第五百八十七話『古き英雄』
与えられた王宮内部の客室。やけに座り心地の良い椅子にもたれかかって、羊皮紙に記されたアリュエノの声明を読み返していた。
当然記録官か文官かが書き写したものなので筆跡はまるで別物なのだが、何故だか彼女がそのまま記したものではないのかという気配すらしている。
「これは未練とは違うと考えたいんだがね」
記された内容は、大部分は今までの大聖教の主張と変わらない。紋章教を否定し、新王国を糾弾するもの。そうして俺を大悪と断ずるものだ。読む意味も殆ど無い内容と言ってもいいだろう。
これだけであれば何てことは無かったのだが。
最後の数行に、俺へ恭順を求める内容があった。問題なのは恭順を求めた事ではなく、その内容だ。
――その文には、俺とアリュエノしか知らないはずの事が仄めかされている。もう一度同じ夜空を見れる事を願うと。
孤児院時代。俺がアリュエノを連れ出して星が掴めそうな程の夜空を見せた事がある。他の人間は勿論、アルティアだって知らないはずの事だ。
これがあの日の事を示唆しているのなら、間違いなく書いたのはアリュエノ本人。
胸中で、もしやとずっと抱え込んでいた一つの憂慮が晴れていく気配があった。重いものが取れていく感覚。
憂慮とは詰まり――アルティアに身体を奪われたアリュエノはもうすでに消滅してしまっているのではないかという考えだ。
宝石バゥ=アガトスが消えてしまったように、アルティアがアリュエノを取り込んでしまっていても何らおかしな事はない。追い求めた先に、彼女がいないなんて事は十分に考えられたのだ。必死に感情で否定しながらも、心の何処かではもしやと思い続けてきた。
だが此の文面は、読み返す度に俺にアリュエノの存在を意識させ続ける。
――奇妙な確信があった。アリュエノは生きている。アルティアのみを殺す事が出来れば、全ての終止符を打ってやれる。
テーブルに置いていたグラスを手にとり、中の酒で喉を潤す。客室には少し遠慮してしまうほどの高級な酒瓶が並んでいたが、一先ず一番安そうなものを選んでおいた。それでも一杯で頭が熱くなる程の美味だ。
ふと、部屋の外で音が鳴っている事に気づいた。付いてくれている使用人にも最低限の連絡だけで良いと伝えているから、夜にならないと誰も近寄らないはずだ。
だが足音はより強くなって響いてくる。筆頭候補はカリアなのだが、彼女とは足音の質が違った。
「――入るぞ、ルーギス。お前は小僧の頃から変わらんな。困った事や考え事があれば、すぐに一人でいたがる」
グラスを丁度空にした所で、ノックも無く彼女――ナインズさんは入ってきた。一切の遠慮も気後れも表情には無い。むしろ当然の振舞いだと言わんばかりだった。
だが当然と思うのは俺も同じだ。少なくともナインズさんに部屋に入られた所で、すぐ追い返す気にはならない。
「珍しくないですか。ナインズさんが来るなんて。来るならカリアか、マティア辺りだと思ってたんですが」
「お前が部屋から出てこないと アンが泣きついてきてな。全く、私はもう孤児院の経営者ではないんだぞ?」
元々気丈な眼が、しっかりと整えられた眉と共に吊り上がる。声にはさほど怒気が籠っていないが、不機嫌さを表したいのだろうという意図は分かった。
「たまには一人になりたい事もあるんですよ。ずっと一人の事が多かったもんで」
今は違うが、かつての頃はずっとそうだった。孤児院を出てアリュエノと離れ、爺さんとも別れ。時にブルーダーや誰かと組む事はあっても、仲間らしい人間はいなかった。一人で考え、一人で動く癖が嫌というほどについてしまった。
誰かを信用しないというのでも、出来ないというのでもない。ただ誰かの意見を聞いて言葉を交わして結論を出すよりも、一人で考え一人で動く方に重点が寄ってしまったと言うだけの話だ。
「そりゃあ、利益が出る話や良い話なら仲間にも話すべきなんでしょうが。――アリュエノに関わる話なんで。他の連中には厄介事でしょう。なら余り話す事もないと思いまして」
「それは違うな。お前まさかずっとそんな考えで此処まで来たのか」
