第五百八十話『運命』
――嘘だろう。嘘だと言ってくれ! 俺にその言葉を信じろというのか!?
新王国軍の大天幕。ルーギスの呻きにも似た激昂を見て、天幕に座するフィアラートやエルディスを含めた主だった面々、記録官のライショーらは驚愕にも似た表情を浮かべた。
常の彼は、少なとも表に見せる面だけで言えば非常に冷静さを保っていたと言える。胸中では死を悼んでいても、苦悩に襲われていたとしても、指揮官としての義務を知り得ていた。
だが今日この日だけは違った。
「……リチャード爺さんが、死んだ。……最低だ、今日は最低の日だ。俺は二度と今日という日を祝わない」
心臓に匹敵するものを奪われたような沈痛さを込めてルーギスは言う。僅かに落ち着いた様子だったが、誤魔化しに過ぎないのは明らかだった。
誰もが動揺を覚え言葉を発することすら躊躇する中で、カリアだけが唇を跳ね上げた。銀眼が強く輝いている。
「……元帥。メドラウト砦は落ちた。ならば奴らの次の進軍目標は王都だ。我らは王都にいち早く帰還すべきだろう。そのための準備を進めたい」
そう切り出せたのは、カリアは周囲よりは驚愕が薄かった為だ。
カリアはルーギスがまだ冒険者の時代からリチャードと言葉を交わしている姿を幾度か見た。師とも父とも言える間柄である事は理解していたし、彼が身内に対しては嘆息するほど執着するのも分かっている。
だからこそ、カリアが言わねばならなかった。
伝令の言う通りにメドラウト砦が焼き払われ物資が喪失したのであれば、その分旧王国軍の足は遅くなる。それでも此処で足踏みしている時間の猶予は全くない。
今すぐにでも駆けつけ、王都の盾となるべく準備を整えねばならない。例え相手が六万を優に超える大軍であったとしてもだ。
「……爺さんは、王都へと先行部隊を回したんだったな」
重い言葉が伝令へと突き刺さる。伝令は思わず一瞬吃音し、数秒たってから頷いた。
「分かった。――王都に戻ろう。マティアとフィロスに先に伝令を。負傷兵は優先して荷馬車で運んでやってくれ」
負傷兵を含めた二万強の軍勢と指揮官は、ルーギスの一言で動き始める。彼は酷く悲しそうな、それでいて怒りを含めた瞳をしていたのがカリアには見えた。
恐らく、過去のルーギスであれば王都への帰還などしなかっただろう。間違いなく少数の兵を率いてでもメドラウト砦へとヴァレリィを殺しに行ったはずだ。身内を奪った者を彼は決して許さない。
今回王都への帰還判断を下せたのは、リチャードが先にそれを成したからだった。リチャードの行いや言葉の一つ一つがルーギスの脳に張り付き、最期の言葉となって彼を律している。
天幕全体が王都への帰還に向かって動き出す中、ルーギスがぽつりと沈鬱な表情を隠さずに言った。
「――カリア。少し、付き合ってくれ。爺さんに関する事だ」
命令ではなく、懇願に近かった。銀眼が瞬いて、それに頷く。他の誰もが割って入れない空気がそこにはあった。
尚――この場に居合わせた記録官ライショーがこの状況を手記に書き残した事で、ある種の説が後に残った。
英雄色を好むの例外に漏れず、女性関係には数多の噂や記録が絶えない彼であるが。
――最も愛したのは、最も長く彼に付き添ったカリア=バードニックなのではないか、という説だ。
◇◆◇◆
一番に思った事は、殆ど窒息しそうな表情をしているなという事だった。
ルーギス個人の天幕の中は荒れてはいなかったが、それはもとより余計な物を置きたがらない彼の性格からだろう。豪奢な装飾や紋章の一切は取り払われ、簡素な寝具と酒、そうして彼の手元には魔剣だけが置かれている。
バードニック家の家宝とされていた宝剣が、今は魔剣に転身しているのは何とも奇妙な事だった。
「窒息、いいや死にそうな顔をしているな」
「……これでも抑えたつもりなんだがね」
寝具に座ったルーギスが覇気無く呟きワインの入ったグラスを傾けるのを見て、これは駄目だと思った。社交界では表情を隠すのは当然の技術だが、彼にはそういった素養はまるでないらしい。
