第五百六十四話『獣の如く』
砂漠の産み主。理性ある魔獣。
南方魔眼ドーハスーラ。
かつて新緑地を砂漠へと変貌させた彼も、今や魂を指輪に縛り付けられ魔眼すらも失った。魔獣の頂点であった頃の姿は遥か遠い。いいや人間に飼いならされた姿は、もはや魔獣と呼べるかも怪しいだろう。
だがドーハスーラはそれで構わなかった。己が魔獣であるという自負はあれど、彼は本質的に魔獣が嫌いだ。
魔獣には力がある。逆を言えば力しかない。意志無き力だ。魔獣は貪り、食い、より肥大化する事にしか本能を向けられない。
そうして、いずれ大いなる『意志』の下に敗北する。ドーハスーラの前に現れた意志は、アルティアだった。
だから彼は、アルティアの傍にいると決めた。人間の真似事をする事に決めたのだ。彼女は気高く、人間の中でも強固な意志を持つ英雄だった。
彼女の真似事をしていれば、いずれ彼女のような意志を手に入れられると、ドーハスーラは信じていたのだ――。
雪原の中、一体の魔獣が魔女バロヌィスに食らいついている。
――魔獣の姿は強大な砂の塊。それが時に獣の姿を取り、時に鯨の姿を取って大地を這う。
きっとこの獣に本当の姿などない。いいやあるとするならば砂から突き出た蒼い双角と、底を見せない双眸のみ。
其れは勢いよく雪の下から飛び出て、魔女の首へ深々と牙を突き立てる。魔女が大地を隆起させるのとほぼ同時。その瞬間を狙い打ったようだった。
「ッ、ぁ……そう、か。あの魔眼は、ドゥーか! どうやら、私の躾けを忘れてしまったようだね!」
砂の魔獣を見て、喉に食いつかれながら魔女バロヌィスが叫んだ。魔眼が焼き切れていた所為だろう。彼女が知る魔力が失われていた分、奇襲は有効に働いた。
「お久しぶりですね同族殺し。貴様を想わない日は無かった。貴様を殺すのは俺の意志だ」
不定形となった砂の魔獣にとって、口は一つではなかった。穴を開け風を通して喋りながら、魔女の全身へと砂を纏わせ食らいつく。第一に瞳を、次に指を、そうして全身を。
砂とて凝固すれば容易く皮膚を貫き、骨を折る。体内に入り込めば簡単に生物を虐殺出来る武具だ。一つ魔女の身体を噛みちぎる度に、ドーハスーラはかつての頃を思い出す。体内で、幾度も白い牙が突き出ていった。
魔女が口から血を吐き出して言う。
「は、は。……私のようになりたいと、そうねだった君はいなくなってしまったようだな。ド残念だ」
「心にもない事を」
ドーハスーラは吐き捨てながらも、攻勢を緩めなかった。魔女の指全てをへし折り、全身を圧殺せんと締め上げる。生物であるならば、間違いなくこれで絶命する。ドーハスーラがより偉大であった頃、彼が寝床を変えるだけで多くの生物が同じように死んだ。
この姿がドーハスーラは好きではなかった。どんどんと、アルティアに出会う前に戻ってしまうのが分かった。理性が本能に溶けていきそうになる。
「本当だよドゥー。君が……私の下を離れてしまった時、私は本当に……悲しかった」
砂に全身を覆われ、全身を白牙に貫かれながら尚魔女は言った。まるでそれこそ、死の間際に本心を吐露するかのように。
ドーハスーラは、心に奇妙なざわめきが起こるのを感じる。情が湧いたというのではない。だが、彼女の言葉は懐かしい過去を思い出させるのには十分だった。
――魔眼族という種族は、魔女バロヌィスの手によって生まれたと言って良い。
彼女は、魔獣の眼を特殊に錬成する方法を知っていた。いいや、生み出したというべきだろう。錬金術師が鉄くずを金に変貌させるように。魔女はただの魔獣を魔眼獣へと変えた。
魔眼獣は当初こそただの魔獣が魔眼を持ったに過ぎなかったが、代を重ねるごとに魔眼獣と呼ばれるに相応しい体質を兼ねそろえるに至った。
体躯がより魔眼の性質に形が引っ張られるようになったのだ。それこそまるで、魔眼自らが本体だと主張でもするように。
魔獣の身体は眼の権能に近しくなる。ドーハスーラの本体が砂の集合体であるのも、魔眼ゆえと言えるだろう。
だがそんな体躯の変貌を気に掛けるものはごく僅かだった。偉大なる王が在り、偉大なる『魔眼』がある。力の信奉者たる魔獣にはそれが全てだ。それに姿形を整え擬態する事は幾らでもできた。
