第五百八十九話『人間王』
大聖教軍。生きて勇壮な兵と、死して尚立ち上がる兵が交わる軍勢。先行軍と合わせれば総勢十万を超える兵数だが、果たしてその中に魔性を帯びた者と死にながら生きている者がどれほどいるものか。
此れを全うな人類軍と呼ぶべきなのか。それとも、また別の呼び名を与えるべきなのかは分からない。
だが一つ確かなことは、今代の神であるアルティアが彼らを人類の主軍と定め、彼らにこそ王権を定めんとしている事。
それに一見悍ましくも見えるが、物語で考えるならば素晴らしい英雄譚ではないか。
ガーライスト王都は魔の手に落ちた。巨人に竜、精霊までもを下した大悪は権能を振るい国家の中枢に魔性は満ちるだろう。
その人類を救う為、過去に死したはずの英雄らが再び眼を覚まして武器を取る。
雷光の勇者、超越者たる人間王、白銀の大英雄。歴史が正道であったならば──魔性によって人類の歴史を歪められなかったならば燦然とした輝きを残していただろう彼ら。
英雄達と聖女、その守護者らが共に戦う姿はまさしく一つの物語。
此れは英雄達と聖女、そうして聖女の守護者らが運命に立ち向かう為の物語でなくてはならない。
「メディクッ! おいメディク!? あのド馬鹿!」
魔女バロヌィスは自ら破壊した双眸を周囲に振り向け、視界ではなく自らの持つ魔力と影を持って己の主が姿を探す。呼びかける姿は主に対したものというよりも、むしろ同胞や盟友に語り掛ける姿のようでもあった。
人間王メディクは此の時代の人間から見ても頭一つ飛び越えた長躯の大男だ。それに行く先々でちょっとした騒動を起こし続けるのでよく目立つ。彼が此の陣地に留まっているのなら、そも此処まで探し続ける必要などないはずだ。
無論、バロヌィスにもそこの所はわかっている。だが信じられなかった、正確には信じたくなかった。
未だ目を覚ましたばかり。千年の時を魂だけで過ごしてきたあの王が、まるで生前のように無茶を仕出かすなどと信じたくなかった。
「人間一人、管理しきれませんかバロヌィス」
「……面倒だ。君と話す時間は私にはない。魂だけになっておきながら器用なものだと感心はするがね」
蒼髪の毛を揺り動かし、守護者ジルイールは小言でもいうみたいにバロヌィスの隣で両腕を組んだ。
バロヌィスはジルイールを見下ろして、光すら殆ど受け取れなくなった瞳を細める。実際にジルイールを捉えているのは魔力を含めた他の感覚でだ。
「そんな姿の君に願うべくもないだろうが。メディクを見たか」
「肉体を与えた以上、もはや人間王は己の管轄ではありません。それに、此れでも機能として何ら問題はない。見下ろすのはやめて貰いましょう」
守護者ジルイールは、以前の成人した女性の体つきから十歳程度の子供の姿へと変じていた。
目元の剣呑さは薄くなり、幼さが強く残っている。此の身体に大した意味があるわけではない。ただ魂だけの存在で大きな身体を再現するよりも、子供の姿の方が都合が良かっただけだ。
とはいえバロヌィスにとってはそこの所はどうでも良い。
問題は、アルティアや英雄守護者らに常視線を走らせているジルイールが、メディクの事を認知していないという事だ。となれば、一番可能性が高いのは。
「──ハッ。あいつなら王都まで行くんだとさ。面白いが、暇な奴だ」
二人の間に割り込んできたのは若い男の声だった。ある種の迫力を持った男だ。
目の覚めるような銀髪。眼ははっきりと大きく獰猛だ。真っすぐに見つめればそれだけで首筋に噛みつかれそうな威容がある。背は人間王メディクほどではないが高く、体つきは紛れもない鍛え上げられた戦士の其れ。
