第五百六十二話『余りに弱く余りに強い』
守護者ヴァレリィ=ブライトネスは、火が灯りそうな瞳を見開いて軍勢を眼下に置く。
魔術鎧を振るい部下に指揮を飛ばす度、全身が千切れ飛びそうな感覚に襲われる。指先に上手く力が籠らない。
肉体に問題があるわけではなかった。歪なのは精神だ。精神と肉体が別物となったように噛み合わない。
だがそれでいて尚、彼女の指揮は一切の乱れを起こさなかった。精神が幾ら乱れ落ちようと、彼女の肉体が戦役をどう生きれば良いのか理解している。
戦役とは暴力を持って奇跡を成す魔術である。平時は抑圧される暴威が、最大限に肯定される人間の営みに他ならない。
言うなればヴァレリィは暴力の天才だった。暴威の極致と言っても良い。この時代における戦場の寵児は間違いなく彼女だ。
「マイマスター。もしかして思い悩んでいるのかい。らしくもないよ」
副官のドーレが、軽鎧を身に付けながら轡を並べる。
何時もは最前線で腕を振るうはずのヴァレリィが、今は兵を見下ろしながら馬上で指揮を取っていた。
今の姿そのものが、ヴァレリィが日々とは違う証明のようなものだ。
「迷ってはいない。後悔している」
指揮を取ったままヴァレリィは断言する。歯切れのよい、一切他の心が挟まらない本心だった。
今、心が焼ききれそうな後悔だけがヴァレリィにはある。後悔などない人生を送って来たというのに、今は全てが崩れ去ってしまった気すらした。
本来、ヴァレリィは良くも悪くも行動と心が合致するまで動かない人間だ。
だが守護者ヘルト=スタンレーが持ち運んで来た言葉が、ヴァレリィの精神を置き去りに肉体だけを突き動かした。
言ったことは二つ。増援派兵による王都侵攻命令。
――そして聖女からの伝言。
聞いて、ヴァレリィは一つの確信に至った。
もはや己にリチャードを生かす事は出来ない。
どう足掻こうと、大聖教軍はリチャードを殺すだろう。いいやそれ以前に、ジルイールの死霊魔術によって魂を奪われてしまうかもしれない。
――それならば、他の誰かに奪われてしまうくらいなら。己の手でもらい受けるのが最善だ。それ以外に許されるものか。
だからヴァレリィは全ての迷いを強引に断ち切った。幸いにも戦場の冷たさが、彼女にそれ以外の事を考えさせない。
リチャードが降伏を再び拒み、己と敵対した事に大した動揺は無かった。むしろ、彼らしさを感じて笑みを浮かべてしまった程だ。
そうやって常に己の上を取り、己の視界の先にいてくれた彼。ヴァレリィにとって師であり憧れであり、一つの到達点であった人間。
彼は今日死ぬ。間違いなく己が殺す。
兵達の大きな声が聞こえて、ヴァレリィは視界をあげた。
砦の正門が、軋みをあげながら開いたのが見える。火薬でも仕掛けていたのか複数の兵が飛び散ったが、それでも兵は雪崩となって砦の中へと入り込んでいった。
「……ドーレ、止めさせろ。見えすいた罠だ」
「罠? 砦が落ちて罠も何もあるものかい、マスター。勇者も、恐らくはもう逃げられない」
砦の陥落に安堵と、何とも言えぬ感情を吐き出していたドーレが小首を傾げヴァレリィを見る。
ドーレの言葉は順当だ。罠とは砦を落とさぬためや、己が退避するために仕掛けるもの。もはや陥落した砦を前にして、罠も何もあったものではない。
つい先ほどまで砦の外壁に将たる人間の姿も見えていた。もう彼も逃げられない。
恐らくは兵達もドーレと同様の考えなのだろう。それに開いた門を見て足を止められる兵など存在しない。彼らは我先にと砦へと入り込んでいく。
ああ、彼らにはアレが分からないのかとヴァレリィは思った。いいやむしろ、今までであればヴァレリィも気づかなかったかもしれない。精神と肉体の乖離が、奇妙な冷徹さを彼女の中に生んでいた。
あの悪党が、ただ砦の陥落を許すわけがないではないか。もはや信頼に近しい心地だ。
メドラウト砦は大聖堂と王都とを繋ぐ街道の中継地。兵と物資とをため込んでおくための要衝だ。
それが守り切れぬとなったならば、アレが何をしでかすのか。ヴァレリィには容易に想像がついた。
――刹那。耳を劈く爆発音が飛び散った。幾度も兵を拒絶した砦が、今この時には兵を呑み込みながら炎を吐き出す。
周囲が雪の反射光と炎の灯りとで奇妙な煌めきに覆われていた。
ヴァレリィは魔術鎧に魔力を回しながら、手綱を引き込み馬を走らせる。何処までも冷静な精神が、今しかないとそう言っていた。
逸る心の中で、やはりヴァレリィは後悔を味わった。
あの日、リチャードが己と道を違えたと知った時。怒るのではなく、彼を取り戻そうとするのではなく。
――彼の手を取っておけば良かった。
そうすれば、こんな惨めな戦いはしなかった。ヴァレリィは誰にも感づかれないよう涙すら浮かべながら、走る。
一つの戦場が、終わりを迎えようとしていた。
◇◆◇◆
フィアラート=ラ=ボルゴグラードは、自ら造形した『魔眼』を用いて、其れを見た。
神話の中の魔女。魔法と魔術を用いる天賦の者は、ただの少女のような姿で周囲全てを睥睨する。
――いいやそれは勘違いだ。あれは少女どころか人間でもない。
未だ随分と距離がある。だというのに死の魔眼を見開く其れは、有り余る熱量を持ってフィアラートに応じた。
