第五百三十三話『聖戦の前夜』
流れるような様子で、羊皮紙に単語と、そうして名前が記されていく。
記された名前は、聖女アリュエノ。その名前が意味する所を読み取って、思わずエルディスは呟いた。
「なるほど。彼の幼馴染、か。厄介なものだね。通りで靡かないと思ったよ」
エルフ国家ガザリアの女王、フィン=エルディスはその名前を記しながら、歌うように名を呼んだ。
名を聞いて思い出されるのは、フリムスラト大神殿におけるあの化物。神霊アルティアを名乗る異物。
エルディスもまた、その姿を垣間見た。存在そのものが間違いのような相手だ。本来ならば最も関わり合いになりたくない相手だが。
――しかし、その相手がルーギスの想い人だというのならば、話は別だろう。
よりによってまぁ、あんなものを好いているとは。彼らしいといえば彼らしいのかもしれないが。
その事実を、エルディスはルーギスの口から直接聞いたわけではない。エルディスが鎮座するはルーギスより遥か彼方のガーライスト王国だ。
彼女はただ、読み取っただけ。彼が何と喋っているのかを。
確かにエルディスは、一定の条件を満たさなければ遠方に幻影を飛ばしたり、周囲の様子を把握したりするような真似は出来ない。精霊術にも限度というものがある。
だが、ルーギスはエルディスが拵えた軍服を常に身に着け、そして――よりその身が魔性に近づいた。エルディスの同族に近しい。
ならば彼の身体が、指が、唇がどのように動いているのかくらいは分かる。集中し続ければ、動きを読み取って会話を覗き見る程度は容易い。
その事実が、エルディスには喜ばしかった。彼はもはや人間ではない。魔性の側だ。幾ら記憶や理性が戻ろうが、その身体は決して戻らない。
不幸中の幸いというものだろうか。ルーギスが魔人と化した事で、エルディスが彼に蒔いた種は芽吹いた。後は少しずつ成長を遂げるだけ。その内に、彼は人間でも、ただの魔性でもなくなる。
そうして、帰れる所が一つしかなくなる。
ようやく羽根ペンを置いて、エルディスは椅子に身体を預ける。肩にこもった力が抜けて行った。
「しかし、マティアめ。何が政治の話だ。嘘じゃないが真実でもない。これだから人間というのは、嫌になるね」
そう吐き捨ててから、エルディスは数度羊皮紙に書いたアリュエノの字をなぞる。マティアにも思う所はあるが、今はこの女の方が問題だった。
そっと名前に向けて、軽い呪術を試してみる。
共感呪術――その者と関係がある物体や名を用いて、祝福や被害を与える術。髪や爪を用いて呪いをかけるという、古典的な方法も本来は共感呪術に属する。
名前は最も所有者に近しいもの。加えて、エルディスはアリュエノの姿も知っている。条件は十分だ。
眼を見開いたまま、数語をエルディスは呟いた。大精霊の名の下に、呪いを顕現させる。
瞬間、エルディスの指先に痛みが走った。羊皮紙を見れば、アリュエノと、そう書いた箇所だけが妬き焦げていた。
「エルディス様――ッ」
「大丈夫だよ、ヴァレット。火傷もしていない。少し跳ね返されただけさ」
侍女ヴァレットがすぐに冷やした布をもってきて、エルディスの指先を拭う。ヴァレットは、エルディス以上に慎重な性質だ。主人が怪我をして、何もしないという事に耐えられないらしい。
「呪術の鏡返しですか。エルディス様の呪いを跳ね返す者がいるとは思いませんでした」
「うん。奴が神霊というのもあながち嘘じゃない。それだけに手段は選ぶ必要があるね」
何せ、ルーギスがアレを想っているというのだ。アレがどうでるかは別として、見過ごすことは出来ない。
それに、丁度良い所に彼女は敵だ。ならばより手段は択ばなくて良くなる。
