第五百三十八話『敵は北方にありと語られた』
王都全てに荘厳な音楽が鳴り響く。
この日の為に用意された楽譜に、この日の為に仕立てられた麗しい衣服。
未だ王都は復興の最中でありながら、今日この時が絶頂であるように見せるため、その祭典は飾り立てられていた。
人々は軒並み街道に出て、新たなる統治者の登場を待ちわびている。凱旋式に続いての祝い事であるにも関わらず、誰もがその瞬間を祝福していた。誰も飽き飽きしたなどとは言いださない。
ようやく、これで繁栄と安定の時が来るのだと誰もが言った。
王都の中で最も古い聖殿の中で、儀式は執り行われた。
「――フィロス=トレイト。今より、貴女はアメライツ=ガーライストの名を承継します。唯一の神と、数多の精霊が貴方の名を祝福し、その治世に栄誉を与えん事を」
紋章教聖女マティアが、王冠を持ってフィロスに祝辞を捧げる。
代々、王権を示す冠は大聖堂の教皇が戴冠をさせるしきたりとなっていた。
だが、もはや大聖教はガーライスト王国の国教ではない。紋章教の象徴たるマティアによってガーライストの王が戴冠されるというのは、一つの時代の終わりを告げる事でもあった。
マティアと数名の司祭らがフィロスに聖なる詞を告げ、その頭に用意された冠を載せる。
一都市の主であり、妾腹の王女でしかなかったフィロス=トレイトが、正式にガーライスト王国の女王となったのは、まさにこの瞬間であった。
「私に与えられた使命と責任を全うし、国家全てを我が血肉と思い君臨する事を誓いましょう」
女王が戴冠し、聖女マティアを含めた全ての者がその場で傅く。次には皆が女王に忠誠を誓い、此の場で王国の為に尽くす事を誓った。
儀式も終盤にかかって、ようやく元帥任命の機会が来た。アメライツ女王――フィロスは傍仕えの者から元帥杖を受け取り、ルーギスが進み出るのを待つ。
元帥杖は黒を基調に金で装飾されている。フィロスのドレスをイメージして作られた色合いだ。
常に女王の傍で仕える心構えでいよ、という意図を含めたものだがどれほど彼に伝わるものかとフィロスは眼を細めた。
そうしてふと、思う。
――というより、ちゃんと出てくるんだろうかあの男。
もしかしてもしかすると、元帥などと気分が乗らない、と言って出てこないつもりではないだろうか。
背筋を蛇が這うような感触。あの男ならやりかねないとフィロスは思う。
下手をすれば夜半に一人で脱走しかねないと聞いて、カリアやフィアラート、マティアまで含めて脱走阻止の計画を立てていたほどだ。
幸いそれは起こらなかったようだが、ルーギスは何をしてもおかしくないというのが、フィロスの正直な所だった。
心臓が鳴る。ちゃんと、出て来てくれるのだろうか。そんな思いを強く抱きながら、名を呼んだ。
「――ルーギス。前へ」
緊張の一瞬だ。人生で、これほど緊張した事はないかもしれない。
どうしてこれ程までに、一人の人間に追い詰められなくてはならないのか。理不尽な事だったが、腹が立つ気分すら覚えた。
「――はっ」
けれど、フィロスの緊張や逡巡など吹き飛ばすように。短い答えで彼は前に出た。
緑色の軍服に、フィロスが与えた金や黒の装飾品。本人は嫌そうにしていたが、儀礼の場ではその色合いがとても良く映えている。
ルーギスは、フィロスの目の前まで歩いて、そのまま傅いた。胸が高鳴るのを感じる。今より、彼は己の元帥となるのだ。
己の運命を幾度も狂わせた相手の運命を、此れで狂わせてやれた。
そんな昏い喜びと同時、もう一つ感情があった。
此れで、彼はガーライスト王国の、私の英雄だ。ボルヴァート朝のものでも、紋章教のものでもない。
マティアは認めないだろうが、事実としてしまえば良い。
騎士の誓いの時にするように、フィロスは元帥杖で軽くルーギスの肩を叩く。
