第五百四十四話『腹案ここに有り』
北西に、魔獣群を引き連れその巨獣はいた。
ガーライスト王国最北端のスズィフ砦を陥落させた後、要塞巨獣ゼブレリリスはゆっくりと、それでいて確実に歩みを進めている。
標的は南方ガーライスト王国王都。
此ればかりは、アルティアに誘導されたからではなかった。彼の存在の中枢にある本能が、覚えているのだ。
かつて憎悪すべき敵が、其処にいた事を。人類による統一帝国の残滓を叩き潰す事だけが、もはやこの巨獣に残された最後の意志に等しかった。
その為だけにゼブレリリスは大地を、人を、家畜を食らい侵攻を続ける。天を突くほどの建造物が大地を歩くのは圧巻の一言。質量のみで全てを殺せる。
だが異様なのはそれだけでは無かった。
ゼブレリリスの周囲を蠢く様に付いて回る魔獣群。彼らは、今この時も増え続けている。他ならぬ大魔の手によって。
――ゼブレリリスは建造物に空いた孔から大地を食らい、それらを糧として魔性を孕み産み落とし続けていた。
巨人王フリムスラトが壊す者、天城竜ヴリリガントが奪う者であるならば。精霊神ゼブレリリスの本質は此れだ。
彼女は産まれ行く全ての生物を祝福し、世界に吐き出す。他を食らい、魔性を産み落とし続ける有様は、素晴らしく魔的だった。
その魔獣群の内。一体だけ、突出した者がいる。
褐色の肌。蒼色の髪の毛。小柄ながら均整が取れた身体は、小柄な人間の女性を思わせる。
人間と異なる点は、頭に生えた異形の双角。前に進んでいるにも関わらず双眸を覆う重厚な布。
死雪の中で肌の見える軽装をしながら、四肢で鎖を引きずっている点も人間離れしていると言えばそうだろう。
名を、バロヌィス。
彼女の四肢に繋がれた鎖は、巨躯を有する四体の魔性が引きずっていた。内の一体が、先を見通して言う。
「バロヌィス。人間共の群れが来やがった。てめぇの出番だ。とっとと出やがれ」
「……面倒だな。君がやったらどうなんだい。魔性の端くれだろう」
気怠さを一切隠せない様子で、バロヌィスは応じる。
どうやら歩く気すら殆ど失せているようで、鎖を引っ張られる度に右脚、左脚と前に出していく。闘争本能に支配されている魔性の中で、彼女は圧倒的に変わり種だ。
「うるせぇ。大魔様に逆らったてめぇが、今更どんな口を利きやがる!」
「逆らったわけじゃないさ。変な事を言わないで欲しいな。私はただ殺してやろうと思っただけさ」
バロヌィスの何気ない一言一言に、周囲の魔性が振り返っては怖気を走らせる。
この場の魔性は誰もが、大魔に抗ったバロヌィスを蔑んでいる。時折鎖に引っ張られ地面に額を擦りつける姿を嘲笑う者もいた。
けれど、この言動にだけは誰もが慣れない。
魔性は、上位のものに付き従うもの。本能とすら言って良い。
だが彼女はそんな本能や理の一切を無視して振舞う。
身体や精神を何度嬲りものにされても、彼女の此れは変わらない。
「……大魔様はてめぇに約束してくださった。役目をこなせばてめぇの薄汚ぇ種族を蘇らせてくださると。てめぇはそのために仕事をする。違うか」
「そうだね。面倒だ――本当に面倒だ。何もせずとも望むものが欲しい。考えずとも望むものが現れて欲しい。魔性とはそうあるべきだ。だっていうのに、一つ一つ虫けらみたいに積み上げなくちゃならない。我慢がならない。ほら、仕事なんだろう。早く覆い布を取るんだね」
「うるせぇ! 一々無駄口を叩くんじゃねぇ!」
巨躯を誇る単眼の魔性が、バロヌィスの頬を強かに打ち付ける。
圧倒的な体格差があるというのに、バロヌィスの頬には殆ど傷がついていない。精々少し赤らんだ程度だ。