「ヴァレット、一度ガザリアへ向かって欲しい。まだ戦役は続く。魔性との戦役だ。迷い始める者が出ないように、重鎮達へ言い聞かせたい」
「かしこまりました。使用する原稿を明朝までに用意いたします」
そう言ってヴァレットは深々と頭を下げ、そのままエルディスの私室で羊皮紙を広げ始める。
ヴァレットは、未だ王都から動けないエルディスに替わり、数度ガザリアへ足を運んでいる。それも代理というのではなく、エルディスの姿を借りてだ。
鏡の精霊術を用いるヴァレットは、一定の期間であればエルディスの姿を用いれる。その姿でもって、ヴァレットは重鎮達へと指令を送る。無論、信頼のおける重鎮にはその事実を伝えた上で、だが。
ガザリアとて必ずしも盤石ではない。長くエルディスが不在にしてしまえば、よからぬ事を考える者が現れても不思議ではなかった。
代理ではなく女王本人として帰国させるのは、エルディスがヴァレットに対して全幅の信頼を寄せいているという証拠だ。
「――ああ、それと。紋章教に、もう数名でいいから人間を送り込みたい。選定を頼めるかな」
「はい。すでに十名ほどですが、信頼できる人間は確保しています」
「うん。聖女マティアの素行や監視を行える人材が良い。恐らく彼女も、同じことはしているだろうけどね」
ヴァレットが頷くのを見てから、エルディスは頬を軽く緩めた。彼女は本当に優秀だ。任務を遂行するという能力だけを見れば、きっと自分よりも。必ず必要な人材を揃えてくれる事だろう。
エルディスは、より笑みを浮かべながら今一度羊皮紙に向かってペンを握る。そうして、数名の名前を書いた。
ルーギスにより近しい、そして彼に良からぬ感情を抱いているであろう彼女ら。
名前を数度指でなぞる。共感呪術を用いるような真似はしない。今は、その時ではなかった。
――けれど、いずれ僕らは戦争をする。愛とは恋とは、戦争のようなものだ。
エルディスは可笑しくてたまらなかった。カリアとも、フィアラートとも、そして聖女マティアとも。平時は言葉を交わす事もあり、親交を深める事もある。
勢力としても、ガーライスト王国やガザリア、そしてこれからはボルヴァートも含めより緊密な関係になる事だろう。
――だが裏では互いに牽制しあい、一歩を先んじようと常に目を光らせている。
エルディスは、マティアの行為に対して嫌になるとそう言ったが、本心からではなかった。きっと己も、その機会があったら同じ事をするだろう。
だから、マティアを責めるような真似はしない。戦争は、どのような手段も肯定するのだから。
「ルーギス。君は僕を軽蔑するかな。でもね、君が誰かに奪われてしまうくらいなら。僕は全てがどうなってしまったって良いと思ってるんだ」
微笑むように、歌うようにエルディスは言った。
同盟関係にあった紋章教とガザリアは、蜜月の間柄であったが、裏では常に諍いが絶えなかったと後世では記録されている。
その要因がはっきりと示された事例はないが、人間とエルフという種族の壁を超える事が出来なかったのだという者もいれば、聖女マティアと女王エルディスの個人的な対立だという者もいる。恐らくは政治的な思惑により対立をしたのだろうと。
だが此の時代の記録は正直を言えば混沌としたものが多い。数多くの記録は残っていれど、それが真実か虚偽かを見極めるのは困難だ。
恐らくは大災害と、数多くの戦役によって引き起こされた混乱によるものなのだろう。此の時代は、大混乱の時代だった。
そう丁度、ボルヴァート朝での対魔戦役を終えたルーギスが、ガーライスト王国へ帰還した頃を区切りとして、この時代はこう呼ばれる。
――聖戦時代。
魔性の顕現を前に、人類は決して手を結ぶばかりではなかったと、そう言われた。