「ルーギス。貴方をガーライスト王国元帥に任じます。此れより貴方は我が国の英雄。兵士らの父となるのです」
それは当初決められた通りの言葉とは、少し違った。
けれどルーギスは大した動揺もなく、応じる。元々フィロスが何を言うかなど、覚えていないのだろう。ただ一瞬マティアの表情が揺らめいたのが、フィロスには分かった。
「――はっ。全霊を尽くし、必ずや成し遂げましょう」
フィロスは、満足そうに首を頷かせる。儀礼上の事とは分かっていても、ルーギスが己の言葉に素直に頷くのは何とも心地よかった。
流石に、此れが歪んだ想いだというのは重々承知していたが。
「では元帥ルーギス。貴方は元帥として何を成してくれるのです。答えなさい」
此れは、事前に取り決められていた言葉だった。
ルーギスは国家の敵を打ち破り、必ずや勝利を届けましょう、とそう答える。それで元帥への就任は終わりだ。
そのはずであり、それ以外の答えなど、出てくるはずがなかったのだが。
「――国家の敵は今や北方にあります。女王陛下」
ぴくりと、フィロスの頬が歪んだ。周囲には気づかせぬ程度にではあるが、瞳も大きく開いている。
不味い。また、彼が何かしでかし始めた。フィロスの背筋を冷たい汗が伝う。こんな言葉は取り決めていない。
かと言って、ルーギスは元帥杖を受け取って話始めている。そうしてその言葉を求めたのは女王たるフィロス自身だ。
ルーギスが口を閉じるまで、声を挟める者は誰もいなかった。
「即ち、大魔ゼブレリリス。大聖堂は彼の者を撃ち滅ぼすと嘯きながら、未だ腰を上げようとはしていない――大聖堂の掲げる神は大魔ゼブレリリスに勝利し得ない様子」
それはまさしく、大聖堂、ひいては大聖教という宗教への侮辱に他ならなかった。
この式典には、貴族や司祭だけでなく、より広く新王国の戴冠を知らせるため、画家や記者も参加している。
この言葉は、必ず彼らに記憶され、多くが流布されるだろう。
それが目的か。誰の入れ知恵かと、フィロスはマティアの表情を睨みつける。
だが、奇妙な事に彼女も目を丸くして今の事態を静観していた。
「――女王陛下。大魔ゼブレリリス。そうして、人類を騙しせしめた偽の神をも、必ず討ち果たして見せましょう」
ルーギスはそう誓って、元帥杖を胸に抱き寄せた。彼の言葉が終わった証だ。
フィロスは眦を歪める。
ルーギスがどういう魂胆かフィロスには想像もつかない。だが国教に紋章教を据えたとはいえ、未だ国内に大聖教の信者は存在するのだ。
人はそれほど容易く信仰を変えられるものではない。
此処でこの言葉をフィロスが受け入れてしまえば、彼らを反乱分子に仕立て上げる事になるだろう。
――いいえ。どちらにしろ遅いか、早いかか。
フィロスは胸中でそう呟いて、数度瞬きをした。そうしてから、唇を開く。
「誓いの言葉を受け取りましょう。必ずや、勝利を導きなさい。元帥ルーギス」
傅くルーギスに言いながら、フィロスは眼を細める。
どちらにしろ、大聖堂は新王国を認めない。幾度も交渉を打診したが、敵対姿勢を崩す様子は全くなかった。なら、遅かれ早かれ全面的な対立は起こるのだ。
ならば、今の内に膿は出し切ってしまっておいた方が良い、そういう考え方もある。
それに、それにだ。
フィロスは傅いたままのルーギスを見て思う。
彼が、己の為に、それを成すと言ったのだ。ならば是が非でも、成し遂げてもらおうではないか。胸中が燃え上がるように暖かいのがフィロスには分かった。
もう、止まれまい。彼も己も、行きつくところまで行くしかないのだ。
例えその先が天の国であろうが、地の底であろうが、フィロスにはどうでもよかった。
ただ、この男だけはどこまでも道連れにしてやる。絶対に。