ナインズさんは孤児院にいた頃から一切変わらずに言葉を発し、余った椅子に腰をかけた。室内にあった酒瓶の内、一番高そうなものを選び取ってグラスに注ぐ。
俺はナインズさんが話し出すまでじっと黙っていた。言葉を否定されても不思議と反感を覚えていなかった。
「喜びや利益のみを分かち合う者は友でも仲間でもない。ただの協力者だ。悲しみと不利益をも共にする者を、友や仲間と呼ぶのさ。どうせこう思っているんだろうルーギス。自分なんぞの為に苦労をかけさせるのは忍びない、なら自分だけで抱え込むべきだと」
俺が飲んだものよりずっと度数が高いはずの酒を、ナインズさんは一息で飲み干して再度グラスに酒を注ぐ。相変わらず、酒でも何でも弱さという点が見えない人だ。
「……ナインズさんには敵いやしませんね。まぁ、おおよその所はそうです」
その様子を視界に収めつつ、肩を竦めて言った。
実際の所、大魔――アルティアに関わる部分はカリアやフィアラート、エルディスだけではなく、マティアやフィロスにも伝えはした。
真っ向から敵対する以上、あの魔性の事を全く知らせずにというわけにはいかない。しかし反面、アリュエノの事は別だ。彼女については全て俺の私事でしかない。
ナインズさんは合計二杯の酒を飲みほしてから、ようやく深く椅子に座って瞳を大きくする。
「敵わないついでにもう一つ聞いてもらおうかルーギス」
軽く頷いて続きを促すと、あっさりとした調子で彼女は言う。
「――今のお前に、アリュエノの事を忘れろとも諦めろとも言わない。だが、アリュエノの為に自分の幸福を逃すような馬鹿をするな」
「……もう少し深く聞いてもいいですかね」
「ああいいとも。私から言わせればな。お前も、もしかすればアリュエノもまだ子供のままだという事だよ。自分が思った形で幸福になれると思っている。
お前とアリュエノが互いに憎からず思っていた事は分かっているさ。もしかすれば、二人ともそろって平凡に生き続けられたのならそれが一番の幸福だったのかもしれない。だが恐ろしい事に、お前らは二人揃って大きくなりすぎた。もう平凡には戻れない。
――それにお前を思っている人間も、お前を信じている人間ももう一人ではないんだ。幸福は一つだけでなく、多種多様な形があると私は信じている」
ナインズさんが言わんとしている所は容易に読み取れた。端的に言えば、どう足掻いてもアリュエノとただ平凡に暮らすなんていう将来はもう与えられないのだから、そればかりを追い求めて破滅するな、俺を支えてくれる人間をもっと見ろとそう言っている。
知らず、指先が胸元の噛み煙草を探していたのに気づいた。そのまま懐から噛み煙草を取り出して、テーブルに置く。
「――分かってますよナインズさん。もう数えきれないだけの人間が、俺を助けてくれてるし一緒に命を賭けてくれている。彼彼女らを見捨てる事はもう俺に出来ないし、しません」
此れは心の底からの本音だ。以前の俺ならばアリュエノからの恭順の誘いを見て、真意を見る為に一人で夜に駆けだしてしまう事だってあったかもしれない。
けれど、もうそんな事を出来るわけがないのだ。
カリアやフィアラートにエルディス、俺を助けてくれる数多の仲間に、命を賭けてくれる将兵。
どうしたわけか。俺はずっと苦手意識を持っていた周囲の人間に対して、抱えきれないほどの好意を持ってしまっていたらしい。
英雄たり得る為ではなく、ただ俺が俺自身の考えとして彼らを切り捨てるような真似はしたくないのだ。
「俺はもう十分幸せですよ。でも、その幸せの中にアリュエノがいてくれればって思う位には強欲なだけです」
俺がそう言うと、大きなため息が聞こえた。一拍を置いてから、ナインズさんは顔を上げる。
「……本当に、食えん男になったよお前は。分かった。だが、口外するのや態度に出すのはやめろ」
ナインズさんは一瞬、孤児院時代の笑みを頬に浮かべてからすぐに声色を切り替える。改めて扉の方を見やってから言った。
