第五百九十話『人間の秘奥』
冴えわたる武技とは、どのようなものかと子供の頃考えた事があった。
言ってしまえば剣や槍なんてのは誰にでも振れるし、浮浪者の中にもナイフを持っている奴はいる。それにどんな武技を持った人間も、後ろから刺されれば死んじまうわけだ。
物語の英雄に憧れる反面、子供の頃の俺は武技というものに酷く淡泊だったと思う。武器なんてものは、振れて刺せれば良いんだと考えていた節もあった。
けれどカリアを含めた数多の英雄と出会い、武技の真髄、その欠片をようやく理解し始めていた。
ドブネズミが振るう剣と、英雄が振るう剣の差異。それはたった一つの呼気からすら読み取れる。武具を構え、振り抜く前の一呼吸。その鋭さすら英雄は凡夫を置き去りにするのだ。
――人間王メディクが矛を構え、呼気を鳴らした。軽く切っ先を突き出しただけの姿が背筋を粟立たせる程に脅威だった。
合わせて魔剣を構え半歩踏み込む。そこは戦慄するほどにメディクの間合いだ。頬に寒さではない痺れが走る。
「人間同士の殺し合いなんて、最低で悲惨で泥沼だ。見たくねぇもんさ。ちょいと、張り切らせてもらうぜ」
「そいつは俺も同感なんだがね。どうせなら味方として話したかったもんだ」
互いの一言が、戦場の始まりを告げた。言葉が終わると同時、武具が宙を払う。
刹那。瞬きほどの間も無く、銀の矛が宙を抉りぬく。もはや矛の姿は見えず、一本の線のみが描かれている。メディクの身体ごと突き刺してくるような一刺し。
咄嗟に手首を返し矛先を刃で打ち払う。鉄と鉄が接合し、噛み合う音が雪原に鳴り響いた。
たったの一合。手の平に伝わる衝撃を交換しながら、互いに一歩を退いた。
それはもはや一つの同意に等しい。俺も、そうしてまたメディクも此れからすべき事を一瞬で理解した。
呼気を吸い込む音が重なる。メディクが矛を再び構え、俺も腰元に魔剣を構える。
――視線をかみ合わせ、互いに同時に一歩を踏み出す。
瞬間、矛と魔剣とが唸りをあげて互いを食らい尽くさんと吠え掛かる。
二合、三合――瞬きで十三合。
矛とは本来槍のように突く目的ではなく斬る目的のもの、言わば薙刀に近しい武具だが。どうやらメディクのものは突く為の加工もしてあるようだった。
突き、払い、斬る。三者が表情を変え常に俺の急所を狙いすましていた。一つ一つの挙動が全て殺意と残酷さを孕んでいる。
心から理解した。メディクの呼吸も、一歩の踏み込みも、武具の扱いに至る全てが告げている。
――人間を超越するとはこういう事か。人間の王たるとは此れか。
ヘルト=スタンレーのように、細部まで洗練された至上の武技ではない。間違いなく我流。
いいやもしかすればメディクの時代には『武技』という言葉も、『我流』という言葉すら無かったかもしれない。
何処までも荒々しく粗野、だというのに敵を掃き散らす武威は至上。野生の猛獣が、生きるままにして隙を見せないのに等しい。
原始の暴力。シャドラプトが滅茶苦茶だと語った言葉の一端が分かった気がした。
恐ろしい事だった。俺は何も、ただ不格好に魔剣で矛を受け続けているだけではない。時にただの一振りに見せかけながら、距離を殺してメディクの首と心臓と急所と付け狙っている。だが彼は時に矛を振り回し、時に跳躍してその斬撃を凌いで見せた。
乱撃の最中で此れなのだ。彼を殺そうと思ったならば、より深く踏み込むしかないのだろう。
メディクが斬撃を受けて距離を取った。互いに僅かとはいえ傷を受け、血を垂らしている事にそこで気づいた。
「……強靭で驚愕で脅威だ。今じゃすっかり魔性側みてぇだが、お前も元は人間だな。動きで分かる。よくぞそこまで造った、だがどうして魔性側に転んだ」
呼吸が乱れた様子は見えない。本当にただの好奇心で、メディクは言葉を告げたようだった。追い詰められた焦燥も、人間特有の強張りも無い様子が彼の性格を表している。
