第六百二話『千年の同胞』
時は遡り、宝石レウが魔女バロヌィスと鬩ぎ合いを続けていた頃合い。
ルーギスとシャドラプトは空にいた。
廃村を見下ろし、眼すら斬りつける寒さに瞼を瞬かせる。廃村となった村は荒れ果て、草木が生い茂っている。ふと上空から見ただけでは何処で何が起こっているのかは分からない有様だった。
唯一視えるのは、魔力の奔流のみ。近くからは宝石と魔女。遠くには巨人と見知らぬ魔。
「――魔女の奴がいるのか。レウが危ない。行こう、シャド。すぐ降りてくれ!」
巨人の気配は間違いなくカリアだろうと分かる。なればこそ、近場のレウの元に駆けつける事をルーギスは選んだ。
またもやカリアに二言三言、いいや五言程度は重ねられるかもしれないが。それでも戦場で彼が最も頼りにしているのはカリアだった。
それはかつての頃も、今も変わらないのかもしれない。ヘルト=スタンレーは『英雄』だったが、カリアは今も昔も『力』の象徴だ。
あの銀髪が輝いているならば、其処に敗北はない。ルーギスのカリアへの信頼はもはや盲信の域だ。それが危ういものであるとは、内心感づいていたかもしれない。
「えっ。……別に己が行く必要はない気がするのだな。貴だけでも十分じゃないか!?」
シャドラプトはルーギスに無理がかからない程度の速度で下降しながら、両翼をはためかせる。本心というよりも、口が言葉を探して言ってしまったようだった。
「馬鹿を言えよ。それに、お前だってレウには死んで欲しくないんだろう。そうじゃなけりゃ、態々城から逃げる時に連れて来ない」
ガーラスト王城から逃げ去る際、何故かシャドラプトはレウと共にルーギスの下に駆けつけた。
普段の彼女なら取らない行動だ。少なくともルーギスにとっては意外だった。
言ってしまえば、別にレウはシャドラプトの命を助ける事に寄与しないだろう。シャドラプトが脅かされる相手であるならば、レウは囮にすらならない。連れてくる事自体が危ういとすら言える。なのに抱えてきた理由は、もはや一つだ。
シャドラプトはルーギスの言葉を聞いて、意外そうに眼を丸くしながら一瞬だけ頬を拉げさせた。誤魔化した様子はなく、むしろ嬉し気ですらある。
「馬鹿はそちらなのだな! 己だって、命の優先順位くらいはつけるじゃないか! とはいえ、アレはアレで最善と思った結果なのだな。己も含めて、誰もが一つだけの原理で動いているわけではないじゃないか。それも――ンア゛ッ!?」
カエルが轢きつぶされた声を出して、シャドラプトは急旋回する。当然ルーギスも振り回され、血液が体内で動転した。視界が一瞬真っ黒になって眼が軋む。
しかし、それを責め立てはしなかった。刹那の間に起きた事態がルーギスにも察知できた。
――地上から、弓矢の如き勢いで槍以上の巨大なモノが飛来した。
正確には物体ではなく、力そのものを射出したような一撃。
其れはシャドラプトを穿ち殺す程の豪速で、間際で避けられたことが奇跡とすら思えるほど。シャドラプトは額に汗を描き、目つきを鋭く変貌させる。
ルーギスもまた、其れを見た。両者がその攻撃の主を理解していた。
「魔力に敏感なのは千年前から変わらないじゃないか。相変わらず滅茶苦茶なのだなぁっ!」
「シャド、此処で良い! 降ろしてくれッ!」
――魔力を感じさせぬ強大な一撃は、人間王メディクのものに相違ない。
彼が王都に進撃せず、他の魔力を追ったのだろうとシャドラプトには分かる。そうしてその最中、赤銅の女王竜の魔力を感じたなら、引き寄せられるのはおかしくない。
下手を打ってしまったとシャドラプトは口内で舌を打った。メディクの感知能力は過去から脅威だ。なら彼が魔力を感じられなくなるほどに遠く逃げ去るのが常道であろうに。あろう事か、易々と姿を見せてしまうとは。
自分自身が信じられなくなるほどだった。ルーギスを抱え、ほぼ直線に急下降――いや落下をしながらシャドラプトは頬を痙攣させる。
本来なら、今も即座に逃げるべきであろうに。何故こんな事をしているのか。いやその正体すらシャドには分かっている。だからため息を吐いた。
「少し、アルティアの気持ちが分かったのだな」
廃村の森林の中に、無音でシャドラプトは落下する。音を消してしまう事くらい、シャドラプトには簡単だった。着地地点が割れてしまえば、それだけで即死の可能性が高まる。
しかしその絶妙と言える技巧も、此の王の前では小細工に過ぎなかった。
「超越――豪技『巨人殺し』」
森林そのものを果てさせるかの如き一振り。破壊力を一点に集中させるのではなく、矛で周囲を払い打って拡散する。
人間のまま人間を超えた技は、魔すら容易く滅ぼす威力があった。
