第五百二十六話『戦後処理は難敵なれば』
ボルヴァート朝首都攻防戦。人類と魔軍との戦役から二週間が過ぎた。
大魔ヴリリガントの目覚め、毒物ジュネルバと歯車ラブールの跋扈により一度は失われた首都は、今再び人類の手中へと戻った。
とはいえ、それで全てが元通りというわけにはいかない。
首都の大部分は戦役により破損し復興の必要に迫られているし、多くの貴族魔術師や役人が処刑された事から、もはや首都は行政府としての機能を喪失している。
ジュネルバとキールの手により焼き払われた村落の復旧はおろか、その被害規模の正確な把握すらままならない状態だ。
それに加え、君主は魔性により処刑されたまま。幼き公子への地位の継承儀式すら済んでいない。
もはやボルヴァート朝は、国家としての体裁を保つことで精いっぱいの状態だった。やるべき事は幾らでもある。
「ルーギス殿はまだ起きられんか」
そのような状況においても、魔導将軍マスティギオスは一日に数度、口癖のようにそう問いかけた。彼の目の下には大きな隈が作られ、ろくに睡眠など取れていない事が見て取れる。
エイリーン=レイ=ラキアドールは、上官と同じく隈をありありと眼の下に浮かべながら言った。
「……はい。ええ、まだ眠ったままと、傍仕えの騎士から聞いていますわ」
問いかけられたエイリーンも、一瞬意識が飛んでいた。彼女は片手で瞼を軽く撫でて呼吸を整える。
「そうか。もし何事かあれば、すぐに連絡を頼む」
頼むというのは、これは命令ではなくマスティギオスの個人的依頼という意味だった。
エイリーンは幾度目か分からない言葉に頷きながら羊皮紙に目を通す。瞬間、インクがぽたりと落ちて、視界がぼやける。いい加減限界だった。もう何日も眠っていない。
本来あるべき行政官の数がまるで足りないのだ。もしかすると魔性どもは、これを狙って処刑を繰り返したのではとすら思う。
そんな状況だからこそ、本来軍人であるマスティギオスやエイリーンまで政治事に絡まされている。
こんな時ばかりは、一切政治に関する知識を持たないハインドがエイリーンは羨ましかった。
「閣下。継承式典の予定日は現状のままで進めますが、宜しいでしょうか」
「……構わぬ。本来はルーギス殿にも顔を出してもらいたいものだが、致し方ない。目覚める事を祈ろう」
継承式典。魔性を討ち払った事を宣言しそれを祝うものであり、公位の継承も併せて行うものだ。
本来であれば邪竜ヴリリガントを斬り殺した英雄もまたその場で顔を見せるはずだったが、眠ったままであるというのであれば仕方がない。
市民は、区切りを欲している。
魔性に首都を陥落されたあの日、権力が空白地帯となった今から、一つの区切りを迎えた明日を望んでいるのだ。その日程を遅らせれば、ますます混乱は加速する。
全ては終わり、また新しく輝かしい日々が始まるのだと伝えねばならない。
とはいえ、市民が竜を殺した英雄を望んでいるのも確かだった。その場に英雄がいないとなると、少しばかり面倒な事になる。
これは、体裁の話などではなく、政治の話だ。
――ルーギスなる英雄は、どの国家に属する者なのか。
紋章教の英雄という事にこそなっているが、それでも国家に仕えたという記録はない。ならば、公位継承の儀式に携わらせる事により、ボルヴァートに縁ある者としてしまえば良い。可能であるならば婚姻関係も取り付けたかった。
何もこれはエイリーンのような、マスティギオス派閥の者が勝手に考えているというわけではない。ボルヴァート朝に属する者の多くがそう思案している。
彼はボルヴァートにて大魔を討滅したのだ。ならば、ボルヴァートの救世主として祀り上げる事は十分に可能なはず。
エイリーンは眠気眼をこすりながら片手で部下を呼びつける。そして今一度、ルーギスの状況を確認するよう言って含めた。
「もし変化があったのならば、閣下と私……後はハインドにのみ連絡をするように。宜しいですわね」
◇◆◇◆
ベッドの中、暖かな感触に包まれながら唇を寂しく歪ませる。枕元や胸元を指で探したが、噛み煙草が見当たらなかった。
勘弁してくれ。どこかに捨てちまったんじゃあないだろうな。目覚めてから数時間が経ってようやく気付くのだから、俺も間が抜けていた。
だがまぁ聞くところによると、暫くの間魔人として活動していたというのだから、記憶の混濁が起こっても不思議はない。少しずつ思い出してはいるが、未だ記憶は不完全だ。
