第五百九十一話『一滴の毒』
時は遡る。ルーギスが一人雪原に降り立ち、馬車が彼の言葉に従い距離を取った頃。
ある種の怨嗟の声すら響く車内から一羽の鳥が宙に羽ばたいた。雪原に溶け込むような白色の小さな鳥だ。ちょっとした突風にすら振り回される軽やかさで、鳥は空を飛んでいた。
それだけを見て赤銅竜シャドラプトが変じた姿だと気づくのは容易ではないだろう。彼女の変貌は極大の魔力すら薄く見せる。
素晴らしく繊細に、不敵な大胆さで彼女はルーギスとメディクとの闘争に空から目配せをした。
馬車から飛び出た理由は単純だ。あのままでは銀髪の巨人に斬り殺されてしまいそうだったというのもあるが。
――両者の戦いがどのようなものになるのか、見ておく必要があったからだ。
人間王が蘇った以上、いずれは邂逅するであろう事がシャドラプトには分かっていた。
彼は魔力に一際強く反応する。かつて魔性が大地の覇者であった時代、強者とは魔力を豊富に有するものであったからこその習性だ。
三大魔が崩れ去り、アルティアが復活に至っていない以上。人間王メディクが強く反応を示す存在は限られる。
例えば巨人の血を体内に注ぎ、精霊の息吹を呑み込んで、竜の魔力を体内に保有する彼と、赤銅の女王竜シャドラプト。
何もせずともメディクはいずれどちらかの下に辿り着く。互いに寄り添っていれば必ず到達するだろう。
シャドラプトはふと自問する。では何故己はルーギスの下に逃げたのだろう。
確かに結果を見るならばルーギスは一人残り、メディクと相対した。シャドラプトの安全は確保され、逃走経路に間違いはなかったと言えるかもしれない。
いいやだがそれは結果論だ。
メディクが馬車を一息で貫いていたなら、己の魔力を見極めて殺意を向けてきたならば。奴と相対しているのはルーギスではなくシャドラプトだったかもしれない。
こんなものは、シャドラプトが好み望んだ逃走ではない。必ず生き延びる為に選ばれた選択肢ではないではないか。ならば何故。
疑問を置き去りに、メディクとルーギスが武具を交わせる姿が見えた。シャドラプトは鳥の眼を捻じれさせる。
「そうか。千年を経て尚、メディクは劇的なのだな」
人類を人類のまま超越し、精霊を巨人を竜を殺した者。初めて、弱き種族が強き種族を克服しうると示した王。彼の矛捌き一つが武威の誉れを示している。
だがそれと武器を重ねる者もまた一つの超越者。
精霊を巨人を竜を呑み込んだ彼は、生きたままメディクの敵として君臨している。
不思議とルーギスは楽しそうに見えた。死の瀬戸際に立たされ、強大な英雄を敵としているというのに、彼は今生を謳歌している。
もはや彼の敵は神話の中にしかいないのだろう。
シャドラプトは双方の姿を見て、その剣戟を瞳に映して。――胸中が痙攣しているのに気づいた。込み上がってくる脈動が血を早くする。
起こってはいけない事が起こっているのに気づいた。いいや本当はもっと早くに気づいてたのかもしれない。でなければ己は此処にいないのだ。
発端は、精霊神ゼブレリリスとの戦役だろう。アレはまさしく薄氷の上の戦役だった。
ヴリリガントの時と同様、奇跡すら掴み取って勝ち得た勝利だ。一歩を間違えればルーギスやエルフの女王は勿論シャドラプトすらも滅ぼされていた戦役。
けれど勝った。勝ってしまった。
完璧には程遠く、絶対は遥か彼方。そんな下らない勝利をシャドラプトは久方ぶりに味わった。
――それが甘美な毒である事を誰が否定できよう。
先行きの見えぬ戦い。暗闇でもがき苦しみ、血肉を振り絞りながらどちらに天秤が落ちるかを見極める闘争。短命な者の為の娯楽だ。
長命種たる竜が孕んで良いものでない事は分かっている。愚かな事だと忌避すらしてきた。
けれども毒は常に甘美の味に包まれている。
もう一滴味わいたい。飲み干してしまいたいという欲求が喉を掻く。
なるほどそういう事かと、驚くほど簡単にシャドラプトは得心した。だから己は逃げるのではなく、彼の下に来たわけだ。
再び眼下を見る。ルーギスが正面から、メディクの秘奥を受けたのが視界に映った。
致し方ない事だ。メディクは完成している、彼はまだ完成していない。それに異様な存在への対応力という意味では、メディクに軍配が上がるだろう。
――しかしそれでは困る。こんな所で終わってもらってたまるものか。
