第五百三十六話『忘れぬその名』
妾腹の王女が住まう離宮。
王女が正式な戴冠を経るまでは、ここが彼女の王宮であり執務室だった。
必然、その配下や彼女に関わりある者はこの離宮にて言葉を交わす事になる。
その一室。ラルグド=アンは小さな肢体で胸を張りながら声を響かせた。
「現状はよく言えば単純。悪く言えば危機的です。状況を整理しましょう」
アンは黒色の板に白色の線を引き、簡単に大陸の地図を描いてみせた。
大きな国家の名前だけを記載して、言葉を続ける。
「我々は東方ボルヴァート朝、南方イーリーザルドを事実上の同盟国とし、新ガーライスト王国を戴冠します。此れは歴史上類を見ない広範な領土を有する国家同士の同盟ですが――即時有用となるものでもありません。ボルヴァート朝は大魔の出現により半死半生。イーリーザルドも魔人災害によって部族同士の連携が取れていない状況と聞いています」
詰まり、どちらも頼りにはならないという事だった。
状況だけを見れば協力を要請される事はあっても、反対の立場には立てない可能性が高い。
とはいえ、決定的な対立を避けられたという点だけでも、同盟に価値はあるだろう。
このまま小康状態が続いてくれれば、問題はなかったのだが。
「この大災害の最中、我々に敵対を表明する勢力が二つ存在しています。即ち、北方へ逃亡したアメライツ=ガーライスト率いる旧王国軍に、それを庇護する大聖堂軍です」
アンはそう言って、一度室内を見渡した。楕円の形をしたテーブルに各々が座る中、彼女が注目したのは一人だけだ。
英雄ルーギス。
どういうわけか彼は、カリアやフィアラートを傍に置きながら、ビオモンドール卿と談笑していた。
互いに時代を出し抜いた人間達だ。馬が合うのかもしれない。
だがそれはそれでアンには面白くない。まるで己の語る事が、ビオモンドール卿より価値がないと言われているようではないか。
大体何時もこういった会議の後、酒や食事の場で詳細を聞いてくるのが彼の常なのだ。それならば会議の場で聞いておけばよいものを。
いいや勿論、二人で酒や食事を嗜むのが嫌というわけではないが。
「……二勢力は実質的に一つだと言っていいでしょう。彼らは我々紋章教国家を憎悪している。使者を受け入れる事もありません――それに、聖女としてアリュエノを戴いてからというもの、士気も津波の如きだと聞きます」
聖女アリュエノ。その名を呼んだ途端、一瞬、英雄の視線がこちらを向いた気がアンにはした。
果て、何故だろうか。そんな情報はあっただろうか。
アンは頭の中で記録を手繰りながらも言葉を継ぐ。
「大きな問題がもう一つ。北西に顕現したもう一つの災害――大魔ゼブレリリスが南下を続けています。そのまま進めば我々の領土を彼は間違いなく食い尽くす。そうなれば我らは王国の体裁を保てません」
「つまり、こういう事ですな、アン殿」
いつの間にかルーギスとの談笑を終えて、ビオモンドールがアンへと視線を向けている。
どうやら彼は、周囲と言葉を交わしつつも会議の内容を聞き漏らしていたわけではないらしい。
全く如才のない人物だった。
「――我々は、大聖堂軍とゼブレリリス。二つの災害に今も狙われ続けている。全く安堵すべき状況ではないと」
「仰る通りです、ビオモンドール卿」
加えるなら、西方に横たわる諸侯連合ロアの存在も見過ごせるものではなかった。
彼らもまた魔人災害に嗚咽をあげている被害者ではあるが、どうやら新王国と同盟を組む気はないらしい。
本来あの国に盛んな信仰はなかったはずなのだが、いつの間にか諸侯の多くが大聖教支持に傾いてしまっていた。
積極的な敵対は出来ないだろうが、協力も期待できない。いざとなれば背中を刺される。
状況はある意味で単純だ。ガルーアマリアで一旗を上げようとしていた頃よりずっと分かりやすい。
だからこそ、危機的でもあった。
「――英雄殿。どう思われますか。お言葉を頂きたく。何せ、元帥殿であられますから」
アンは苛立ちを隠せなくなった口調でそう言った。
