。王都の真の主は彼女である。彼女が自らの玉座に帰還しようとするのに、どうして足止めをされねばならないのか。
八万の軍勢が、前進を開始する。城壁の意味を無くした都市にもはや抗う術などない。
けれどアルティアだけが、ぽつりと呟いた。神剣を振り払い、地面に向けて降ろす。
「あら、来たの」
瞬間、城壁の崩壊部に殺到していた旧王国軍が吹き飛ばされる。魔性と人の混成軍の一角が、瞬きの間に消えた。
「――ォ、ォオァア――ッ゛!」
戦場に響き渡る大音声。誰もが足を止めて其れを見た。失われた城壁を遥かに上回る巨体が宙を舞う。
其れはまるで河の流れをせき止めようとでもするかのように、大きく翼を宙に広げた。赤銅の女王竜は、赫々とした威を発して空にいた。
「私を王都に入れたくない、というわけか。当然といえば当然。だけれど」
神剣が、再びアルティアの手中に握られた。
「私を敵に回すという事が、何を示すか分かっているのだろうね、最古の生物よ。本当に絶滅したいのかい」
数多の人間が、ただ二体に注目をしていた。竜と聖女の戦場は、兵にはもはや手の届かぬ世界だ。動き出したのは、僅かな数の英雄達のみ。
思うなら、もはや此の戦役は兵の多寡など意味を成さなくなってしまったのかもしれない。彼らは勝敗を後押しする存在であれど、決定付ける戦場の主役ではない。
戦場の生死、勝敗、運命。天秤が左右どちらに振れるのかを定めるのは――英雄達だ。
大英雄に追随するは、白銀の英雄と勇者。
赤銅竜と共に術式を展開した双璧は、竜の魔女と妖精女王。
新王国と旧王国が剣を共に振りかざした聖戦の終結は、英雄らの手に委ねられた。もはや誰一人にも止める事は出来ない。
此れこそが人類の史上を燦然と飾り、記録に残す事の出来た最後の戦役。
――栄枯転変。神話血戦が幕を開いた。