第六百四話『咆哮するは我が血脈』
ヴァレリィは本来、王国最北端スズィフ砦の番人である。国境沿いの砦が相対する敵対者は、案外隣国の兵士や山賊ではない。何せ攻め入るにしても険しい山脈によって造られた隘路からの進軍は自殺行為だ。
敵はむしろ人間ではなく、魔性。山脈から湧き出て来る魔の獣共を拳で打ち砕き、彼らに本能を凌駕する死の恐怖を刷り込む事が、ヴァレリィに課せられた義務だった。
そんな魔と隣り合わせであった彼女だからこそ、眼前のカリアから感じ取るものがある。
二房に分けられていた彼女の美麗な銀髪は留め具を失ったのか、今は一つとなって風に浮かされていた。数本を頬に貼り付けながらカリアは小さな唇を勢い無く動かす。
「どうした。ルーギスは来たのか、来ていなかったのか。その二つだけだ貴様」
余すところなく混沌を孕んだ銀瞳。大地を蠢動させる声色。あふれ出す魔力の奔流。間違いがない。
彼女は――完全な魔性だ。人間としての気配はもはや置き去りにされている。ヴァレリィが感じ取ったのは魔力の強弱のみではなく、在り方そのものだった。
カリアがヴァレリィやロイメッツ、他の人間らを見つめる視線は、明らかに同族を見つめるものでは無い。路傍の石を一瞥する程度のものだ。
どれほど人間嫌いであったとしても、こうも無感情に人間を見つめる事は出来ない。
「お前バードニックの所の……いいや、騎士カリアか」
唐突な闖入者に、ガルラスも幾ばくの動揺が隠せていない。とはいえヴァレリィよりはマシな様子だった。
ガルラスの瞼には、フリムスラトの大神殿での一幕が思い浮かべられていた。あの頃からすでにカリアという人間は巨人に変貌し、ルーギスに対してこれ以上ない執着を示していたではないか。
ならば今の様子も、全く不思議なものではない。
「大悪の事ならしらねぇな。此処に来てるのかどうかも知らねぇ。それで、お前の用事はそれだけか」
「用事――?」
ガルラスは紅槍を自然とカリアに向け構えていた。片腕の扱えぬヴァレリィよりもカリアの方が脅威であると、理性的に判断したわけではない。
ただ胸元が圧迫される気配があった。視界にいる銀髪が、息を呑むことすら許してくれない怪物だと確信する。魔人としてのものではなく、彼が生来から持つ獣の直感だ。
ヴァレリィもまた同じ。本来なら味方であるはずのカリアから、一歩を遠ざかり間合いを図る。喉が数度唾を呑み込んでいた。
歪な空間だった。殺し合いをしていたはずのヴァレリィとガルラスが、今この時ばかりはただ一人を見つめている。
誰かの心臓の音が、強く鳴った。
「用事。いやそうだな、本当はルーギスに用があった。うん、そうだ。ルーギスに『だけ』用事があるんだ私は。貴様らにはない。いいやしかし――」
カリアが口から吐き出す言葉は、常日頃から率直である彼女には珍しく胡乱としていた。己が何処に向かっているのか、何を話そうとして口に出しているのかも分かっていないように見える。
だというのに、彼女の瞳にだけは狂的とも言える業火が宿っていた。
其れが何よりも恐ろしい。銀色の瞳が、ぎょろりと動いた。
「――思い出した。貴様らはルーギスの敵だったな」
本当に今思いついたというような口ぶり。そのままカリアは黒緋を振り上げる。気軽げな振舞いだ。瞳はガルラスを視ていた。
あっさりと、振り下ろす。
――刹那、轟音と共に暴風がまき散らされた。此の魔性が動くとは、即ちそういう事なのだと大地が語る。宙の空白が痙攣して嗚咽を叫んだ。
此れを武技と呼ぶのはおこがましい。しかし無技と呼ぶのは憚られる。故に呼ぶのならば、こう語るしかあるまい。
――巨人の暴威。
黒緋が振り落とされ、世界は暗転する。空を疾走する剣は絶対だ。彼女にとって此れはただ力に任せただけの一振りであっても、世界は此れを許容出来ない。空気が唸りをあげ、砂煙が大地の血潮となって弾け飛んだ。矛先はガルラスを指している。
だが、彼もまたただの人間などではない。瞬き一つすらせずに決断した。
黒緋に相対するは紅槍の一閃。本来であれば決して立ち向かうべきではない一撃に、騎士ガルラスは自ら前進して槍を突き入れる。紅の美麗な線が宙を掻いた。
其れは騎士が背を見せる事は無いという彼の誓いであり、しかし同時に唯一の生存経路を求めた結果でもある。
此の巨人の暴威を回避する事は能わない。しかし同時に、逃げうる事も不可能なのは明瞭。
ならば前に一抹の生を見出すしかないという当然の帰結だ。
果たして、その判断が彼を生かした。
紅槍は線を描き、荒れ狂う暴威と噛み合う。ただの力でしかなかった其れは、あっさりとガルラスの全身を弾き飛ばすに終わった。
――其れこそ全身の骨を破砕するほどの衝撃をもって、ガルラスの体躯は木々を数本なぎ倒して地面に堕ちる。
人間如きであれば間違いなく絶命する暴力。決して比喩ではない。カリアと名乗る巨人は、もはや己に流れる血の猛るままに力を振るっている。