「魔性に転んだ覚えはないし、今も人間のつもりだがな。世界が厳しくてね、人間のままじゃ此処まで来れなかったのさ。俺に才能が無いのが悪いんだがね」
彼の前で余り嘘はつきたくなかった。何があるというわけではないが、自然とそう思わせるものが彼にはあった。
事実、俺のような人間が此処に立つにはただの人間ではいられなかったのだ。超えねばならないものを踏み越え、魔力を呑み込んででも前に進まねばならなかった。才能無き凡夫に対し、世界は常に酷薄だ。
メディクは強くした表情を変えないまま、矛を構えなおした。
「違ぇな。世界は俺達だ。厳しく成るのも、優しく成るのも俺達次第よ。ルーギス、お前が悪いんじゃない。俺達が悪かったんだ。俺達がお前が厳しいという世界を変えてやれなかった。――王としてお前を救えなかった俺を許せとは言わん。だが人間の為に、退くことは出来ん。絶対で必定で明確だ。せめて苦しむな」
一瞬、瞳が開いた。頬が緩みそうになる。ああ、彼は俺が知る通り素晴らしく英雄的だ。例え時代が変わろうとも、それだけは変わりないと断言できる。どうせなら、敵ではなく味方であって欲しかった。
矛が構えなおされた瞬間に、空気が変わったのを感じる。メディクが更に一歩間合いを取った事で、俺達は互いに間合いの外。此処からでは距離を殺して斬り伏せても彼は防ぐだろう。
だが背筋を抉るほどの戦慄が肌を嬲っていく。喉が異様な渇きを訴え、指先が凍った様に冷たい。
何かが来る。メディクの存在がそれを実感させる。
恐ろしいと思った。それは何もメディクが強大だからというわけではない。
今まで大魔、魔人、英雄。多くの強者達と相対する機会に恵まれたが、今の此れは初めての体験だったからだ。
強者は、大なり小なり魔を有する。魔性の類であれば勿論、英雄にしろ体内の魔力を用いて自然と己を強靭に鍛え上げるもの。魔術師もエルフも、当然に魔力を行使して事を成す。
魔とはある種の力の象徴であり、人間が力を追い求めるならば魔に近寄らざるを得ない。
――だというのに眼前の人間王には、魔力らしい魔力がまるで無かった。
蘇ったというのだから魔の技を施されているはずだろうに。恐ろしく彼は人間のままだ。
生前もこうであったのだろうと予感する。彼は数多の大魔、魔人と相対して国土を切り取り、それでいながら誰かに殺される事は無かった。
人間の王とは、こういう事か。魔に侵されぬ絶対の個が彼だ。
メディクが呼気を零したのが見えた。矛を振るう絶対の速度が、今は奇妙に緩やかに思える。
呆気なく腑に落ちた。此れに太古の魔性は殺されたのだ。魔剣が咄嗟に切っ先を上に向け、自然と俺の身体を護っていた。
「超越――妙技『精霊殺し』」
振り下ろされた瞬間、矛もメディクも視界から消えていた。僅かな残像すらも瞳に残らぬ超速度。
そう思考を過ぎった瞬間に、腹部が盛大に血が噴き出した。口内にも血が込み上がっている所を見るに、間違いなく内蔵が欠損している。
それだけの事を理解するのに数秒かかってしまった。思考が常に遅れ、行動が後から追い縋ってくる。咄嗟に傷ついた腹を護ろうと腕が動いた。
「勘が良いな。心臓と首を護ったか」
背後から声を聞いてメディクの姿を認識し、ようやく彼の矛で切り裂かれたのだと気づく。だが実感して尚、そんな馬鹿な事があるだろうかと思ってしまった。
だってそうだろう。相対しておきながら、一切相手の視界に残らず背後に回ってみせるなんていうのは、もはや速いなんて言葉では表現出来ない。
咄嗟に振り向いた頃には、もう次が振ってきていた。
「俺を恨めよ。超越――豪技『巨人殺し』」
音すらも破壊されるとは、即ち此れなのだろう。魔剣での防御すら間に合わない。そう思い一歩後ろに跳ね跳んだのが唯一最高の判断だった。
だがそれでも逃げられない。