だからこそ。魔女が全ての魔眼族を取り込んでしまうその日まで、彼らはバロヌィスへの敬意を惜しまなかった。
「……ならば、どうして俺達を滅ぼすような真似をしやがった! 誰でもない、貴様が俺達を滅ぼしたんだろうが!」
積年の疑念を吐き出してドーハスーラは言った。その間にも砂の動きに一切の容赦はない。魔女の全身を締め付け骨を砕く。これで尚魔女は滅びない。魔女の本体が滅びきるまで殺し続けるしかない。
魔力を通じ声が響く。
「ド意外、だな。君は同族なんて、嫌っているくらいだったのに。嫌われていただろうに」
「それとこれとは話が違いやがるんですよ」
彼らが嫌いだった事と、彼らが失われて喜ぶ事は同一ではない。人間嫌いを自称する輩も、真に全ての人間に滅んでほしいと思っている存在は稀だろう。
そうか。と魔女は頷いた。それから諭す口ぶりで付け足す。
「簡単な事だよ」
瞬間、ドーハスーラは魔女の華奢な首をへし折った。不気味さと溢れ出す狂気を直感する。先ほどまで確かであった世界が、全ての関節を失って倒れ伏してしまった気がした。
魔女が、笑った。
「――家畜が太れば食べるだろう?」
不道徳を噛みしめ、倫理を殺し、退廃を好む魔女は全身の骨を砕かれながら影を這い出させる。
ドーハスーラが白の牙を突き立てようと、もう魔女に届かない。むしろその様子すら楽しむように魔女は影に覆われていった。
古来から、影は死を象徴するものの一つだ。
生まれ落ちたその日から影は人と共にあり、人から離れず、最後は人を連れ去って消え失せる。生ける肉体の写し絵であり、最後は共に終わるもの。
「貴様を、いや、貴様は死ぬべきだった! 死ねないのなら此処で終われ!」
「おやドゥー。君ら魔獣だって人間を家畜にするじゃないか。私も同じことをしてみようと思っただけさ。どうしていけない? 私は魔性と化しても精神は人間だ。精神が人間である以上、私は何時までも人間さ。――万物の長たる人間様が、魔獣如きを家畜にして何が悪いんだい?」
本当におかしそうに笑みを浮かべて魔女は言う。抑えようとして尚、笑い声が止まらないという風だ。未だ周囲は砂に包み込まれているが、影が彼女を守り通す。
「いやでも、安心すると良いドゥー。君は別だ。君は家畜じゃない」
己を圧殺しようとする砂を抱擁するようにして、魔女は両手を伸ばした。華奢な身体一つに、魔獣を容易に殺しきる熱量が込められている。返事すらしないドーハスーラに、微笑んだ。
「君は私の飼い犬だ。いずれ私の所に戻ってくると分かっていたよ。飼い犬に意志なんてないからね。おかえりドゥー。――面倒事が一つ片付いて、とても良い気分だよ。何か忘れている気がしていたんだ」
言外に、今の今までお前の事など忘れていたと、魔女は言った。
影が砂を呑み込んでいく。それは水が上流から下流へと流れるような、当然の帰結だ。力関係は正常に戻った。
ドーハスーラはその光景を――食われていく自分の身体を見て、二つの感情を抱いていた。
一つは吹き溢れそうな程の憤激。同族を家畜と、己を飼い犬と言い放ったかつての王に、一矢すら報いれぬ不甲斐なさに吐き気がする。本能に訴えかけるおぞましさがあった。
もう一つは、諦念。
どれほど渾身を尽くそうと、この魔女は歯牙にもかけない。魔人だから、魔眼を失っていたから敵わないという事ではないのだ。
きっと、万全の状態であったとしても己は敗北をしたとドーハスーラは思う。事此処に至っても、彼は自分が意志を持って動いている確信が持てなかった。魔女の前に立った事も、彼女の手の平で踊らされたのではないかとすら思う。
魔獣が魔女に勝ちうる物語は存在しない。魔獣はいつでも、魔女の使い魔だ。
己では勝てない。しかし殺さねばならない。
だから、ドーハスーラは。
「――天蓋を貫け。貴様は産まれたその日から天を覆った」
最初から、意志持つ竜に勝敗を預けた。十分魔女の視界と時間は奪った。
彼の最期の一言は、呪詛だった。
「貴様は獣のように死ね」
言葉と共に、砂は影に消えていった。