「カリア……カリア=バードニック。貴殿は何だ。何をしている、何があった!」
ヴァレリィは、たった今魔人を吹き飛ばした相手を糾弾した。カリアが己らに味方して行ったものではないと分かっていたからだ。
ただ先に目に付き、近かったからガルラスが選ばれただけ。もしヴァレリィが近ければ、躊躇なくカリアは彼女を標的に選んだだろう。
だからこそ、片腕のまま構えを解かずにヴァレリィは問うた。此処で己が背を見せれば、ロイメッツや他の人間が殺されかねない。
「何もありはしない、ヴァレリィ=ブライトネス。ただ――誰しも流れる血には抗えないというだけだ。貴様も、私も」
濃密な巨人の血。今になってようやく、其れが己の体内に色濃く脈動している事をカリアは実感していた。
呻き、唸り、咆哮する其れ。傲慢の極致であり、数多を歯牙にも掛けぬ巨人の血。
使徒ジルイールを吹き飛ばしたあの瞬間からだろうか。此の血に思考を預ければ、素晴らしく心地よい音色が聞こえる事に気付いてしまった。
思う。彼は何故私の隣にいないのか。其れは彼が残酷だからだろうか。彼が私を愛していないからだろうか。彼が私を嫌っているからだろうか。それとも、彼が私を信頼しているからだろうか。
どれも違う。
――彼を求める人間が多すぎるからだ。
一番最初カリアは、彼を認めぬ世界など朽ちれば良いと思っていた。新たな世界で、彼に栄光を与えようと思った。
けれど今になって分かったのだ。彼に栄光を与えれば、その分栄光に縋りつく愚者も多くなる。彼の邪魔をする者も敵も増えてしまう。
ますます彼は、己の隣から遠ざかるだろう。優しい彼は例え人類全てが相手でも手を差し伸べる事を止められない。
ああ、それでは駄目だ。
此れは私と彼で始めた冒険だ。登場人物は、最初から最後までたった二人で構わない。
だから――それ以外の『敵』は滅ぼしてしまおう。傲慢たる巨人の血は其れを肯定する。敵対者の絶対的な破壊こそが巨人の神髄。
――この世全てが敵であろうとも、彼さえいれば別に構わないのだから。
銀の瞳が混濁する。まるで何かに囚われてしまったかのように、執着のみが魂にへばりついている。
「……つくづく、あの男は厄介事を運び込むようだ」
「さて、貴様も奴の敵だ。そうだったと承知している」
ヴァレリィは片手で構えながら、一息で死を覚悟した。だが捨て鉢になったわけではない。瞬きの間にすら、カリアにつけ入る隙を探している。
ヴァレリィは彼女が正気を失っているのだと理解した。何者かの干渉でも受けたように、一つの感情に囚われている。
だからこそ脅威的であり、だからこそ勝機はある。
一連の動きを見る限り、今のカリアはただ暴威を振るうだけ。適切に力を扱うための体捌きも、敵を屠り去る為の技も忘れてしまっている。そうでなければ、騎士ガルラスは一息で絶命していたはず。
詰まり、今のカリアは全力であっても至高ではない。
一瞬、ヴァレリィはガルラスが崩れ去った木々の方に視線をやった。かろうじて動く右手を小指から握りしめていく。
「来い。此処で貴殿に殺されてやるわけにはいかない。馬鹿げた真似をさせる気もない。――そんな癇癪を起こしているから、あの男にも逃げられるのだぞ」
それは、ヴァレリィにとって自嘲も含めた言葉だった。
刹那、殺意の塊が頬を打つ。半身になりながら、ヴァレリィは唾を呑んだ。魔術鎧に幾ら魔力を注ぎ込んでも、耐え切れぬ一撃が来る。
其の暴威は振るわれた時点で人類に止める術はない。眼前の全てを破壊するまで決してとまらぬからこそ巨人の一撃たるのだ。
ヴァレリィは、左腕と魔術鎧を捨てるつもりだった。無傷で此の化物を止めようなどと笑い話にもならない。相応の犠牲を払い、一撃をくれてやれば正気に戻す手はある。
ふとヴァレリィは、己の中にあった奇妙な共感に気付いた。何時もならカリアの息の根を止める事を考えるだろうに、彼女に対して同情すら浮かべてしまっていた。
思わず頬を歪める。昔の己と彼女を重ねるのは間違っているだろうに。
しかし何となく分かってしまう所があったのだ。あの男の前では凛然としていた癖に、彼の姿がない所では名を呼んで追い求める。
きっと彼女も好きな男の前で見栄を張ってしまう性格なのだ。そんな事を思いヴァレリィはやはり自嘲した。
次の瞬間、黒緋の大剣が振り上げられヴァレリィの瞳が細まる。一呼吸の内に、死と生が決まるだろう永遠の一瞬があった。
――だが両者が衝突する事は無かった。
「――ォオオ――ォ゛オォォオオオッ――!」
それよりも先に、影より這い出た巨人の咆哮が廃村全体を叩きのめす。その衝撃は誰しもの動きを一瞬縫い留めるだけの効果があった。
だが、銀髪の巨人を真に留まらせたのはそんなものではなかったのかもしれない。ヴァレリィへの殺意を放り投げ、カリアは大剣すらその場に降ろして全く別の方向へと視線をやった。
「――ルーギス?」
酷く不快な感情が込められた言葉遣いで、彼女は言った。