メディクが矛を振るい終え、木々が雄たけびをあげる。手首を返して構えなおす直前。
視界で紫電が揺らめく。其れはメディクの正面にいた。
メディクの技を避けたのでもなく、しかし真面に受け止めたのでもない。だというのに、ルーギスはメディクの懐で魔剣を横なぎに振るった。
一瞬の動揺を噛み殺し、メディクは矛の柄で魔剣を弾く。受けるべきではないと直感した。
「驚愕で困惑で仰天だ。どうしてお前は此処に、いいや此処で何をする気だルーギス。此処は魔の気配が多すぎる。お前の仕業か、それならちょいと死んでくれ!」
「それは俺の台詞だよ人間王。お前がどう足掻いても奴らの仲間なら、俺はお前を見逃せない。何があってもだ!」
赤い外套を肩に掛けながら、ルーギスは魔剣を肩元で構えなおしながら眦を細くした。呼気を鋭く、人間王メディクを敵として瞳に捉えた。
メディクもまた、先ほどの傷が癒え切ったルーギスに手元の力を強める。
此の廃村から感じる魔力は強すぎた、鼻が折れ曲がるほどだ。明らかに自然発生的なものではなく、故意に生み出されたもの。
だが大悪とやらの仕業というのなら納得も出来る。ルーギスが元凶であるならば、此処で止める事が人類の生存に繋がるだろう。
互いの意志が合致した、その瞬間と言って良かった。
『――ッ!』
人間と、そうして危機感に満ちた子供の声だった。あろう事か、死線にあった両者の眼が揺れ動き、次には其方を見た。
ルーギスにとっては聞きなれた、メディクにとっては久しぶりに聞く人間の声。
一秒の逡巡。しかし次には駆けていた。
「――ッ。今のはお前の仲間か! それで良いんだなッ!」
「――そうだ! 今だけは全部後回しにして貰いたいね! お前は俺を殺せればいいんだろう!」
駆けていたのは、ルーギスとメディクだった。互いに呼吸と視線だけを重ね、声に向けて脚を走らせる。説明する時間も暇もない。
声を聞いた瞬間、ルーギスはレウを救うために前へ進むしかなかった。下手をすればその瞬間にメディクに首を落とされていてもおかしくはない。逆もまた然り。
メディクは走りながら眉間に皺を寄せ。一つだけ大きな呼吸をしてから言った。心を決める。
「――委細結構ッ! 物事は単純な方が良い。お前も俺も、今は同じ相手を助けたい。それだけで良い!」
決まってからは互いに素早かった。一つたりとも迷いはなく、前を見た。彼らの視界に影が映る。メディクが呼吸を響かせた。
「超越――妙技『精霊殺し』」
超速の矛が悉く影を、討った。
◇◆◇◆
人と魔の武技が交差する。互いに振るう技は違い、構えも武具も間合いへの踏み込み方も何もかもが異なる。
同じであったのは、研ぎ澄まされた裂帛の気迫と、倒れ込んだ少女レウの命を救う意志のみ。
荒い呼気が唸った。穂先で影を突き殺した人間王メディクは、寒気を噛んで言う。
「最低で最悪で動転だ。――バロヌィス、お前は此処で何をしていやがる!」
メディクは周囲へと視線を這わせる。数多の魔獣の姿に、倒れ込んだ少女とルーギス。それに夥しい魔力を発する魔女バロヌィス。
「……それは私が君に言うべき事じゃないか。ド理解が出来ないな。どうして君が此処にいる?」
バロヌィスはあからさまな動揺を抱えていた、頬に汗が伝う。
危機に陥ったためのものではない。千年を超えた魔女にとって、危機などありふれた事象の一つ。
彼女が動揺を覚えているのは、人間王が此処にある事のみ。それだけが想定の外だった。
「巡り合わせって奴だろうぜ。人間そんなもんだってぇのは何時も言ってるじゃねぇか。バロヌィス、もう一度聞く――いいや」
魔剣を構えてレウを守る位置に立ったルーギスを視線で押し留めながら、メディクは口を大きく開く。矛を低く構えながら喉を鳴らした。
「――間違いだと言ってくれ、バロヌィス。お前が此処にいるのは偶然で、此の魔獣共はお前を襲ってきていて、お前は彼女を襲ったりなんてしてねぇとそう言ってくれ」
踏み込みながらメディクは視線を細める。一つの確信を得た問いかけだった。それでも尚大きな瞳の中にバロヌィスを信じる色があるのは、彼の人間性であるのか。それとも旧知の仲間を信じたいという想いだろうか。
バロヌィスは一瞬地面に視線を落としながら、零すように応えた。
「……その子供は魔人だ。君にとっての敵だろう?」
「そうかも知れん。違うかもわからねぇ。俺は彼女と話したことがない。魔力を持った奴全てが敵なら、俺はお前とも敵対しなくちゃならん」
バロヌィスは人間王の時代から魔女だった。彼女が莫大な魔力を保有している事はメディクにとっても何らおかしな事ではない。