何より空気が他と違った。魔人であるジルイールやバロヌィスと並んで尚、見劣りせぬ熱量が彼にはある。
噛み煙草を慣れた手つきで口元に運び込み、ひと呼吸をしてから男は言った。
「なぁおい。軍の陣地だってのに、酒が少ないと思わねぇか。煙草もだ」
「……規律を無暗に乱すものを多量に持ち込むような真似は」
「馬鹿野郎。兵ってのは何時死ぬかわからねぇんだからよ。今この時を楽しませてやるんだ」
俺も何時死ぬか分からねぇと、男は付け加えた。ジルイールへの言葉遣いには、何処か敵意すら浮かび出ているように思える。
雷光の勇者。大陸における一度目の魔獣災害を押し留めた立役者であり、同世代において並び立つ者のなかった英雄──リチャード=パーミリスの全盛が此処にあった。
弾ける雷火の如き熱量を纏い、腰元に提げた『栄光』の銘を持つ剣は彼の手足の延長にすら見える。魔人二人と相対して尚揺るがぬ存在感があった。
ジルイールは瞳の中に濁った色を浮かべてリチャードを見たが、すぐに反応したのはバロヌィスの方だ。
「何にしろ、分かった。あのド馬鹿は王都まで向かったわけだ。ならば私が連れ戻して――」
「──必要はありません。好きにさせておきなさい。どうせ、彼は人の言うことを聞く性格ではないでしょう」
清らかな声が陣中を舞った。ジルイールにバロヌィス、それにリチャード迄がいた事で元より注目を浴びていたが、彼女の出現によりこの陣地の中心が此処になる。
「豪放で勇壮。歩みだせば止められる者は無し。魔性の中にあって人間国家を作り上げる。そんな偉業の代名詞ですもの。なら、彼は彼らしく動いてもらった方が良いでしょう。ええ、構わないわ」
「そう仰るのであればそのように」
聖女アリュエノの言葉に、一番に頷いたのはリチャードとジルイールだった。大聖教徒である彼らにとって聖女の言葉は代えがたい絶対のもの。それに逆らう余地はない。
だがバロヌィスだけは、一瞬アリュエノに反抗心のようなものを見せてから声を落ち着けて言った。
「彼が敵と戦って死ぬ事はないだろうけれどね。だが、君らが想像しているものとアレは少し違うというか、いいや、ド面倒だ」
バロヌィスが言葉を思わず押し留めた所で、アリュエノは言葉を続けた。どちらにしろ軍をもって人間王メディクを追い回すような真似はしない。それよりもやるべき事があるのだから。
「──護国官が先行軍の掌握を終えようとしています。彼には才がありますから、その程度はこなすでしょう。その次は、アメライツ陛下と私の確保」
ブラッケンベリーの将官としての才は疑うべくもない。ロイメッツら貴族やヴァレリィを始めとした将兵の取り込みもつつがなく進んでいるはずだ。互いの衝突はもう間もなくの事だろう。
直接アリュエノと国王に手荒な真似はしないにしても、武力を背景にした権力の簒奪くらいはやってのける器量が彼にはある。
「私たちは私たちの為の準備を続けなさい。生きて前へ進む以上、必ず窮地は訪れるものです。窮地を一度も経験しないものは、凡夫と変わらない。窮地を自らの意志でもって乗り越えて初めて、英雄と呼ぶのです」
◇◆◇◆
その偉丈夫は、唐突な衝撃をもってそこにいた。地面が抉り抜かれる程の勢いで矛を突き刺し紋章教の馬車を止め、たった一人で護衛付きの馬車を襲わんとしている。
「本当は王都とやらに行くところだったんだがよぉ。驚愕で衝撃で幸いじゃねぇか。こんなにもでけぇ魔力抱えた奴らと出会うとはな! どうだ、出てくる気はねぇか」