彼女は抵抗もしなかった。そんな事どうでも良いと、全身が語っている。
それが余計に周囲の魔性の反感を買ったとしても、彼女が態度を改める事はないだろう。
魔獣群の視界の先には、人間兵の集団がいた。
国軍や、聖堂騎士にしては兵装が貧弱だ。恐らくは、周囲の村落を守っている自衛兵や傭兵だろう。
当然彼らも、魔獣群の後ろにはゼブレリリスが迫っている事は分かっている。徹底抗戦する気はなく、村落の市民らが避難する為の時間稼ぎといった所だ。
彼らは北西からひたすら南へと逃げ続けてきたが、とうとう追いつかれた。一目散に逃げるにしても、もう時間がない。
後が無い彼らの抵抗は決死のものになる。魔獣群が負ける事はないが、被害が出るのは確実だ。
だが――大魔アルティウスからの勅令は、一体も欠ける事なく王都へ到着せよ、とのものだった。
だから彼らは、バロヌィスを使う。
「――面倒だ」
前面に出されたバロヌィスはただ一体で呟いた。
相変わらず四肢は鎖に繋がれたまま。先ほどとの違いは目元の覆い布が剥ぎ取られ、閉じた双眸が露わになった程度。
詰まり――バロヌィスにとってはそれだけで十分という事だった。
人間の兵どもが、勢いよく声をあげながら駆けてくる。
文字通り、死に物狂い。命を投げ出し、少しでも多くの人間を逃がそうとしている。
けれどとても残念な事に、バロヌィスにとっては彼らも、そして彼らが逃がそうとしている民達も、視界の内側だ。
彼女はゆっくりと、双眸を見開く。
――原典開錠――『魔眼開眼』
バロヌィスにとって、双眸を開くという事。ただそれだけが原典の開錠。確殺の一矢。一挙動で眼前の生物は死に至る。
全ては同時に起こった。瞬きの猶予すら与えられない。
兵士も、民も、空を飛ぶ鳥も地を這う虫も。
皆平等に、刹那の時間で殺された。視界の中で、皆々死んだ。魔眼の魔力は全てを貫く。
此れが、バロヌィスの日常だった。
――かつての頃。英雄ヴァレリィ=ブライトネスが命と引き換えに殺した魔人がいる。
十二度、大魔率いる魔獣群の攻勢を追い蹴散らし、スズィフ砦を防衛しきった彼女。
十三度目は、華々しい魔人との一騎打ちだった。魔人の名は――魔眼バロヌィス。
◇◆◇◆
ガーライスト新王国、王都北方メドラウト砦。
王都を出立した二万八千の兵は一度ここに留まり、一部をオリュン平野――大魔ゼブレリリスとの決戦に向ける。その手はずとなっていた。ここまでの道程は非常に順調であると言えるだろう。
少なくとも、敵軍の報告が俺達に届くまでは、そうだった。
周辺一帯の地図を広げながら、砦内の軍議室に声を響かせた。知らず、唇が拉げていく。
「……ヴェスタリヌ。お前が言うんだ、間違いないと見ていいんだよな」
軍議室の中には、カリアやフィアラート、エルディス。リチャード爺さんを含めた主だった面々が顔を見合わせている。
全員の面持ちは固い。傭兵の長たるヴェスタリヌの言葉が、よりその表情を引き締めさせていく。
「はい。複数の斥候が同じ情報を持ち帰っています。確度は高いものかと、閣下。北方からは、敵軍六万が迫っています。余力の大部分を吐き出した形でしょう。敵将は、ヴァレリィ=ブライトネス。副将にジルイール=ハーノを置いています」
――馬鹿な。
眉間に皺を寄せ、押し黙ったまま頷く。
アメライツ先王が引き連れていた国軍が、約五万。敵方にはこれと含めて聖堂騎士や、民兵を併せ持った程度の兵力しかない。