『それじゃあ駄目だろうド雑魚』
声ではなく、魔力で語り掛けられた言葉がフィアラートの頭蓋を打つ。それだけで頭が割れそうだった。血が喉にこみ上がって吐き出しそうになる。端的に言って、圧倒されていた。
当初、フィアラートは相応の勝ち目を計算してこの場に臨んでいた。
相手はこちらの魔眼の事を知らない。奇襲と共に魔眼に疵を負わせれば、その分の時間は稼げる。戦場魔術を用いれば、魔獣群と共に身体を焼き焦がす事も出来るはずだった。
想定の通りであれば、勝利は出来ずともルーギスがゼブレリリスを討滅するまで引き延ばす事はできるはず。
だが駄目だ。実際に目にし、魔眼を受け気づいてしまった。
――アレは別格だ。魔眼に疵をつける事など出来ない。魔法も魔術も見たことがないほどの技量。
噛みしめた歯が、ズレた音がした。怯えが喉元を覆う。
フィアラートの精神は決して強くはない、むしろ弱く卑屈な部類の人間だ。蔑まれた過去は、彼女に弱さを与えてしまった。
ゆえにカリアのように勝ち目が見えぬ勝負に飛び込む事も、エルディスのように不利に対し余裕を見せて振舞う事も出来ない。
弱いからこそ策を練るし、汚い方法も思いつく。打ちのめされれば、余裕なんて吹き飛んで表情は歪む。
がちりがちりと、歯が噛み合わずに音を立てる。敵が一歩近づく度、死が近づいているのを知って肌が総毛立った。
フィアラートの胸中を、幾つもの思いが駆け巡っていく。
魔人に立ち向かい、克服する事で己の過去を清算出来る。それは余りに都合の良い解釈だったのではないのか。
ただ自分の弱さに真っ向から立ち向かう勇気がなかったから、別の物事で終わらせようとしただけではないのか。
だから、不利になればこんなにもすぐに心折れそうになっている。
思えば何時もそうだ。フリムスラトの大神殿でも、ヴリリガントとの戦役でも、その前もずっとそう。
フィアラートは魔眼の圧力を叩きつけられながら頬を噛んだ。
――己は何時も、彼に言われるまま魔術を行使していただけ。彼の期待に応えようとしていただけ。自らの意志で大いなる敵に立ち向かって、一人で正面から討ち果たした事なんてあっただろうか。
「は、は、ははは……」
肺から呼気全てを吐き出した、乾いた笑みが浮かぶ。こんな事に、死の間際になってようやく気付いたことが本当におかしかった。
私は弱い。今にも敵の魔力に押しつぶされそうで、心だって折れそうだ。勝ち目が吹き飛んだ瞬間脚はがくがくと震えるし、思考も冷静さも何処かに吹き飛んだ。
「うっるさい、わよ……! 何が悪いのよ、何が、駄目だっていうのよ。ふざけないでよ!」
何時もこんな時には、ルーギスがいてくれた。
彼が言葉を掛けてくれて、上を向かせてくれて、何をすれば良いか教えてくれた。
だからフィアラートは何度だって立ち上がってこれた。
けれど今日は、フィアラートの他に誰一人としていない。
――指向性を持った魔力の渦が、フィアラートの全身をしたたかに打ち付ける。魔眼の力がとうとう抑えきれなくなっていた。
口から血が噴き出た。片腕がおかしな方向にひしゃげる。指の感覚がない。『死』そのものは免れたが、満身創痍とはこの事だ。
『ハッ。終わりか。期待外れだったが、楽しくはあったよ。ド雑魚』
魔力を通じた言葉が聞こえる。楽しかったと魔女は言った。そうかきっと楽しかったのだ。弱者を甚振るのはそれはそれは楽しかった事だろう。
それが死刑宣告だと、すぐにフィアラートは理解した。
これで己は終わる。命を奪われ、彼を奪われ、人生を奪われる。
弱い者は、奪われるしかないのだから。
屈辱と恐怖と動揺に圧迫されたフィアラートの心にとって、それはとどめだった。脆い彼女の心は、一人であればあっという間に崩れ去る。
「は、ぁ……」
呼気が漏れた。身体がふらつく。硝子細工の心は砕け、身体もまたその後を追いそうだった。
血すら零れる瞳が見開く。一瞬の間。
思えば、己は誰かに寄り縋る事しか出来なかった。びくびくと怯えて、誰かに助けて貰わねば何も出来ない。見下されてばかりの人生だ。
だから。
――次にフィアラートは全てを見下した。
「ふ、ざけるなぁあ――ッ! 雑魚は! お前だァッ!」
『収奪』の魔眼が一帯を睥睨する。血を流したフィアラートの瞳が、魔力の一閃を魔女バロヌィスへ向け滑空させる。
周囲の魔力を奪い去りながら、其れはバロヌィスの肩口を食い破った。
「うるさい、うるさい! うるさい!」
フィアラートの心は弱い。カリアのように恐怖を受けとめきる事も、エルディスのように柔らかく受け流す事も出来ない。彼女は必ず恐怖を真正面から受け止め、膝をつき崩れ落ちる。
だから彼女に出来るのは――砕け落ちた後、再び精神を無茶苦茶に造り上げ、立ち上がる事だけ。
フィアラート=ラ=ボルゴグラードにとって、彼から学び得た最大のものとは即ちこれだ。
「弱い! 勝ち目がない! 怖い! 死ぬ! だからどうしたっていうのよ!」
彼女の言葉は支離滅裂の極みにあった。きっと彼女自身すら、自分が何を言っているか分かっていない。けれど、思う事はただ一つだけ。
「奪うのはお前じゃない! 私がお前から、奪ってやるのよッ!」
ただ目の前の敵を、ぶん殴り圧倒し打ちのめすことだけ。