その行為も、姿も、言動も。全てが滅茶苦茶だ。到底真面な人間がする事じゃあない。此れがただの人間相手であるならば、与太話で終わるのだが。
問題は、相手がその滅茶苦茶を貫き通してしまう存在という事だ。
「シャド、アレがそうか」
赤銅竜シャドラプトは馬車の中からじぃとその偉丈夫を見てから呟いた。一つ一つの言葉に奇妙な実感と感情が籠っている。
「気配だけでわかるのだな。間違いなく人間王じゃないか」
「そうか」
言いつつも、俺自身も半分くらいは確信があった。明らかにただの人間とは違う、かといって魔人ともまた異なる気配。ただ人間のまま、膨大な熱量を有している其れ。
歴史の中の英雄――人間王メディクその人。物語の中でしか聞いたことのない人物がそこにいた。
さてどうしたものかと一度自身に問いかけてみたが、すぐに答えは返ってきた。今の状況ですべき事、正答は一つしかない。手袋をはめ直しながら言った。
「マティア、先に交渉の会場まで向かっておいてくれ。カリアも道中の護衛を頼む。なぁにすぐ追いつくさ。シャドは好きに逃げててくれれば良い」
「――おい、貴様」
魔剣を腰元に提げながら、馬車から飛び降りる。背中にカリアの声が掛ったが、振り向かずに死雪に足を踏み入れた。
カリアも、下手をすればマティアも俺を止めてくれるのはわかっていた。
しかしマティアにはこの後の旧王国との交渉を成立させる役目があり、カリアも護衛として付いていかないわけにはいかない。シャドは人間王と真っ向から対立する気はないだろうし、レウにそんな役目を負わせる気はない。
そして残念な事に、元々ついていた騎馬隊の護衛では全員が殺されかねない。
詰まり、俺が出ていくのが一番纏まりが良いというわけだ。メディクが魔力の大きさを目安にしているのなら、フィアラートから存分に魔力を頂いてしまった俺は分かりやすい標的だろう。
偉丈夫――人間王メディクは、矛をくるりと回して肩に置きながらこちらを見た。
「いいねぇ。物事は単純な方が良い。お前みたいに分かりやすい奴は俺は大好きだ」
「単純すぎると、それはそれでろくな事がないがね。人間自体がそもそも単純じゃあないだろうさ」
魔剣を構え、人間王を見据える。王と名乗るにしては、余り豪奢な恰好ではない。むしろ着古した衣装をそのまま着続けているようにすら見えた。鎧を付けていないのは、敵に傷を受ける事などないという自負の現れだろうか。
戦慄が背筋にあった。頬を打つ風が奇妙に冷たい。今俺の目の前に、歴史の中の英雄がいる。それは畏怖を覚えると同時、言葉に出来ない痺れがあった。
人間一度くらいは、歴史の中の人物に思いを馳せる。時に憧れ、模倣すらする。叶わぬ夢だとわかっていながらも、追い求めざるを得ないわけだ。
だが今この時、俺の前に歴史がいる。人間の歴史の出発点が此処にいるのだ。
「名乗ろう。俺はメディク。もう王じゃねぇからな。ただのメディクだ。お前の名を聞かせてもらおうじゃねぇの」
名乗り一つとっても威風堂々。矛を両手で持つ姿は神話に語られる姿そのままだ。白い呼気を漏らしてから言った。
「ルーギス。ただのルーギスだ。出来るなら、昔話でも聞きたい所なんだがね。俺にも仲間がいるし、助けたい奴もいる。お前が何処の何者であっても、此処で死んでくれ」
メディクの長い眉が、ぴくりと上がったのが分かった。実に面白そうに唇をつりあげながら、声を鳴らした。
「僥倖で幸運で最高だ。やっぱりよ。幾ら人間が増えたって言っても、無暗に殺し合いなんてさせたくねぇからなぁ!
――ちょいとその首もらい受けるぜ、大悪とやら」