「アリュエノの事はともかくとして、最近王都で噂が流行っていてな。お前がゼブレリリスとの戦役の際に竜を操っただとか、魔性と共に戦ったとかいう類の噂だ。恐らくは大聖教側の密偵が入り込んでいるんだろうが」
要は此方を疑心暗鬼にさせたいのさ、とナインズさんは続ける。
まさか本当に赤銅竜のシャドや魔人となったレウの協力を借りていたとは到底言えない雰囲気だ。
だが大聖教側が噂を積極的に流しているのは本当だろう。真実がどうであれ、俺を化物――魔性側、偽英雄として飾り立てたいのがあちらの思惑だ。不安定な状況が続けば続くほど、おかしな事になる可能性は上がる。
――戦うにしろ戦わないにしろ、早期に交渉の決着を付ける必要があった。
護国官ジェイス=ブラッケンベリーと、新王国との交渉はもうすでに始まっている。けれどそれも、何時破綻してもおかしくない薄氷の交渉だ。
誰も彼もが、危機感と不安に立っていた。だからだろうか、余計にアルティアとそうしてアリュエノの事が強く思考に残っていく。
あの神霊を名乗る化物が、今も此方に近づいてきている。その事実だけが、鮮烈に思考を焼いていた。
◇◆◇◆
人間王メディクの逸話は、歴史と神話の中にのみ残っている。
学者か、そうでなくても多少物を知る人間であるならば、彼が何を成した人間であるのかを語るのは容易い。
――曰く、西方に初めて人間の国家を作り上げた。最初の王。
人間の文化と文明は、彼から始まったのだとする考え方が多数だ。この点については意見が分かれる方が珍しい。だからこそ西方諸島の人間は誇り高く意志が強い人間が多かった。
反面、こう聞かれた場合に統一した意見が出る事は珍しかった。
――では彼はどのような人間だったのか?
正義感に溢れた人間だという話もあれば、征服欲に塗れた人間だという意見もあり、はたまたお飾りの王に過ぎなかったという説もある。
彼の偉業を伝える逸話はあれど、人格を残した資料はごく稀だ。一度彼の王国が完全に滅亡してしまった事がその要因なのだろう。
だからこそ、今この時代において人間王メディクを正確に知る人間は一人、いいや一体しかいない。
魔人バロヌィス。人間王メディクと共に最初の人間国家を作り上げた魔女。
もはや唯一彼女だけが、生前の人間王メディクを知っている。絢爛で、豪快で、溢れんばかりの壮烈さに溢れていた彼を。
「――おいおいおいおいおい。何だこの馬鹿げたどんちゃん騒ぎはよ。俺の時代は、もうちぃっと静かなもんだったぜ。驚愕で感激で衝撃だ! こいつら全員人間かよ!」
男は長躯だった。大聖教軍の軍勢を見渡し、快活に笑うように言った。馬鹿げたと言いながら、この様子を嫌っているわけではないらしい。何処か陽気な口ぶりにすら見える。
「ド馬鹿め。君の王位から何年が経ったと思っている。時が経てば虫だって無暗に増えるさ。人間が増えない道理はないだろう?」
「だがよぉバロヌィス!」
長躯の男は、傍らに控える魔女バロヌィスを呼んだ。魔人に呼びかけるような怖れは一切なく、旧来からの知人に話しかけるような気安さだった。
「壮観で感動で衝撃じゃねぇか! 人間はもう死にかけてたってぇのによ。いや、俺が思ったより人間はずぅっと丈夫だったってわけだ!」
男は大聖教軍の陣幕にあって、物珍しいものを見続けているみたいに言う。ひとしきり感想を述べ切って満足したのか、一つ深呼吸をしてから再び口を開いた。
「で。増え続けた結果、今度は人間同士で戦争ってわけだ。合ってるかバロヌィス?」
「……そうだ。今は大聖教と紋章教が戦い合ってる。恐らくは、次の戦役で全て終わるだろう。ド理解は出来たかな。――メディク?」
「委細結構!」
男は片手に持った、己の身長ほどの矛を肩に担いで人好きのする笑みを浮かべた。彼が一つの王国の頂点に在った理由が、その笑み一つで察し取れる。
「物事ってのは単純な方が良い! よくわかりゃあしねぇがもう一度目ぇ覚ましちまったからには、戦争なんてもん終わらせてから眠るとしようじゃねぇか! 大悪とやらを平らげてよ!」
絢爛に、豪快に、壮烈に。人間王メディクは言葉を振り回す。
歴史の上で、並ぶもの無き英雄と語られる一角が、此処に目を覚ましていた。