「さて、後悔でもしているのか?」
リチャードをメドラウト砦へ見送ったことを、悔やんでしまっているのかと問うた。ルーギスの反応は早かった。
「そんなわけがない! ……いいや、悪い」
言葉を一瞬荒げて、ルーギスはグラスをカリアに手渡した。カリアは仕方がないという風を浮かべて、傍らに腰かける。
「……爺さんは自分の意志で、自分の言葉で砦を護ると言ったんだ。俺が後悔をするってのは、爺さんの意志を侮辱するって事だろう。俺がもっと早ければ、もっと上手くやっていれば、って後悔はあるがね」
だがそれは成らなかった。そうしてゼブレリリスをより早く殺す、もしくはより上手く場を整えておければ、などというのが夢想の類にすぎない事はルーギスにも分かっている。
けれどそれでも、リチャードを殺してしまったという実感は手の内から消えていかない。
「指揮官の義務であるとか、権利であるとか、今の貴様には言っても仕方がないのだろうな」
カリアは巨大な剣を振り回すとは思えない細い指先でワインを飲み干し、銀髪を傾かせる。
指揮官には命令の結果を受け止める義務があり、故に死を命じる権利がある。しかし彼がとうにそんな事を理解した上で吐露を行っている事をカリアは分かっていた。もはや彼の中にすらどうしようもない感情が渦巻いているのだろう。
だからむしろカリアは恍惚としたものを胸に抱きながら、感情を吐き出させるよう仕向けた。
「あの老将軍が、貴様にとって特別だった事はこれでも分かっているつもりだ。しかし聞かねば分からん部分もあると思うが、どうだ? ん?」
「カリア、お前は」
一瞬、何事かを言いかけてルーギスは唇を閉じた。言ってはいけない事を無理やり呑み込んだようだった。
「……いいや、そうだな。例えばだがカリア、お前は孤児に手を差し伸べた事があるか。当然金も持ってない、才能も無い薄汚い孤児をだ。その孤児のために、命を差し出す事が出来るか?
俺は確信を持って言える。そんな奴は二人とこの世にいない。爺さんだけはそれをしてくれた。俺はその分を、返したかったんだよ」
リチャードは、ルーギスにとっての師であり父だった。そうして何より、何も持っていなかったルーギスの手を取ってくれた人間だ。そんな稀有な人間は三人だけ。後の二人はナインズと、そうしてアリュエノだ。
三人の内誰かが欠けていれば、ルーギスは何処かで死んでいたという確信がある。孤児の運命などそれくらい容易く変わるものだ。
「此処に来て、俺を過大に評価してくれる奴はいる。英雄だと呼んでくれる奴だっている。だが、それは結局俺じゃなくて、俺がしでかした事を見ているだけだ。だが爺さん達のように、何も持たない俺に手を差し伸べてくれるって奴が何処にいる? いやしないさ。俺はそんな人間を殺したんだ!」
自嘲と自罰が織り交ぜられた言葉だった。
そんな誰かを求めているのではなく、ただただ自分の首をしめて殺してしまいたいという想いすら含まれていた。
サーニオ会戦でリチャードと相まみえた時には、ルーギスはこんな感情を抱いていなかった。それがリチャードへの礼儀だと思っていたし、戦場の理だと理解していたからだ。
だが一度味方となり、共に同じ志を持って戦うとなった時に想ってしまった。
――今度こそは彼を生かせるのでは、と。
そんな、思い違いの代償が此れだ。
ゼブレリリスを殺したとは言え、此れはあくまで防衛戦闘に近い。新王国軍が得たものは何もなく、反面旧王国軍はメドラウト砦を失陥させ喉元にまで槍を宛がっている。破滅の足音はすぐそこまで迫っていた。
「――耳が痛いな。私はかつて力だけを絶対と信じた女だ。力が強い者は正しく、力弱い者は努力しなかった者。力弱い者の言葉など聞く必要はないと、な。貴様の言う通り、私はそんな勇者にはなれない」
それはカリアが剣技を身に着けるまでの過程に依拠した思想なのだろう。