だが、此れだけの数の魔獣を操ってはいなかった。まして、魔性の匂いを漂わせながら微笑みもしなかった。今のバロヌィスの姿は、魔人の少女より尚魔的だ。
何故気づかなかったのか。
「……私は君に嘘をついた事はないよメディク」
「そうだ。だから聞いている。全ては間違いだと言ってくれバロヌィス。俺はお前の言葉を待っている」
真実だった。誤魔化したり語らぬ事はあっても、直接的な嘘をバロヌィスがメディクについたことはない。メディクはバロヌィスを信頼しているし、彼女が言えばその言葉を疑わないだろう。
かつて共に人間の王国を志し、人間の安寧を夢見て、命を預け合った間柄の信頼は決して安いものではない。どれ程疑わしい状況であれ――例え、バロヌィスから魔人の匂いを感じ取っていたとしても、その言葉をメディクは受け取る。
バロヌィスはたっぷり十秒は間を空けて、うめく様に言った。
「…………君はドがつく愚か者だ。千年前から変わらない。本当に愚かな男だ」
バロヌィスは、微笑すら湛えて言った。しかし笑ってはいなかった。表情がそう造り上げられただけだ。
魔力が奔流を起こす。影が周囲の魔獣を呑み込み、彼らの存在は魔力へと変じた。大きく影が展開される。
「――人間王。話している時間はないみたいだ」
ルーギスが魔剣を構えたまま一歩を出た。横たわらせているレウを庇う様子だった。言葉を受けながら、メディクが頷く。沈痛な感情が瞳には浮かび出ていた。
バロヌィスが強い視線で両者を見つめる。彼女はため息すら漏らした。
「あの日あの時。君が死んだのもド愚かだったからだろう。魔性なんぞの言葉を聞いて、たかだか数百人の人間の命の為に君は死んだ。愚かに過ぎる。真実を知った者は皆こぞっていうだろうさ。だというのにあろう事か、今も私の言葉を信じようとしている!
――酷い男だ。なら、こう言ったならどうする気だ。私はもはや魔人の身だ。君の眼を欺き、大魔アルティアがこの世界を手中にする手助けをしている。それが君の幸せに繋がると理解している、と!」
「――其れがお前の答えってんなら、受け止めるしかねぇわな。そして止めてやる。お前は俺の盟友だ。今も、昔も。人間の国を夢見た同士なんだからよ」
メディクは矛を構えた。長きに渡り共にあった間柄だからこそ、これ以上の言葉はいらぬと語るようだった。
呼気を整え、堂々たる出で立ちの人間王メディクと、赤い外套を肩に掛けた大悪ルーギスが並び立つ。
「悪ぃな、時間を取らせた。ここはちょいと、俺に任せてもらおうじゃあねぇか」
「本当なら俺もそうしたい所なんだがね人間王。魔人を見過ごすわけにもいかない。それに――逃がしてはくれないだろうさ」
メディクとルーギスの一瞬の言葉を食い取ったのは、バロヌィスだった。二人の英雄を前にして、此の魔女は怯みの一つも見せはしない。
むしろ今まで以上に、魔的だ。光を通さぬ両瞳を見開き指を鳴らした。
「――そうともド馬鹿め。私が誰かを逃がすと思ったか。私は最古の魔女だ。ありとあらゆる不道徳を私は肯定する。不埒も、不孝も、不義も魔の探求の下に許諾される」
影が、影から生み出された周囲の魔獣全てを呑み込んだ。
いいや、喰った。肉を咀嚼し魔力とし、その全てを消化する。がちゃり、ぐちゃりという音が廃村を包み込む。
悍ましく、浅ましく、それでいて狂おしい魔女の晩餐の音だった。
全ては準備された事。バロヌィスの魔力が一つの目的の為に溢れかえる。
メディクが敵として此処にいる事はバロヌィスにとって完全に想像外。しかし反面、ルーギスが此処にいるのは想定の内だ。
ならば、彼を殺す為の手段を用意をしないはずがないではないか。彼を何だと思っている。
天城竜と精霊神を斬り殺し、数多の魔人を殺害した男。アルティアと相対して生存した男だ。魔人が三体いたとして、果たして返り討ちにされぬ保証はない。
だからこそ、用意をすべきだ。今なら未だ殺せる。未だ彼は傷を負う。
「私はお前をド侮りはしない。もはや竜も精霊もお前には勝てはしないだろう。お前が勝利を奪い去っていないのは、もう此れしかいないのだからな」
――さぁ、侮辱を始めよう。死者を弄び、魂を軽んじ、この世の理を冒涜する。
此の大地には、かつて空と光を支配した二つの種族以外に、もう一つの支配種族がいた。大陸を跋扈する彼らを止められる者は無く、彼らは人間を小人や家畜と呼んだ。
だが何時しか彼らの時代が終わり、彼らの肉体は大地に横たわる。いずれ本来彼らの名であった尊称は失われ、侮りと畏怖を込めて彼らは小人からこう呼ばれるようになった。
――巨人。かつての大地の支配者が、影からその肉体を這い寄らせていた。