第五百九十三話『終わらぬ魔性戦役』
ガーライスト王都アルシェとメドラウト砦の中間地点。大魔ゼブレリリスの接近を前に破棄された村落が新王国と旧王国の会談場所だった。
村内に人影はない。畑や家屋は魔物が入り込んだのだろう。焼け落ちている部分もあれば、破壊された痕も目立つ。
一度捨てられた村落は簡単には元に戻らない。人が造り上げたものは人の手が入らなければあっさりと錆びつくものだ。
当然、同じような事はこの村以外でも頻発している。ゼブレリリスだけでなく、統率者を失い狂暴化した魔性からも民は逃げなければならない。周辺諸国でも国土には数多の傷痕が残された。復興には数え切れないほどの年月がかかるだろう。
会談場所にはこういった破棄された村落を数度用いた。人目にはつきづらく、反面馬車を回すための道だけは残っているからだ。
「ルーギスは間に合いませんでしたか。人の脚で馬車に追いつこうというのですから、致し方ありませんが」
馬車を降りながら、聖女マティアが思い出したように呟く。敢えて何気なく言ったのは、周囲に胸中の不安を伝播させたくなかったからだ。
傍らでは鉄の匂いをさせながら、カリアが銀髪を振りまいた。
「奴は後で追いつくと言ったのだ。ならば追いついてくる。今更誰ぞに殺される輩ではない」
彼女には珍しく元気づけるための言葉のようだった。マティアはカリアに頷こうとして、目元をひくつかせる。
安心させるような事を言ったカリアだったが、表情は正反対だった。白い肌はより青白くなり、瞳は歴戦の剣士のものから、今にも泣き落ちそうな乙女のものに変貌している。胸の中に抱えきれないほどの感情をため込んでしまっているのは明らかだ。
どうやら今の言葉はマティアに語ったというより自らに言い聞かせるためのものだったらしい。
「……ええ。彼が死ぬ事は考えていません。ですが、また勝手に何処かにいってしまいそうでしょう。行動が管理できないのは困ります」
「全くだ。雨季の空色でももう少し大人しい」
地面に足跡を落としながら、マティアはよろしくないなとカリアの銀瞳を覗き見た。
ルーギス同様に、カリアやフィアラート、エルディスともマティアの付き合いはもはや短くない。何処かへ赴く際に同じ馬車を用いた事も多々あれば、彼女らに助けられた事も数え切れない。
そこでマティアは知った。ルーギスに最も近い彼女ら三人の中で、最も不安定なのはカリアだ。後の二人は瞳の中に映るものが他にもある。魔術であったり、エルフという種族であったりといったものが。
しかし彼女には――。
「聖女マティア。旧王国側がもう到着されているようです」
マティアの思考が深みに入り込みかけた折り、同行するラルグド=アンが村落の内側を指さした。目の下には隈が薄く入っている所を見るに、寝台を積み込んだ馬車に乗っていたにも関わらず休息を取る事がなかったらしい。
彼女の姿を見て、ようやくマティアは意識をルーギスから戦場へと引き戻す。深い呼吸を二度。ここからが己の戦場だ。
マティアは人並み以上の武勇を持たない。紋章教の聖女たる彼女が最前線で槍を振るう事はもう久しく行っていない事だ。下手をすれば雑兵にすら殺される。
彼女の戦場は盤の外。兵らが掴み取って来た勝利を武器に、如何にして最大の成果を掴み取るかという盤外交渉にこそ彼女やアンの本領はある。
まだ幼いレウは騎馬隊と共に馬車に残し、アンと護衛のカリア。残り幾名かの文官を連れてマティアは村落の中心へと足を伸ばす。肌寒さを感じる前に、敵は見えた。
「お初にお目にかかる、紋章教の聖女殿。噂に違わぬ美貌をお持ちだ」
村の中心地に簡易に拵えられたテーブルと複数の椅子。開けた場所に造られたそれらにも周囲にも罠は無さそうだった。事前に騎馬隊を走らせたが、固まった兵の姿も確認できていない。
マティアに声をかけた大男は、椅子に座るでもなく立って新王国の人間を出迎えた。発する雰囲気だけで彼こそが旧王国側の交渉者、その中心人物だとすぐに分かる。
「ロイメッツ=フォモールと申す。本日は護国官ジェイス=ブラッケンベリーの名代として参上した」
国王の外戚にして、上級貴族のフォモール家当主。貴族としての位階であれば、間違いなく上から数えた方が早い。
王都を追われた悲壮さや、自らの境遇に関する情動が顔つきからはまるで読み取れなかった。振舞いからは豪放さと快活さが見て取れるが、所作の細部に気品が漂うのは血脈正しい貴族ゆえだろう。
マティアも名乗って礼を返し、アンに一瞬目配せをした。
「私も我らの女王より全権を委任されて此処におります。本日は実りの多き交渉になる事を祈りましょう」
ロイメッツが今日この場に現れる事は知っていた。だからこそマティアが此処に来た。交渉を終わらせる為にだ。
新王国と旧王国が衝突せずに宥和できるかどうかは此の会談に掛かっている。未だ魔性や――アルティアと名乗る存在の問題はあるが。それでも此処で上手くいけば人間同士で戦役を繰り返す懸念は消える。
