第五百六十九話『汝は何者か』
ゼブレリリスの悍ましい言葉を聞きながら、あどけない少女らしさすら覚える瞳を見つめる。同時、魔剣に指を絡めた。
液体を肉とし、内臓とし、脳とする者。それを剣撃で殺す事は困難だ。数多の英雄勇者の逸話にも、水を本質的に斬り殺したなどと言うのは聞いたことがない。
それでも尚。
「――お前が俺の敵で本当に良かった。此処で何も残さずに死んでくれ」
魔剣を肩の上に構えた。両脚を広げながらも、嫌な想像ばかりが頭の中を駆け巡っていく。口の中がいやに乾いていた。
ゼブレリリスは、常にモノを食らい魔を生み続けている魔の聖母だ。零落したとはいえかつて魔性たちの神であったのは間違いがない。今も尚魔を孕み生み続けている。
ゆえに、こいつの言う事が真であるならば。もし本当に人間が魔性へと変貌させられているのならば。
俺や兵士が殺し続けてきた魔性共の中に――どれほどこいつが作り出した子供は含まれている?
俺は何人、こいつに立ち向かった人間を殺した。
「あら。神を冒涜するつもり? 案外と良い結果にはつながらないし、それに不可能よ。神は絶対だもの。それよりもお友達になった方がとても良いと思うし、楽しいと思うのだけれど」
「神様がそんなに絶対的なものなら、冒涜なんて言葉自体が生まれないんじゃないかね。出来るから言葉があるのさ」
「言葉なんてものは常に願望を表すものよ。生物は願望を持つからこそ生きている。有り得ない願望でも、それは生物の糧。それを言葉にするものがいたって何らおかしい事はないわ。私はそんな生物のあり方を評価しているの」
彼女は人間に近しい姿をしておきながら、言葉は超越的だ。生物を俯瞰する言葉の選び方は、自分がその枠外にあると主張している。
傍らのエルディスと視線を交わす。柄をより強く握り込むと、魔剣は俺の身体から魔力を搾り取り紫電の輝きを強くした。
剣で線を描く。再びゼブレリリスの頭蓋を目掛け振り抜いた。魔力を迸らせた剣は彼女の顔の上半分を千切り飛ばす。生物であれば致命傷の此れも、液体である神には意味が無い。けれどエルディスの準備が整うまでの時間稼ぎとしては十分だ。
だが少女はそんな有様のまま、微笑ましそうに笑った。喉が鳴る。足の指先から冷たいものが這い上がって来た。
「貴方の言う事も分からないでもないわ。私達だって機械仕掛けの創造主に嫌気はさしていたもの。彼らの専横も、傲慢も、不敬さも鼻持ちならなかった」
機械仕掛け。聞き覚えのある単語だ。全ての記憶が明瞭なわけではないが、歯車ラブールが似たような事を言っていた記憶がある。その時は機械仕掛けの神々であっただろうか。一番最初の神とは彼らであったと、ラブールは言った。
だが今そんな単語に気を留めてはいられなかった。ゼブレリリスが言葉を発する度に、悪寒が強くなっていく。心臓が警鐘のように鳴り響き、眩暈すら覚え始めていた。
――直感がある。こいつの口を塞がなくてはならない。それこそが焦眉の急に他ならない。
咄嗟に、エルディスが有り余る呪術をこの場に堕とす。人間であれば視界に入れるだけで命を逸する事を覚悟する濃密な呪。起源呪術とすら呼ばれるそれ。黒水の一部が、呪いに反応して蒸発していった。
「――だからこそ、彼らを滅ぼしたのだけれど。でも私は彼らとは違うわ。私が神であればこの世全てが魔性に浸り、この世全てが魔性の連帯の中に繋がれる」
けれどゼブレリリスはそれすら意に介さずに言葉を続ける。羽虫に皮の一部を噛まれて脅威を覚える人間がいないように、彼女は何一つの危機すら感じていない。
「――だからお友達になりましょう?」
心臓を鷲掴みにされた感触。全身が鎖で繋がれたかのように硬直する。
そこでようやく気付いた。
――こいつに近づくべきではなかったのだ。
神話の時代、今より尚魔が濃密であった時代。言葉はより強い魔力を持っていた。時に人を惑わし、人を狂わせ、人を屈服させる。今の時代の呪文などは比べ物にならないほどの鮮烈な魔。
そうして此処は――数多の魔性の祖、ゼブレリリスの腹の中だ。言葉の節々に、所作の一つ一つに魔が孕む。
いつの間にか、ゼブレリリスの貌が見えなくなっていた。あどけない表情も、怒りも悲しみも見えない。いいや神とは、そも貌を持たないものなのかもしれない。
ただ声だけが魔となって響いた。
「さぁ、私の名を呼びなさい名も知れぬ魔人。私の名を呼ぶことは、私が世界に君臨する神であった時代への礼賛。全ては回顧ではなく復古。神話において、時間は幾らでも遡及する。私の神話の一部となりなさい」
此処に至って、ゼブレリリスの本質を見誤っていた事に気づいた。
過去の軌跡やシャドラプトの言葉。それらから彼女の本質は魔を産み落とす事なのだと捉えてしまっていたのだ。
だが違う。巨人王フリムスラトの本質が際限なき破壊であり、天城竜ヴリリガントの本質が冒涜的な簒奪であったのとはまた異なったそれ。
