第五百二十七話『歴史に残る人物評』
「魔軍を追い払っているのであれば、友軍ではないのか」
「しかし、我々の使者を追い返しています。文書の一つも受け取りません。この際に乗じた侵略の可能性もあり得ます。防衛のご決断を」
副官エイリーンの報告に、魔導将軍マスティギオスは口元を固くしながら指で机を強く叩いた。
首都に迫るはガーライスト及び紋章教連合軍二万。国内は落ち着き、装備も補給も充実しているに違いない。それに練度も高いはずだ。
魔軍との筆舌に尽くしがたい激戦を超えた後のボルヴァート軍には、とてもではないが戦える相手ではない。威容を誇った精鋭魔術装甲兵の部隊は多くが瓦解し、魔術獣兵も大部分が失われた後だ。
もはや軍としての体裁は成り立たず、領土を踏み越えてくる連合軍に対し斥候を放つ真似しか出来ない程だった。
だからこそ、攻め込むには絶好の機会だと言われればその通り。ガーライストがそれを狙っているとするならば、もはや防ぎようはない状況だ。
合議室の面々は渋く固まった顔で唇を歪ませながら、時折言葉を漏らしていく。
彼らは元々が重職についていたか、もしくは魔軍支配の時を生き抜いた者達だ。皆、今がどういう状況であるか分からぬほど愚か者ではなかった。
「正面からやりあって、勝てるわけがないねぇ。弱ったとはいえ、ガーライストは大陸の覇者さ。それに、私達はもっと弱った」
老婆の声だった。このような状況でも笑うように話すのは彼女なりの癖なのだろう。他の面々も、意見は変わらなかった。
もし連合軍が本当に戦端を開くというのであれば、選べるのは開城による降伏か、先の見えぬ泥沼の籠城戦。しかしもはやボルヴァートに籠城を行うだけの体力は無い。市民達はその多くが疲弊しすぎている。
マスティギオスは重苦しい空気を呑み込みながら言った。
「カリア殿に使者に立って頂くしかない。彼女はガーライストにおいても、紋章教においても影響ある人物であったと聞く。戦争にならぬのであれば、せめて条件の良い和議にせねば」
他国の人間に頼り切りにならねばならぬとは、何とも情けない。だからこそ、マスティギオスは先陣を切って言った。
このような場で強硬策に走り、無為に戦役となればそれは亡国への道だ。先の君主への忠誠のためにも、それだけは出来ない。ボルヴァート朝という国家を滅ぼすわけにはいかないのだ。
とはいえ、マスティギオスは弱気というわけではなかった。もし戦わねばならぬのなら、その両腕を振るって戦場に赴く。彼はそういう人間だった。
けれど、思うのだ。
もはや今は、人間同士が争っているような状況ではない。その間にも魔性は力を蓄える。人類と魔性との戦役は、もはや各国で始まっている。
であるというのに、ボルヴァートは都市国家群に戦争の矛先を向けた。ならば、他国から侵略されるのも致し方のない事だと、不思議とマスティギオスは素直に思えてしまった。
今は何としても、全面対立だけは避けねばならない。
ふと、廊下を歩く複数の足音が聞こえた。侍女と、カリア、後はフィアラートのものだろうか。いいや、もう一つ聞こえた。
軽く、つま先で地面を蹴りつけるような歩き方。聞いたことがある足音だ。
「起きられたか――」
唐突にマスティギオスが大正面の扉を見ると、皆がそちらに振りむいた。
一言、侍女が断りの言葉を漏らして、扉が開く。ぎぃ、と軋んだ音がした。
そこに、彼はいた。合議室が密かなざわめきに包まれる。
「――顔色が悪くなってないか、マスティギオス。まるで病人だ」
腰に魔剣と白剣を提げ、飄々と不真面目に肩を竦めて見せる彼。何時かみた所作と何一つ変わらない。
思わずマスティギオスは唇を上向かせて応えた。
「数週間も寝込んでいたそちらよりはマシだろう。随分と待った」