互いに破綻だけは避けねばならない会談だった。
交渉の席に着く前に、アンがマティアに目配せを返した。そして小声で告げる。視線はロイメッツの両脇を固める二人の騎士に注がれた。
「両者とも一角の人間です。猛獣ガルラス=ガルガンティアに――番人ヴァレリィ=ブライトネス」
聞いた途端、マティアは瞳を大きくしてから人知れず安堵の息を吐いていた。唇から欠片も漏れ出さないほどの静かさだ。
――ルーギスが此処にいなくて良かったと、心からそう思った。
ガルラス=ガルガンティアは聖堂騎士の継承団長にして、誉の騎士と尊ばれし者。風貌は眦が強くつりあがり、野性的な様子すら思わせる。
過去、騎士の第一人者として各国に名を知らしめさせた彼は、此の会談にさして興味が無さそうに双眸を細めた。
問題なのはもう一人の方だ。
ヴァレリィ=ブライトネス。新王国が保持したメドラウト砦を陥落させ、王都に刃を突きつけた当事者。彼女が率いる銀縁群青の軍勢は、王国の中でも最精鋭だ。
ガルラス同様、彼女の名を知らぬ者はそういないだろう。人間王メディクが神話時代の英傑であるならば、彼らは現代の英傑だった。
「――まだ此方の兵に血を流させて間もないというのに此の交渉の場にいるとは、信条替えでもしたのか銀縁群青」
「戦場は男と女、両方の顔をしているものだ。貴殿ほどの者が分からないわけもなかろう、よもや非力な小娘でもあるまいし」
ヴァレリィに視線をあててカリアが言った。ヴァレリィは表情を変えないままに返す。
噛みあう様子すらあったが、互いにそれ以上言葉を交わそうとしないのは場を弁えているからだろう。思う所も浮き出す感情もあれ、歯がみをして抑えつけている。
改めて、マティアはルーギスの不在に感謝した。もし彼が此処にいたならばこんなものでは済まなかっただろう。この場で旧王国の全員を敵に回してでも剣を引き抜いていたかもしれない。
何せヴァレリィは彼の師父を殺したのだ。彼は奇妙な所で理性的で、驚くほどに感情的だ。仇を目にして冷静でいられるとは思えない。
「悪いなバードニックの。俺らはただの護衛だ。それ以上の意味はねぇ。騎士章典にも、無駄な闘いはするなってあるだろう」
ガルラスは本当に興味が薄いようだった。そも彼の性格からして、交渉事には向かないのかもしれない。
ヴァレリィとカリアとが互いに一歩を退いた後、ようやく交渉に関わる人間が席についた。ロイメッツとマティアを中心に、文官らが周囲を覆う。
「しかし聖女殿が来られるとは、詰まり女王は――」
先に切り出したのはロイメッツだった。現実的な話をする前に、もう見えている結論を斬り伏せておきたいのだろう。マティアもその点には同意だ。見え透いたことを遠回りに言う趣味はない。
「――はい。我ら新王国は、国教を紋章教から動かすつもりはありません。此れが女王のご意志です。その点は交渉の俎上にものらないものと考えて頂きたい」
「元来よりの大聖教徒も神を変えよという事ですかな」
「いいえ。しかし、国家としての教義は変わらない」
マティアは女王の名代として此処にいる。その彼女が曲がらぬという以上、もはや国教という点において交渉に意味はない。まして紋章教の聖女たる彼女が、大聖教に譲歩をするわけがないのだ。ロイメッツにしろその点は分かっている。
彼にとって肝要であるのは此れからの事の運びと、取り込んだ諸貴族の餌となるだけの条件の獲得だった。
しかしその前に、終わらせておく話がもう一つある。
「国教においては、承知である。懐が痛くはあるが、諸貴族を説き伏せてみせよう。兵は護国官が集結させる。だが、それと合わせて話をせねばならん事があるのです紋章教の聖女よ。我らの――大聖教の聖女アリュエノの事だ」
ロイメッツの巨躯が迫力を増し、顔に刻まれた皺が影を落とす。本来はある程度事前に交渉した内容を確約する為の場であったが。それ以外の話題を彼は持ち込んだ。
マティアとアンが僅かに表情を固める。カリアも同様だった。
「聖女アリュエノより密書が届いた。私にではなく護国官に向けてだが。……要約しよう。内容はこうだ。――大聖堂に魔性が入り込んでいると、そう語っておられる」
ロイメッツは苦渋を噛みこんだような表情で、それでいて真摯な瞳を向けながら言った。反応したのはマティアではなくアンだった。動揺よりも、疑念の方が強く浮かんでいる。
「言葉を信じるならば。まだこの国に魔性が根付いていると?」
巨躯を揺り動かす素振りで、ロイメッツが頷いた。稲妻が駆け抜けるような衝撃が周囲にあった。
「聖女アリュエノも思うように身動きが取れなくなっている可能性がある。ますますもって、内紛などしている時間はないのです。我らと魔性との戦役は、未だ終わっていない」
重く苦い言葉を何とか吐き出すようにして、ロイメッツは言った。
マティアは瞼の裏でルーギスの言葉を思い返していた。
――アルティアと名乗る魔性が、大聖堂に縋りついている。