第五百四十八話『死の化身の殺し方』
「魔人――魔眼バロヌィスか。近づいてすらいないのに、一方的に此方を殺せる。魔人らしい理不尽さだな」
その魔人の顕現によって、方面軍は一度撤退し、オリュン平野から半日の距離に陣を敷かされる事になった。
軍を立て直す時間が必要だったのだ。何せ一瞬で先遣隊が壊滅し、数千という兵が死んだ。それも、敵と相まみえる事すらなく。兵士らは混乱の極致にある。
戦うにしろ、逃げるにしろ。仕切り直さなくてはならなかった。恐怖に狂わされた状態で、兵達は動けない。
小さく空気を吸い、肺に呑み込む。被害は決して小さくない。出来る事なら、この場で俺自身の首を締めあげてやりたくなる位に最低の結果だ。
それをしないのは、爺さんの言葉があったからだった。俺が感情を顔に出してしまえば、この場の面々全員に動揺が走ってしまう。
天幕の中、俺を始めとした方面軍の将や部隊長らが顔を揃えていた。
治療用のベッドに腰かけたドーハスーラが、両目を布で覆い隠しながら言った。
「魔眼バロヌィスが理不尽なのは、魔人だからじゃありやがりませんよ。アレは元々そうなんです」
少し回りくどい言い方だった。即座に、カリアが銀髪を跳ねさせて唇を開く。尖った口先が、彼女の不機嫌さをありありと伝えていた。
「――勿体を付けるな貴様。今はそれほど悠長に出来る時間がない。私の気も長くない」
「死へ直行しようとしてた所を助けられた人間の言う事ですかねぇ」
ドーハスーラは――視力を失った魔眼を覆い隠したまま、軽い口をカリアに返す。
態度が何時も通りだから平然としているように見えるが、決してそうではない。今もドーハスーラは、ベッドから立ち上がれぬほどの重体だ。本来、軍議に参加できる身ではない。
それでも尚ここにいてもらっているのは、敵の魔人の正体を知るのが彼しかいないからだった。
「俺も意味を聞きたい、ドーハスーラ。教えてくれ。どういう事だ」
「……指輪を持つ奴に言われちゃあ仕方ありませんね。魔眼王だったバロヌィスは、魔人に成る前から『視る』だけで相手を殺せたんですよ。魔人になって得たものは、もっと他にあるんでしょう」
恐ろしい事を、ドーハスーラはさらりといった。
「詰まり、死の魔眼以外にまだ手を持ってるって言いたいのか」
「十分あり得やがりますね。忌々しい事に。俺が砂塵の壁を作っても、悠々と超えてきやがりました。お陰でこの様です。――もう、二度は出来ませんよ。残念ながら」
ドーハスーラが情報提供以外にも成してくれた事。
それは自らの視界を犠牲にしてまで砂を飛び散らせ、ヴェスタリヌを始めとした先遣隊の面々、その一部を守り通してくれた事だ。
一人逃げるだけなら、視界を失う事はなかったかもしれないのに。彼はそれをしなかった。
「……ルーギス。僕は君を焦らせたいわけじゃない。だが、移動するなら早く決断をした方が良いと言っておこう。此処は場所が悪すぎる。視界に映った者を殺してしまう権能を持つ魔人と、平野で戦おうなんて狂気の沙汰だ」
エルディスの言葉に遠慮は無かった。躊躇なく後退をと彼女は断ずる。
極めて正しい判断だった。何も視界を覆うものがない野外、それも平野部で死の魔眼持ちと戦うなんて、本当に馬鹿げている。
魔人バロヌィスを殺すのであれば、遮蔽だらけの建築物内で殺すべきだ。
「まぁ。それをさせない為の、ゼブレリリスなのだろうけどね」
そう、エルディスが吐き捨てた。恐らくは、彼女の推察は的を射ている。
後退し、大魔ゼブレリリスと離れて陣を置いて初めて気付けた。
魔獣群、そして魔人バロヌィスは決してゼブレリリスの傍を離れようとしない。
魔眼の洗礼を浴び、混乱の中後退する俺達に食らいついてさえいれば、二度と戦えぬほどの損害を俺達に与えられたにも関わらずだ。
魔人も、他の魔性らもぴたりと大魔に付き従ったまま。遅々としたゼブレリリスの歩みに付き合っている。
不可思議だったが、今ならもう理由は分かった。エルディスの言った通りだ。
「……建造物の中で戦おうと思うなら、バロヌィスを待ち構えなくちゃならない。けど、そんな事をしていたら大魔ゼブレリリスに踏み潰される。文字通り、骨も残らないわね」
フィアラートが頭を抱えて言葉を継いだ。僅かに汗を垂らしている所を見ると、熱が完全に治まったわけではないのだろう。だというのに、気丈に背筋を立てて軍議に参加している。
言葉を交わせば交わすほど、天幕の中の面々の悩まし気な表情が、ますます困惑と焦燥を濃くしていった。
何せ、一見魔人バロヌィスは完璧だ。大魔ゼブレリリスだけで絶望的な戦力であるというのに、魔人一体が加わるだけで絶望というものに底がない事が分かる。
いいや本来、大魔と魔人はこのような関係なのだろう。