「マティアとフィロスの奴が来るんだろう。もう少し寝てりゃ良かったよ」
そう言って、彼は気易く合議室の席に腰を掛けた。
――大魔殺し。竜を殺した英雄、ルーギス。
その場の誰もが、息を呑んだ。どうしても眦が細まる。それは一種の恐れだった。
カリアとフィアラートを両脇に控えさせた姿は好色家のようにすら見えたし、ルーギスの振る舞いは随分と軽い。
けれども大魔ヴリリガントと戦争を行い、殺して見せたという背景はそんな実物を容易に塗りつぶした。
誰もが、一体彼はどのような人物なのだと無言の内に問うていた。推し量ろうというのではなく、どうすれば機嫌を損ねぬかと斟酌しているようだった。
そんな様子にマスティギオスは一人苦い笑みを零しながら、口を開く。
「話は聞いただろうが、今一度語ろう。ガーライスト及び紋章教の連合軍が此の首都に迫っている。そして我々には抵抗するだけの力も無く、君主すら定まっていない。もし戦うのであれば、破滅か降伏かしかないだろう」
数名が、マスティギオスの言葉に驚嘆して目を見開いたのが分かった。
何といっても、ルーギスも、カリアも他国の人間だ。そうも赤裸々に内情を話してしまうのはどうかという思いが心にはある。ただ老婆だけは、可笑しそうに口角を上げていた。
「ルーギス殿、見解を聞きたい。君から見て、聖女マティアと王女フィロスはどのような人物か」
「どのような」
マスティギオスの言葉を取って、一度ルーギスは繰り返した。頬杖を突き、鼻筋に指を当てて唇を閉じる。
誰もがその言葉に耳を立てようとしていた。ふと、空気すらが静寂に努めたように思える。
聖女と王女に最も近かった英雄の人物評だ。それは何者より正確であるに違いない。カリアとフィアラートもまた、じぃとルーギスの横顔を見つめていた。
一瞬、唇を歪めながらルーギスは応えた。
「そうだな……マティアは感情的な所もあるが、それでもずっと計算高いし頭も良い。必要なら戦争もするし、妥協もする、狼みたいな女だ。だがまぁ、その意図は分かる。反面、フィロスは何をするか分からない」
その言葉に、思わずマスティギオスは唾を呑んだ。
常人より遥かに奔放なルーギスをして、何をするか分からないと言わせしめる人物とはどのような者なのだろう。
だが、玉座に座る者とはそうであらねばならないのかもしれなかった。
「常識的かと思えば非常識的だし、信念でしか生きられないのかと思えば拉げても立ち上がる。ま、話半分に聞いてくれりゃあ良い。二人とも良い女さ。それだけは間違いない」
ルーギスのそんな言葉を聞いて、その場の者は彼と聖女、王女がどういう関係性であるのかを知った。
聖者、王者と語られる者を、女と評する者はこの世にいない。彼女らは忠誠か敬意、もしくは敵意をもって臨む相手であって、異性として相対する存在ではないからだ。
あるとすれば、それは男女の関係にある者だけ。
即ち、ルーギスと彼女らはそういう事なのだろう。
公に出来ない意味は子供にでも分かる。その場の誰もが押し黙って、その点には触れようとしなかった。マスティギオスさえでもだ。
「承知した。大いに参考になる。では踏まえて、ルーギス殿――」
改めて、マスティギオスが口を開こうとした時だった。先手を打って、銀髪を輝かせたカリアが唇を鳴らす。
「――待って頂きたい。その先の言葉は聞けない。彼は、使者にはならない」
カリアの言葉は、ガーライストの騎士が語る、簡潔な言葉遣いそのままだった。ただ要点だけを噛み砕くその声は、銀色の剣のようにすら思える。
合議室そのものに、緊張という名の振動が走った。ただマスティギオスだけが、カリアの瞳を見ていた。
「意味を伺いたいな、カリア殿」
「そのままの意味です。将軍ならお分かりでしょう」
銀と黒の視線が、その場で絡み合っていた。