その中でふと、一つの事に思い当たる。
「……なぁ、カリア。思い出したんだが」
「何だ、貴様。思い出すような事が何かあったか?」
妙に軽い身体を起き上がらせて、座ったまま俺を見るカリアへ向けて言った。
「記憶違いだったら悪いんだが――お前、また俺を嵌めてないか?」
「ふむ……そうだな。貴様の記憶違いだ。思い出しなおせ」
言われて、一度眉間に指を置いて思考を歩き回らせる。
そうすると時系列が時折前後したり飛び飛びになっていたりするが、あのラブールに魔人にされていた頃の記憶が蘇ってきた。
振る舞いのどれもこれもが酷い有様だ。とはいえ、これも俺自身の一面と言われればそうなのだろうが。余りそう思いたくはない。
記憶の一つ、やはり引っかかるものがあった。
「いやカリアお前、何時から俺の女に――」
「――違うとでも? 貴様はどう思うフィアラート」
カリアはその鋭利な目つきをつりあげ、俺を押し黙らせるようにそう言った。その無暗な自信の溢れようと気高い立ち居振る舞いは間違いなくカリアその人なのだが。
少なくとも俺に彼女を手籠めにした覚えはない。断じてない。
カリアと共に、視線をベッドに腰かけたフィアラートへと移す。その美麗な黒髪が、ベッドに広がりながら揺蕩っていた。
彼女は眠そうにしていたが、欠伸混じりに口を開く。
「――あら、ルーギス。私との事も覚えてないの?」
本当に待ってくれ。
咄嗟に手で口元を隠し、両瞼を強く閉じる。喉が強烈な渇きを訴え、肺腑の辺りが絞られる痛みを覚えた。
――俺は一体、何をしでかした。本当に何かをしてしまったのだろうか。馬鹿な。
しかし正直を言えば、魔人と化していた頃の記憶が完全に残っているわけではない。むしろ一部分しか残っていないという方が正確だろう。
そしてあの時俺は、俺でなかった。
カリアやフィアラート、エルディスに対する敬意と憧憬を忘れてしまっていただろうし、かつての頃の記憶も手放していたはずだ。
であれば、俺でない俺が何事かをしでかしてしまったとしても、おかしな事はないのか。
背筋を大粒の冷や汗が辿っていく。呼気が熱くなっているのに気づいた。此れは、非常に不味いのではなかろうか。アリュエノに対して、何と言うのだ。
『――二人とも、何を言っているのかな? 僕のルーギスが何だって?』
そんな俺の意識を繋ぎ留めたのは、胸元から零れるエルディスの声だった。正確には、胸元の袋から零れる声、だが。
薄っすらとではあるが幻像すら俺の傍らに現れていた。眦をおおいにつり上げながら、碧眼がカリアとフィアラートを睨みつけている。
無論、エルディスが自力でガーライストから東方のボルヴァート朝まで幻影を飛ばしてきたというわけではない。
何でも、俺が首から下げている此の袋には、エルディスが自ら造り上げた、エルフという種族を示す欠片が入っているのだとか。
正直、余り意味は分かっていない。専門的な部分はフィアラートに任せきりだった。
ただこうして遠くからでも話せるようになったのは、俺がこの袋を持っているからであるらしい。
まぁどういった魔術や神秘にしろ、ガーライスト王都にいるはずのエルディスと、遠隔地にあって尚連絡が取れるのは楽で良い。
「エルディス、何時からルーギスが貴様のものになった、ええ?」
『違うとでもいうのかな、カリア。全く嫌になるね。人間というのは、すぐ誰かの目を盗んで悪事を働こうとする。ああ、安心して良いよルーギス。君の帰る場所は僕がしっかりと守っている。何時でも、今すぐにでも帰ってきてくれて良い』
エルディスはいつも通り凛々しい笑みを浮かべてそう語るが、その目つきだけは奇妙なまでに険しい。
何だろう。彼女らはこれほどまでに険悪な仲だっただろうか。俺は本当に何をしていたのだろう。
魔人であった頃の俺自身の記憶に思い悩みながら、軽く水を舌に含ませた頃合いだった。
その声は、駆け足と共に来た。
「――カリア様、フィアラート様。いらっしゃいますか!」
恐らくは部屋仕えになっている侍従の声だった。カリアが表情を歪めたまま何事かとそう返すと、彼女は一瞬怯えたような声を出しながらも、すぐに言葉を作った。
「ガーライスト、紋章教の連合軍が、此処首都に向けて進軍しております! 直ちにおいでください!」
瞼の裏に、聖女マティアと王女フィロスの姿が咄嗟に浮かぶ。思わず頬を歪めた。
何をしているのだ、彼女らは。一体、何のために。思わず胸中でそう呟いた。