大魔は絶対の権能を持って大地に君臨し、他の追随を許さない。例え血を振り絞り食らいついて大魔を殺そうと思うものがいても、魔人という障壁を超えられない。
――しかし。完璧に見えるバロヌィスとて一度は殺されたのだ。英雄ヴァレリィ=ブライトネスの手を持って。
ならば、つけ入る隙は必ずあるはず。今回も同じ道を辿れば良い。
そう思っていた。それが何なのかを必死に考えていた。
だが、全く同時に気づいてしまった事が一つある。出来る事なら、発想すらしたくなかった其れ。
かつての旅路と、そして今回の道程。両方の記憶が、俺に一つの可能性を教えてくれた。
ドーハスーラに問う。
「教えてくれ。バロヌィスの死の魔眼って奴は、呪いじゃあないんだよな。じゃあ――それは何なんだ。魔獣特有の、異能力っていうならその方が良いんだがな」
「はぁ? そんなわけがありやがると思ってるんですか」
ドーハスーラは呆れながら言った。眼をすっかり覆い隠しているというのに感情が見て取れるのだから、案外こいつも感情豊かだ。
「魔獣も魔族も、結局は魔力を浴びて力を得た種の延長にすぎやがりません。祝福や呪いを得たエルフ、妖精と違うのはその部分だけですよ。だからバロヌィスのアレは、魔法の一つです。魔法は自然の力を集積して物事を成す手段。アレにとっては、死も生も自然なんでしょうよ」
当然のように、ドーハスーラは言う。その言葉に意外な所はない。
むしろ俺がわざわざ問うた意味が分からなかったのだろう。フィアラートやエルディスは、怪訝に俺の顔を見つめてきた。
俺一人が、腑に落ちていた。
俺だって、魔眼の知識が全くないわけじゃない。ある程度の想定はついていた。けれど、死なんて大層なものを用いるなら。どうせなら道理から外れておいて欲しかっただけだ。
それならば、まだ上手い手の打ちようがあった。
ヴァレリィが、バロヌィスと一騎打ちをし、そして打ち果たせた理由が分かってしまった。魔眼が魔法の一種であるなら当然だ。
――ヴァレリィの魔術鎧は、魔法や魔術の一切を断絶する。最強の矛であり盾。
フィアラートの渾身の戦場魔術すら、ヴァレリィの肌を焼く事は敵わなかった。
だからこそかつての世界であの英雄は、死の魔人と堂々たる一騎討ちを演じ、人間であるにも関わらず相討つ事が出来た。彼女は一騎討ちを望んだのではなく、それしか手段が無かったのだ。死なないのは、彼女だけだったから。
そして今――かつて死を討ち果たした英雄は、俺の敵を演じている。
全ての条件が、状況が、最悪を俺に予感させた。
考えたくはない。けれど、考えざるをえない。
ヴァレリィの魔術鎧は、東方辺境――魔術の始祖が造り上げたとされる神具。何百年も前に造り上げられた至高の一つ。
だがそれは本当に、偶然作られたものなのだろうか。魔法と魔術を断絶する神具が、長い歴史の中偶然たった一つだけ作られたとする。
偶然、それがヴァレリィという英雄の手に渡り。偶然、ヴァレリィはゼブレリリスとバロヌィスを迎え撃つ砦に陣を構え。偶然、ヴァレリィはバロヌィスと相討ちするだけの実力も有していた。
それが、かつての頃起こった事。ヴァレリィは魔人に対抗出来てしまったからこそ、北方砦を死守し、あの場を墓としてしまった。
だがもしヴァレリィが魔人の権能に対抗が出来ず。早々に撤退を選んでいたのであれば。彼女は確実に生き延びた。ヴァレリィという英雄が生き延びた世界であれば、ガーライスト王国はいち早く団結を確かなものとして、魔獣災害に対抗できたかもしれない。
だがヴァレリィを失ったガーライスト王国は、団結の時間すら与えられずに瓦解し、半壊した。より多くの人間が死に、食われ、望みを失い。――結果、大聖教の手を掴んだ。
指を、鳴らした。眉間に皺を寄せる。
――あの、アバズレ。
口の中でだけそう呟いた。俺を不快にさせる事について、あの女の右に出る者はいないだろう。アリュエノの姿さえ借りていなければ、視界に入れた瞬間に首をへし折ってやりたいくらいだ。
どちらにしろ、今もはや此方にヴァレリィはいない。彼女が魔人バロヌィスを殺す日が来るならば、それは俺も爺さんも彼女に殺された後だ。
俺は、いち早くバロヌィスも、ゼブレリリスすらも殺して、爺さんの援軍に駆けつけねばならない。
あの悪辣は、俺に死なないと言ったのだ。ならば、必ず生き延びる。だからこそ、この場で足踏みをしている暇は無かった。
「――後退はしない。時間を失えばその分傷は広がり続ける。良いか、不可能なんて事は在り得ない。必ず俺がアレを殺してやる。意見を聞きたい。此処にいる全員にだ」
どう運命が転がったにしろ、俺はアレを殺す事に全霊を掛けるしかない。もはやそれ以外に手段はないのだ。
運命を破り続けた先に、アルティアが隠れ潜んでいると信じている。