そこから六万を費やすという事は、ヴェスタリヌの言う通り余力をほぼ吐き出している。彼らにそれだけの大胆さがあったという事か。
だがだとするならば、護国官を含めた他の将らも注ぎ込まねば意味がない。彼らが動く様な素振りは全くなかった。全力を尽くすというのに将ばかりを出し惜しみとは道理が通らない。
いいや、違うか。そこでようやく冷静になった。
この六万、恐らく義勇兵だけではなくて、魔性が紛れ込んでいる。何せここまでくれば、大聖教軍は殆どアルティアの直轄軍と言って良い。
ならば魔性や近しい連中を紛れ込ませるくらい簡単なものだろう。
大きく、ため息を吐いた。ならば当初の兵力に加え、どれだけの増員がされているか検討もつかなかった。
「……それで、オリュン平野に侵攻してきているゼブレリリスも、魔獣の群れを揃えて来てるんだっけ。どれくらいの規模かな」
エルディスが、沈黙に耐えかねて吐き出したように言う。
こちらは明確には分かっていないと前置きした上で、ヴェスタリヌが答える。
「多少の上下はしていますが、周囲の魔性を併呑し続け万は優に超えるかと」
詰まり、敵軍は総軍七、八万は当然備えているというわけだ。
非常に不味い。強烈な勢いで、敵は此方を叩き潰しに来ている。
ただでさえ此方は総軍二万八千、圧倒的に兵力で劣っているというのに、ここから身を割いて砦と平野に振り分けねばならない。
戦役前から半死半生だ。
だが不利な事は最初から分かっていた。誤算は一つ、大聖教軍の動きが余りに速かった事だ。
どう考えても、こちらの動きを見てから動き始めたというものではなかった。明らかに、俺達の動きを読んだ上で行動してきてやがる。俺達は読み負けた。
地図を見ながら、目を細める。どうするべきか、思案した。
戦略上の先手は打たれた。それでも今までは、例えか細くとも勝利の線を見出して、何とか手繰り寄せてきたのだが。
――今回は、それが全く見えなかった。最善手すら分からない。
大聖教軍の敵将はヴァレリィ。幾ら爺さんでも、半数以下の兵では抑えきれない。副将のジルイールとかいうのは未知数だが、守護者に任じられたというのだから無能ではないだろう。
これに加えて、大魔ゼブレリリスは魔人も有しているはずだ。幾ら赤銅竜シャドラプトを充てるとはいえ、どこまで対抗できるかは不明瞭。魔獣群を抑えるための兵を全く割かないというのは無謀が過ぎる。
まるで考えが纏まらない。どんな手を打っても、何処かに綻びが出てきてしまう。
「――閣下。少々図案が狂いましたな。もう一つ、話していた別の手で行きましょう」
皆が押し黙った中で、唐突にそう言いだしたのはリチャードの爺さんだった。
何時も通り、諧謔めいた笑みを頬に浮かべながら顔をあげている。押し黙ったままだった面々が、爺さんの顔を見てから、今度は俺を見つめた。
当然、此処にいるような連中はこちらの内実を良く分かっている。今の今まで、この状況を聞いて俺と同じ実感を抱いていたはずだ。
――即ち、此れは勝てない。
そう考えるのは、爺さんも同じはずだったのだが。
爺さんと真っすぐに視線を合わせる。ぴくりと、眦が動いていた。
一瞬で理解した。そういう事か。
無理やり表情を作る。吐息を軽く漏らしてから、言った。いいや、言うしかない。
「余り取りたくは無かったが。此処までくれば、どんな手でも取るしかない。頼めるか、爺さん」
「愚問ですな。直ぐに、取り掛かりましょう」
言って、爺さんは踵を返して軍議室を後にする。最後に、俺を一瞥した。
――昔。未だ俺が爺さんの下にいた頃、よく使った手だ。最高に取りたくない手だった。