父親から見放され、周囲からは侮蔑の視線を与えられ、その中で血を噛みしめながら手に入れた剣技と力。弱者に過ぎなかった彼女が、命すらすり減らして掴み取ったもの。
だからこそ弱いまま妥協する存在をカリアは受け入れられなかった。己が数多の屈辱と痛みとを乗り越え手にした力を、才能の一言で切り捨てられる事が我慢ならなかった。
それが例え傲慢に近しいものだったとしても。
カリアはグラスにワインを注いでから言った。
「私では彼の代わりになる事は出来ない。――だが私も、もう貴様を見捨てない。それだけは言える。それでは駄目か」
「……お前が、それを言うのかよカリア」
カリアは銀眼を真っすぐに向けて言った。ルーギスは自嘲する様子でそれを受ける。何時もよりも酒が回っているのが見て取れた。絶え間ない苛立ちが彼の眦をつりあげている。いいやふとすると憤激であったのかもしれない。
「俺は今でこそこうしているが、本当は下らない冒険者でペテン師さ。溝掃除がお似合いのな。英雄を目指して、そう在らなくちゃならないと考えたって逃げ出したくなる事が何度もある。諦めたくなる事だってな」
「ああ、それで?」
カリアがすぐに言葉を返し、ルーギスは躊躇しながらも噛むように言った。
「……もし俺がそうなったら、お前は間違いなく俺を見捨てるよ。弱者はお嫌いだろう、カリア=バードニック。お前は俺なんかより、ずっと立派な英雄だ」
吐き出して、ルーギスは言った。だが銀髪の剣士は、それを受けて尚怯む事も悲しむ事もなかった。
いいや、むしろ歓喜すらした。
此処に呼ばれた要件は、恐らくは感情に整理を付ける為だろう。その相手は最も古くからルーギスと共にいた、敢えて言うならばルーギスの冒険者時代をよく知る人間でないといけなかった。彼を英雄であると信じる者に、情けない所は見せられない。
だからこれは――己だけが知る彼の弱味なのだとカリアは内心を蕩けさせる。彼の深層を知るものは、己だけで良い。己が知らない彼の一面がある事は耐えられない。
「いいや、見捨てない」
「ハッ。俺が何の力も無くしてもか。お前と出会った頃――いいやもっと前の、何も出来ない孤児の時代に戻ってもか?」
「そうだ」
カリアはぐいと、顔を近づけた。互いの吐息が溶け合い、ワインの匂いが溶け落ちてしまいそうな距離だった。一瞬ルーギスは眼を開いたが、怯むこともなく銀眼を睨み返す。
ルーギスの瞳の中に、己以外の誰かが映っている事にカリアは気づいていた。他の女ではない。だが己ではない誰かを彼は見ている。
「――貴様は、私と出会う前に私を見たのか」
目の前の瞳が見開いたのを、カリアは知った。がちりと歯を鳴らす。ああなるほど、と奇妙なほど簡単に腑に落ちた。全ての疑問が氷解したわけではなかったが、それでもある種の納得はいく。
彼は私が彼を認識する前に、私に出会っていた。それがどういう形でかは分からないが。
「私は貴様が何を見たのかは分からん。だが想像はつく。なら、そうだな」
一拍を置いてからカリアは言う。
「――今度こそ、私を殺してみるか?」
ルーギスの表情が強固なものになる。血の気が引いていくのが分かった。何時もの飄々とした様子も、今ばかりは消え失せ余裕も彼方へ飛び去った。
時間は与えぬとばかりにカリアはしなだれかかってルーギスの指を取る。
「私は貴様を愛している。間違いなく。例え貴様が四肢を失おうと、意志すら砕けようと。私は共にいるだろう。仕方がないではないか。人間は自分にすらも嘘をついてしまう生き物だ」
かつて力こそが全てであった少女の信仰は、脆くも愛の前に崩れ去った。正しいものを定める理など、正しさに依らない愛には一切の意味を為さない。
だがそれを信じられないというのであれば仕方がない。カリアは己がそういった人間であった事を否定しないし、出来るものでもない。
だから言うのだ。
「なら私を殺してみれば良い。この身は巨人であろうと、貴様ならば殺せるだろう? 私が何かをしでかして、それで貴様が決して許せないというのであれば、全て好きにすれば良い。私は構わない」
