第五百六十三話『無知を知るが良い』
偉大なる魔女と魔力の応酬を重ね、フィアラートは文字通り瀕死の有様だった。半分死んで、半分だけ生きている。
魔法とは、魔術とは、年月と共に己の世界を積み上げる秘儀だ。
地層が気の遠くなるほどの年月を重ねて厚みを増していくように。魔を扱う者は一つ、また一つと時と共に自ら高みへと昇っていくもの。
魔女バロヌィスと魔術師フィアラートの積み重ねた年月には、余りに隔絶したものがあった。
片や千年を超える化物。片や百年も生きていない小娘。
「――面白い。けれど底が浅い。やはり期待通りとはいかない。ド雑魚に変わりはなかった。けれど、そうか私に傷をつけられるのだね」
嘲るように罵るように言いながら、しかしバロヌィスは一つの確信をした。
この娘は、私に無知を突きつけてくれる。その証拠が肩口の傷だ。彼女はまるで世界の理を捻じ曲げるかのような事をしでかしてみせる。
それはバロヌィスの知らぬ世界だ。自然と頬が緩んでいく。
無知を知るとは、魔を扱う者にとって最も重要な事。自分が知らぬ事を塗りつぶし、理解していく事こそが魔の真骨頂だ。
理解をするとは、その存在を掌握するという事。
それこそ世界全ての物理法則と情報を知る事が出来れば、未来すらも予測出来る。
――世界を人間のものにしたいと願うのなら、面倒であって尚世界を理解する事に努めろ。
かつてそう語った彼女は、言うなれば知の捕食者だ。
だからあっさりと冒涜を犯す、背信を成す、道徳に泥を塗る。いいや、魔女にとって元々そんなものは存在しないのだろう。
バロヌィスは両手の中指を噛んだ。
「魔眼を作ったのも実に良い。『収奪』も面白い。周囲から奪い取るのは人間の本質の一つだ。原始的な理ほど、魔は呼応する。私の心が動かされたのはどれ程ぶりだろう。
――でも残念だ。若すぎる。過去と既知の集大成たるこの魔女に指をかけるには千年早かった」
両中指の皮膚を齧り取る。ぽたりと零れ落ちる魔女の血液は、魔力の結晶だ。古来から魔を持つ者の体液は、その性質を引き継ぐもの。
「けれど」
バロヌィスは死の魔眼を細めた。もはやフィアラートの抗いは余りにか細い。所詮、憤激と情動の濁流は一瞬のもの。勢いづいた所で、それで崩れてくれる相手でなくては意味がない。バロヌィスにそれを期待しているのであれば見込みが甘すぎる。
魔女はかつて人間王と共に人間国家の礎を築いた偉人だ。窮地に陥って牙を見せる子鼠など幾らでも相手をしてきた。
「けれどけれどけれど――フィアラート。君は良い」
歯をがちりと噛んで、魔力から情報を盗み取る。刻み込まれた名前程度はすぐに奪えた。
未だ距離は遠い。互いを視界に何とか収める距離は魔法使いと魔術師にとっては間合いだが、本来言葉が届く距離ではなかった。
けれど彼女らは魔力を通して確実に互いの言葉を認知していたし、そうでなければ早々に死んでいる。
「気軽に、名前を呼んでるんじゃないわよ」
「いいや呼ぶとも、フィアラート。フィアラート。フィアラート」
フィアラートが吠えた。しかしそんな反応は置き去りに、バロヌィスは高らかに言った。
「――君を私のものにしたい。恐るべき事に君には才能がある。私が才能が好きだ。命は平等ではなく、才能ある者こそが尊ばれるべきだ。いっそ才能無き者を殺して才能ある者だけが生きるべきだそうだろう」
返事は聞いていなかった。
バロヌィスは褐色の肌を輝かせ、美しい双角と蒼髪を上向かせる。
もはや拘束など無きもののように振舞うバロヌィスの存在に怯えを見せるのは、何もフィアラートばかりではなかった。バロヌィスの後方で怯えた瞳をした魔獣群とて同じことだ。
「バロヌィス、てめぇ何を――ッ!」
「黙れド雑魚。死にたくないんだろう。勇ましく足踏みしていたまえよ」
バロヌィスが首を軽く動かすだけで、魔獣は言葉を失った。
今でこそ一瞬の停滞に追い込まれているが、この魔人の本質は死の振りまきだ。人であろうと、魔獣であろうと、視られれば死ぬ。
「……あんまり無茶苦茶するようなら、大魔様はお前を許さねぇぞ」
「私を許すのは何時だって私だけだ。君でもアルティウスでも、まして意志を失ったゼブレリリスであるはずがない」
魔獣がそう言ったのは。今からバロヌィスが何をするのか、知っていたからだ。
魔眼ではない。魔女バロヌィスとしての本質。彼女の血が死雪の上にまき散らされる。
「素晴らしいものを見たとき、私は子供の頃にかえってしまう。つまり、全部全部欲しいんだ」