右肩が丸々破壊され、肉が弾け飛び骨が抉られた。血はもはや元からあったかすらもわからない有様だ。それだけでは飽き足らず、矛のただ一振りで宙へと弾き飛ばされ馬数頭分は後方に投げ出された。
その矛の一撃は、立ち向かうモノならば至高の魔剣であってすら打ち砕くだけの秘奥を有していた。俺が生き延びたのは全くの幸運以外のなにものでもない。
そう、秘奥だ。人間のまま王となり英雄となった彼だけが持つ人類の極技。
大気であり光であると称される精霊を殺すには光の如き速度が必要であり、万物を破壊する巨人には同じ破壊を持って抗わねばならない。そうやって生み出された技がアレだと理解した。
勢いよく大地に叩きつけられる。衝撃で肺がおかしくなったのか、呼吸一つすらろくに出来ない。
「……が、あァっ!? ……ぐ、ぅ……そういう、事か」
嗚咽を漏らしながら、シャドラプトが人間王の脅威に殊更敏感であった理由に気づいた。何故彼女が、俺と合流したのかも。
人間王メディクは、紛れもない魔の大敵だ。魔に抗い魔を寄せ付けず魔を圧倒する。アルティアにすら無かったであろう唯一の個。
言わば人類正義の絶対証左。人類の生存を正義と掲げるのであれば、彼という存在は紛れもなく正。
「……逃げるのも、分からないではないな」
魔剣を左手に持ったまま、無理やりに立ち上がる。地面に堕ちた際に折れた骨が肉に突き刺さったのか、それとも腹の傷が広がったのか血液が手元を覆う。
メディクはあっさりと吹き飛ばされた俺に追いついていた。真正面から見据え、両脚を強く踏みつけた。
「――すまん。苦しませたな」
「いいさ。案外、悪い気分じゃあない。歴史の英雄との一騎打ちだ。燃えるなって方が嘘だろう」
血を口の中から吐き出して、死雪を汚した。矛を構えたままのメディクに向けて呼気を漏らす。喉に傷がついたのか、呼吸する度に痛烈な感触があった。
全身が血と痛みに塗れている。それでも尚戦えるのは、俺の身体がもう人間から数歩離れてしまった証拠なのだろう。それが悪かったとは思わない。必要な事だった。
けれど一方でメディクのように人間のまま高みに至った存在に、胸を焦がされるのも事実だ。今此処で膝をついてしまいたい思いだってある。
左手で魔剣を構える。握力はもう戻っていた。
「――じゃあ、続きといこう人間王。俺も倒れるわけにはいかなくてな」
「強ぇなおい。驚愕で驚天で残念だ。お前が人間だったならな」
「言っただろう。頭は人間さ。昔も今もな」
「そうか。だが俺は負けんぞ。譲れんものが多すぎるッ!」
メディクの武威すら籠った言葉に思わず頬が揺れる。やはり、彼は素晴らしく人間の王だ。
だがどれ程焦がれる想いがあったとしても、俺はもう此処で膝を屈するわけにはいかない。
何せ数多の人間が、此処に至るまで俺を生かしてくれた。俺を凡夫と知りながら導いてくれた奴も、俺の首根っこを掴んで支えてくれた奴も――俺の為に命まで投げ出した奴もいる。
なればこそ、メディクが人間の王であるように、俺もまた彼らの英雄でなくてはならない。俺はもうドブネズミでも、ただ一人の人間でもないのだから。
吐息を漏らす。何だ、簡単な事じゃあないか。
「――人間王。お前に譲れないものがあるように。俺にも譲れないものがある! アルティアの語る幸福を受け入れないのが悪だと言うのなら、俺は俺を信じる人間の為にお前を殺すしかない。お前は俺の敵だッ!」
腹の底から、魔力が滲み出てくるのが分かった。魂が魔力を食らい、人間を離れ魔人すらも踏み外す音がした。それこそ、大魔ゼブレリリスと相対した時の感触が此処にある。
だが湧き出てくる魔とは裏腹に、俺の頭蓋の中にあった意志はただの一つだけだ。
「――分からねぇな。怪奇で乱脈で仰天だ。どうしてお前みたいなのが俺の敵なんだ」
眉間に皺を寄せ、それでもメディクは相対して矛を構える。再び、いいや先ほど以上に緊迫した空気が周辺を覆い、視線が重なったと同時。
――刹那、竜の咆哮が耳朶を打った。