「……違う、カリア。俺が悪かった。俺はそういう意味で――っ」
「何が違う?」
ルーギスの両手を取って、カリアは自らの首に添える。細い首筋は少し力を籠めるだけでも折れてしまいそうだった。これで戦場を駆けまわっているというのが、信じられないほどだ。
「私にとってもな、同じだ。没落貴族の小娘の手を取って、外に連れ出してくれる人間がどれほどいる。小娘の我儘に付き合って、共にあってくれる人間がどれほどいるというのだ。私は貴様しか知らん。私はきっとあのままなら全てを失っていた。意志も、尊厳も」
だから、とカリアは続ける。
「貴様の手で終わるのなら、悪くはない。此れは私の意志で選んだ事だ」
ベッドに倒れ込み、ルーギスを引き込みながらカリアは銀髪をシーツの上に散らす。もはやそれ以上、言葉はいらないとでもいうかのようだった。
◇◆◇◆
「そう、か。そういう事か」
聖女アリュエノ――神霊アルティアは、大聖堂の一角で呟いた。静謐と清廉さが支配する聖殿の中、ゼブレリリスが朽ちたのを察し取る。
此れで、本来大聖教の手の者によってゼブレリリスを殺すはずであった脚本は崩れた。
いいや、ヴリリガントが彼の手によって死した時からそれは既定だったのだろう。だからこそ、アルティアは別の線を引きなおした。ある意味ここまでは既知の範囲内。
しかしアルティアにおいても、一点奇妙な疑問だけは残っていた。
――何故ルーギスは、大魔を殺しうるほどの原典を持ちえたのか?
ありとあらゆる偏見を除いてみたとしても、ルーギスは凡庸だ。武の才覚はなく、意志と自我のみがある。特筆すべき事といえば、その意志によって悪辣な才を花開かせる可能性がある点だけだろう。
だがそれは大魔を殺しうる程のものではない。そも原典を保有する大魔、魔人らを本質的に殺害すると言う事は本来不可能だ。
ルーギスが悪性に寄っているとはいえ、原初の殺害記録を持ちだしてこれるほどの力はない。
――だが。精霊神ゼブレリリスは最期に其れを視た。全景を見渡す彼女の瞳は、その理由までもを見通した。
アルティアは納得して、感情を失った黄金の瞳を瞬かせる。
「君も此処まで彼を信じていたわけではないのだろうけれど。君の愛は、やはり特筆すべきものがあるね。私の眷属である事は確かだ」
簡単な事だった。運命とはこの事を呼ぶのだろう。
――アルティア。いいやアリュエノこそが、彼の原典の原因であったわけだ。
ルーギスはその身に、たった一人だけ神の寵愛を与えられなかった。そのために彼は全てを奪われ、ありとあらゆる生涯で報われる事はない。それこそが、アルティアが眷属の望むこと。
だが、そうなれば世界は考えてしまうわけだ。
何故、彼は神の寵愛を受けられなかったのか?
眷属が願ったからなどというのは勘定に入らない。より強い必然性を見出してしまうのが世界全体の理で、必要なものを与えてしまうのがこの世界を作り出した者達の習性だ。
世界はこう考えた。
――彼は神の寵愛を受けないだけの、罪を犯したのだ。
神は数多の罪人をも愛している。では神の寵愛を逃れるほどの大罪とは何か。
――それは神殺しに違いない。
そこに至るまでに、彼自身の性質や意志も混じっているのは間違いがない。ただ一つの理だけで辿り着けるほど、世界の運命は優しくない。
だが彼は、あろうことかその運命に手を掛けてしまった。
アルティアは確信する。
この世界には数多の運命が存在し、時に複数の分岐を経る。結果、枝葉と言えるような細い運命もあれば、太い枝となった運命も存在するだろう。
今、紛れもなくアルティアとルーギスの間に運命が生まれてしまった。歴史の根幹、巨木そのものと言える機械仕掛けの運命が此処に横たわっている。
「――出征しよう。運命を叩き潰す為に。私はその為に生まれたのだからね」
運命の声が、聞こえるようだった。
――神を殺せる者は、唯一神に愛されなかった者でなくてはならない。
この日、聖女と神霊とが運命と対峙する親征を開始した。