瞬間、白色の鳥が姿を変貌させる。羽毛が硬化し鱗となり、赤銅の色を付けて優雅に跳ねる。人間の姿に竜の翼を生やした格好で、シャドラプトは歌うように咆哮をあげた。
◇◆◇◆
轟きわたるは竜の咆哮。中空を痺れさせ、天空そのものを破砕しかねない豪音は千年経って尚変わらない。いいやむしろ時を増して尚その威を増している。
竜の咆哮――此の凄まじい歌声の持ち主に、人間王メディクは感づいた。
「赤銅の女王……。千年経って、まだ生きてんのかよ。アレが」
信じがたい事だった。あり得ないと分かっていても、未だ己と同様で蘇ったと言って貰えた方が腑に落ちた。
彼女の事をメディクは覚えている。竜を司る黄金、銀翼、赤銅の三大血脈。高位な魔性の中で、更に上位。
万物を睥睨する瞳。天空を我がモノとする両翼。天の名工が手がけたとしか思えぬ赤銅の鱗。ヴリリガントを名乗る若竜が竜の王となって後、その軍門に下りながらも女王として君臨し続けた竜の君子。
あの暴虐の竜が、千年を超えて尚生き続けているという事実に驚愕を覚えながら、しかしメディクは矛を持つ力を強めた。
「ふんッ!」
大地と宙とを蹴り上げ、咄嗟にその場から逃れ得る。赤銅が吐き出す極炎の威力は知っていた。雪原全てを枯れ野にするくらいの事はして見せる存在だ。
当然己に向け降りかかってくるであろう炎を予測して身を交わした――が、思いのほか狙いが緩い。
軽く飛び去っただけで避けられてしまうだけでなく。追尾すらしてこないのは異様だ。千年の間に闘争本能が薄まったとでも言うのだろうか。
「いいや。違ぇな。そうか、そいつがお前の王か――赤銅の女王」
此の極炎は己を焼き殺す為のものではなく、この地一帯を焼け野原にするためのものでもない事にメディクはすぐ気づいた。
炎はルーギスとメディクとを分け隔てるように造り上げられている。竜が意識をすれば炎の壁など一呼吸で造り上げられるだろう。煌々と立ち上る炎が視界すら遮った。
此の光景を見るだけでメディクにはルーギスの立ち位置が理解出来た。
赤銅の女王竜は狡猾だ。暴虐でありながら人前に姿を見せる事は僅か。それこそ誰かを殺す時にのみ鱗を見せるような性分と言える。
その彼女が態々自ら咆哮をあげてメディクの意識を絡み取り、炎の壁を晒してまでルーギスと分断してみせた。
――そんな事をするのは、王を護る時だけだろう。
メディクならば炎の壁を切り裂き進む事も出来る、しかしその先が問題だ。
待ち構えるのはあの男。彼は必ず其処に立って剣を握っているとメディクは確信すらしている。無暗に踏み込めば、次に死んでいるのは己かもしれない。
場は途端に膠着した。赤銅竜と大悪の両者を相手取る必要すら考えれば、メディクは一度待ち構えねばならない。
「……あんな奴が俺の時代にもいればな。しかし、聞かされた話と随分違うじゃねぇか」
構えを解かぬままメディクは一人呟いた。思い浮かべるのは相対した男の事だ。
ルーギスなる者は此の戦争の根本原因であり、悪逆の徒だと聞いていたのだが。メディクにはどうもそうは思えない。バロヌィスから伝え聞いた言葉とも食い違いがあるように感じた。
メディクが鼻を鳴らす。
炎の壁の奥から気配が消え去り。赤銅竜の魔力も失われた事を察し取ってから、ようやくメディクは矛を下ろした。追う気は無い。むしろここで決着が着かなかった事に僅かな安堵すらある。
「こいつはちょいと、ぴりぴり来やがるな。きな臭ぇぜ」
メディクが目的としていたのはガーライスト王国王都。そこに行けば大悪ないしこの戦役の首謀者がおり、討ち果たしてしまえばそれで終わるはずだった。
余りに短絡で、余りに突拍子もない行動。しかしそれを成し得てしまう可能性すらもメディクは持っている。
だがメディクはあっさりと踵を返した。肩をいからせ、眉間には強い皺が寄っている。
「嫌な感じだぜ。魔性との戦争は終わったって聞いたのによ。未だそこら中に魔の匂いがしやがる。怪奇で面妖で異常だ。何で今まで俺の鼻は利かなかった?」
メディクは数度、鼻を鳴らした。奇妙な感触が頭を離れない。敵を逃して安堵するのもおかしな事だ。違和感ばかりが肌を覆う。
そういえば――己が死んだあの日も、こんな感触があった。
メディクは地面を踏み抜きながら、眦をつりあげる。王都を目指すのではなく、何かを思い出すような足取りで歩き始めていた。
遠い王都で、大鐘の音が鳴っていた。