――例外無き同化こそが、精霊神ゼブレリリスの本質だ。
彼女は恐らくは過去もこうして、異種族らを呑み込んできた。彼女の指す『お友達』とは、自らが新たな生を与える事で同化させる事か。
肺の中を重い空気が漂った。魔の感触は時に物理的な実感を凌駕する。皮膚から感じられるものは曖昧になり、神経を司る器官が暴走して跳ねまわる。
エルディスの膝が崩れたのが見えた。彼女は俺よりも深刻だろう。彼女はドリグマンの権能を色濃く継承し、ドリグマンはかつてこの神に仕えていた。神に対抗するには、一個体の精神はどれほど貧弱なものだろうか。
――認めなくてはならなかった。ゼブレリリスは零落したといえど、誤りなく神だ。
神は万物を睥睨し平伏させる。合理を崩壊させ世界の関節を切り裂く力を持っている。万全の此れに勝利した者がいるという事が余りに信じがたい。この世の不条理すら感じてしまう。
指の一本すら動かない。久しぶりに大いに打ちのめされた気分すらあった。随分と遠くに来たと思っていたのに、未だ俺の眼前には大きすぎる壁がある。アルティアは愚か――ゼブレリリスにすら届かない。
そもそも世界に君臨し、今や世界を食い尽くさんとする魔性にたったの二人で立ち向かうなどという事が無謀だったのかもしれない。それが許されるのは英雄譚の中だけだろう。考えていた方策は役にも立つ所か発揮させる事すら出来ない。
シャドラプトとレウに頼んだ事も、どれほどの意味があるものか。
「は、ぁ……」
呼気を漏らした。膝が崩れ落ちる。
ああ、久しぶりだ。地べたに這いつくばるのも、歯を食いしばってやるのも、絶望してやるのも。
正直な所を言えば、分かっていた。分かっていたんだ。凡人たる人間が英雄へと追いすがる。こんな事いずれ何処かで必ず限界が来る。ヴリリガントに始まりがあれば終わりがあるものだと語った様に。俺にだって終わりが訪れるものだ。
それが此処だったというだけの話。結局を言えばかつての頃と変わらない。諦めと共に俺は俺に決別を告げなくてはならなかった。
「……ルーギスッ! 僕は、大丈夫だ、下手な心配をしてくれるなよ!」
声をあげるエルディスの方を見た。膝を付きながらも、尚心折れた様子は見えない。流石一角の英雄だ。
「そう、貴方ルーギスという名前なのね。私の名前を呼びなさい。貴方と私。とぉっても良いお友達になれるわ」
零落した神は言う。害意も悪意もなく、一片の誤りなき善意をもって。声はどうしようもなく甘美に感じられた。今此処で耳を突き破ってしまいたい衝動にすら駆られる。今聞いた言葉を、生涯で聞く最後の声にしてしまいたいとすら思った。
神の誘惑とは、それほどに美しく耐えがたい。
「……彼は僕の騎士だ。手を出すのは止めてもらおう。これ以上余計なものはいらないんだ。お前に統制などされてたまるか」
エルディスがふらつく脚で立ち上がるのが見えた。ゼブレリリスの視線一つで跳ね飛ばされてしまいそうな弱弱しさで、それでも彼女は立っている。
出会ったころは精神的に弱さが残ると思っていたエルディスは、もはや女王として、英雄としての資質を有り余るほどに有していた。
かつての頃に壊れてしまっていた少女は、今英雄となって立っている。あろうことか、俺を庇うようにしてだ。
思わず自嘲した。今まで幾度も助けられてきた間柄だろうに、俺は彼女が俺を見捨てて逃げてくれる事を望んでしまっていたのに気づいたのだ。
お前なぞもう知ったことではないと、そう言って逃げ去ってくれた方がずっと楽だった。彼女が決してそのような事をするエルフではないと分かっていて尚望んだ自分の浅ましさに吐き気がする。
そうとも。俺は逃げるわけにも絶望してやるわけにもいかない。俺は彼女にとっての騎士であり英雄だ。ならば今取り得る手段は一つしかない。
簡単な事だった。必死に縋りついて主張をし続けてきたそれを、放り捨てるだけで良い。
魔剣を強く握り込む。魔剣から送られてくる魔力と、こちらの反応を伺うような様子に頷いて答えた。
――そうして黒が混じった紫電の閃光が、再びゼブレリリスの首を刎ねる。黒水が、弾け飛んで蒸発した。
「……あら。なるほど」
ゼブレリリスは合点が言ったというように、再び身体を構築しなおす。その身体をも両断して斬り殺す。彼女自身をどう殺せば良いかはもう視えている。後はそれが出来るかどうかだけだった。
「そう。あの子、ヴリリガントを殺したのは貴方ね――魔人ルーギス。そういう事。人間じゃあ私達には届かないものね」
「――さぁどうかね。神様や竜だって、いずれは死ぬんだ。お前はもう十分殺しただろう。ここで一度くらい死んでおけ。大魔性」
原典を――解錠する。俺自身の身体がもはや人間の身ではなくなっただろう事を魔剣が明確に告げていた。
歯車が、力強く俺の身体の中で回っている音が聞こえた。