本来は此れを使う気などなかった。健気にも魔眼を自ら造り上げてきた迸る情熱と才気に、こちらも魔眼だけで対抗しようと思っていたのだ。
けれど、フィアラートは魔眼だけで終わる人間ではないだろう。そして何より、フィアラートという娘がバロヌィスには愛おしかった。既知から未知へとあふれ出ようとする強い欲望。這いずって尚前へ進もうとする恥知らずさ。それでいて更には才がある。
ただ才能があるからと言って、こうはいかない。
才を持つだけの存在は、多くの場合順当に苦労をして、順当に努力をして、順当に壁を知りながら生きていく。
バロヌィスは思う。彼らの多くに共通する『悪癖』は、自分が出来る事を知っている事だ。
自分が出来ると知っているからこそ、壁にぶつかった時に彼らは思うのだ。自分が出来ないのだから、これは出来ない事なのだと。
それで尚壁に齧りつき、摩耗して爪を血だらけにしてでも縋りつく人間がどれほどいるだろうか。血反吐を吐いてでも打破せんとする才人が、どれ程いるだろうか。
それでいて、その壁を打ち砕く者を人は天才と呼ぶのだ。
「フィアラート、君はきっと魔に魅入られる素質がある。過去であり既知である私にとって、君は本当に魅力的だ。髪の毛の先から足爪の先まで。皮膚の一片から眼球に至るまで。君を理解させてくれ。君を私のものにしよう」
バロヌィスの血が死雪に混じり、魔力が大地が呑み込んでいく。彼女が持つ契約の一つ。
――影が彼女から盛大に伸びていく。大地が隆起した。
魔女の力の奔流が周囲を湧き立てる。バロヌィスは恐ろしいほどに、フィアラートただ一人しか見ていなかった。他の事に興味などもはや一切なかった。目の前の未知をどうやって貪り食うかしか考えていなかった。
だから、それは完全に死角だった。
一体の魔獣が、魔女の首筋へと食らいついていた。
◇◆◇◆
フィアラートがバロヌィスと対面した頃合いだった。
魔眼獣ドーハスーラは、視力を失った両眼でそれを視ていた。正確には魔力を辿っていたというべきか。
魔人と同じ双角と蒼髪。未だ体躯は万全でなく馬に乗らねばならなかったが、それでも戦場にいた。
――かつての王の姿を感じるために。忌まわしい女を知るために。
あの女が本当に討ち滅ぼされる事があるのだろうか。最低で、下劣で、愚かしい魔性だった。ドーハスーラはそう思う。
元は人間だったらしいが、ドーハスーラが彼女を知った時には、彼女はもう魔眼王として君臨していた。人間だった頃の彼女など、ドーハスーラは知らない。それを知る者らは、もうきっと滅んでしまった事だろう。
何せ最も長く彼女に付き従ったであろう魔眼族を、彼女は自ら呑み込んで滅ぼしてしまったのだから。
ドーハスーラのように僅かな生き残りはいるかもしれないが、種族としてはもう存続は不可能だろう。どちらにせよ緩やかに消滅する定めにある。
憎悪がないはずがない。アレはドーハスーラにおける生涯の敵だった。全てはあの女が台無しにした所から、彼は始まったのだ。
だがドーハスーラの胸中は複雑だ。恨むべき相手であるにも関わらず、あれはアルティアの配下としてそこにいる。
――ならば敵対するのは、誤りであるかもしれない。
思えば、変な道を辿り続けるものだとドーハスーラは表情を歪めた。魔眼族として生まれバロヌィスの下にあったかと思えば、彼女に種族を崩壊させられた。生き延びた先でアルティアに打ちのめされ、今度は彼女と共にあった。
そうして今は、アルティアの命令に沿っているとはいえ人間とエルフに従いながらかつての王と主に敵対している形だ。
「馬鹿らしいにもほどがありやがりますね」
そう嘆息したのは自分自身の生き方の事だ。どうやら己は、誰かに振り回される生き方しか出来ぬらしい。それで右に左にと投げ飛ばされるのだから堪らなかった。
「……アルティア。貴方は何時だってなんだってお見通しでした。だから俺が、ここにいれば何をするかなんてわかってるんでしょうねぇ」
両目を潰され魔眼を失ったただの魔獣。もはや利用価値も無いだろう。アルティアが、再び偉大になれる日を待とうと思っていたのだが。
冷たい空気を吸い込んだ。美麗な少年の姿をした魔獣は、角を振るった。馬を走らせる。身体を少しずつ、かつて南方魔眼と呼ばれた頃に造り変えていった。
「例え貴方が仕組んだことでも、俺は貴方に感謝しますよアルティア。復讐は甘美です。俺の立場も、想いも、何もかもがぐちゃぐちゃでも。確かな事ってのはあるもんですね。
そしてもし貴方の思惑の外だったら許してください。――今回ばかりは、俺は完全にこっちの味方ですぜアルティア」