視線の先には噛み煙草を咥えたままの英雄がいる。虚を突かれたように目を丸くし、苦笑していた。何で俺にと言わんばかりだ。
だがその苦笑いとは反対に、周囲の視線は徐々にルーギスに集まっていく。
当然だった。王都にて魔人を殺し、東方ボルヴァートで大魔を零落させた大英雄。明日の戴冠式において元帥へと任命される彼。
その者の言葉に、多少なりとも関心を持たぬ者はいない。
そうしてよりによって、アンの言葉に乗るものがいた。
「そうね。私も聞きたいわ。言いなさい、ルーギス」
王女フィロスが、片眼鏡で睨みつけるように言う。何故か愉快そうだった。
この場で立場上ルーギスに命令できるのは彼女一人だ。そうしてルーギスも、彼女の言葉には頷かざるを得ない。
彼が頬をひくつかせたのを見て、ほれみたことか、とアンは満足気に吐息を鳴らす。
己の話を不真面目に聞き流そうとするからこうなるのだ。
「まぁ……そうだな。あちらの聖女の手は大体分かる。単純に俺達を攻めるような真似はしないだろう。ゼブレリリスの被害に遭って弱った所を叩きに来るか、まぁ先に手を打ってくるってのは考え辛いな。せめてあっちにヴァレリィがいなけりゃ良かったんだが」
なぁ爺さん、とルーギスは気軽にリチャードに話題を振った。
アンは上手く逃げられた気分だったが、確かにルーギスの言う事も間違いではない。
大魔ゼブレリリスは今この時も大陸への浸食を続け、全てを喰らい続けている。大聖堂直轄地域とて例外ではない。
だが、ガーライスト王国ほど致命的ではなかった。
もし今後ゼブレリリスが真っすぐに浸食を続ければ、それはガーライスト王国の肥沃な王都周辺部を直撃する。
ガーライストは心臓を奪われるのと同様だ。立ちどころに飢饉騒ぎとなり、戦役など出来なくなるだろう。
大聖堂がその頃合いを見計らって攻め打ってくるというのは十分にあり得る事だった。
「……まぁ。ヴァレリィと直接会いたくはねぇな。純粋なぶん殴り合いで考えりゃあいつは間違いなく世界で一番だ。指揮なら俺が勝つがね」
「ヴァレリィ=ブライトネスだけではありません。大聖堂軍。いいえ、聖女アリュエノはヴァレリィを含めた数名を守護者に任じ、軍を預けています」
リチャードの弱気とも強気ともとれる発言に、思わずアンが付けたした。
思えば、ここで何も考えずに付け足してしまったのが、間違いだったのだろうとアンは思った。
手元の羊皮紙に視線を落とす。そこに数名の名前があった。
一つ、一つを読み上げる。
「ガルラス=ガルガンティア。彼は聖堂騎士団の筆頭騎士です。その武名はヴァレリィに劣るものではないでしょう。もう一人は魔術以上の奇跡を用いると語られるジルイール=ハーノ。それに――」
これも何処かで見た名前だったなと、アンは思った。だがそんな違和感は、すぐに弾けてしまった。
唇をゆっくりと押し開く。
「ヘルト=スタンレー。こちらも、聖堂騎士のようですね。前歴の詳細は不明ですが――」
「――アン」
とても、静かな声だった。ふとすれば、雑談にすら聞こえる。
だがその一言で議場が凍り付いた。
フィロスも、マティアも。彼の周囲にいたカリアやフィアラート、エルディスですら、口を挟まなかった。
皆一様に、その言葉が異常だと気づいてしまっていた。
アンも同様だ。
「……何、でしょう。英雄殿」
「そのヘルト=スタンレーは、どんな容貌なんだ」
どんな容貌。一瞬、その言葉の意味が分からなくなる。アンは己が極度に緊張している事に気づいた。
数秒の間を置いて、頭に入れ込んだ情報を、端的に口にする。
「……金髪、金瞳の青年との事、ですが。どうされましたか英雄殿」
そう聞くのがやっとの事だった。
それ以上つついてしまえば、襲い掛かられてしまうような気がアンにはしたのだ。
「――いいや。ありがとう、アン。よく分かった」
ルーギスは、それだけを応えた。それ以上、何も語らなかった。
しかしその場の誰もが、ヘルト=スタンレーなる者が、この英雄と並々ならぬ因縁を持つのだと、気づいていた。
何せルーギスは、その名を聞いた瞬間から、手元の魔剣から手を離さなかったのだから。