第五百二十一話『死を知らず畏れを知らず』
ルーギスの原典を浴びた魔剣が、異様を誇るように紫電の輝きを放つ。己は此処にあり、此れこそが己だと叫びをあげている。
異様。そう、カリアからすれば全てが異様で異常だった。
汗を垂らし必死になりながら駆けつけた先でルーギスは、ただ一人ヴリリガントの眼前で佇んでいる。アガトスはその気配すら感じられない。
ルーギスの体躯には傷と血潮とが絡みつき、もはや決して離れないように見えた。
反面、ヴリリガントにも細やかな傷はあったがそれは決して致命でない。人間が、手先に切り傷を付けられた所で痛みはあれど死にはしないのと同じだ。
その光景は余りに絶望的な力の差異を直感させる。
数多の戦役を駆け抜けたカリアですら、胸が破裂しそうなほどの緊張と圧迫を感じる此の状況。
だというのにどうして、此の男と剣は、遥か上空を見下ろしているのか。どうしてその頬には、笑みが張り付いているのか。
「カリア。伏せた方がいいな。フィアラートがしでかした」
何のことかと問うまでも無かった。すぐにそれは、来た。
――大気そのものを根こそぎ奪い取る、轟音。
カリアが身を屈めると同時、ヴリリガントが大きく口を開いて咆哮を宙に叩きつける。巨大な黒曜の体躯が、その美しさを歪めるようにねじられていった。
暴れ狂うという言葉は、即ち此れを指すのだろう。
ルーギスを傍らにしながら、カリアは砕けた岩場の窪みに身体を預ける。剣を振るう事など出来るはずもなく、ただヴリリガントの巨体に踏み潰されぬようにするだけで精一杯だった。
先ほどまで欠片も全身を動かす素振りを見せなかったヴリリガントが、今はまるで縦横無尽とばかりに暴れ回っている。
銀髪をかきあげながらカリアが言う。苛立ちを覚えているのか、常より早口になっていた。
「これがフィアラートの仕業だと確証でもあるのか、貴様。奴の身体に血が行き渡っただけかもしれんぞ。そうなればもう手はつけられん」
「おいおい、アガトスと同じ事を言うんだなカリア――」
ルーギスはすぐ傍のカリアに視線をやり、あきれ果てたと言わんばかりに口を開く。
「だから、少しは仲間を信用しろよ。相手はフィアラートだ。ただ心臓に成り下がるような真似をするかよ。お前だってそうだカリア。今この時、此処に来た。仲間を信頼して正解だったろう?」
その台詞は貴様にだけは言われたくない。カリアは思わずそう零しそうになったが、今ばかりは唇を拉げさせるだけで終えさせた。
何せ、ルーギス本人の唇から、期待通りの働きをしたと褒め称えられたのだ。信頼して正解であったと。
胸底には充足したものが湧き出てくるし、腹の辺りが暖かい。知らず頬が緩みそうになった。耳が朱に染まっていく。
暫し、よもや見捨てられるのではないかと不安に思っていたものだが。やはりそのような事はなかった。
いや当然ではないかとカリアは思いなおす。己は彼の旅の始めから今の今まで共に在り続けた最も旧き仲なのだ。信頼されていないわけがない。共にあれないはずがない。そうに決まっているとも。
カリアは数度力強く頷いて、満足気に両眉を上げた。胸に溢れていた緊張や圧迫が押し流されていく。
「ヴリリガントの奴の心臓は潰れた。いや奪ったのか。奴がただの簒奪者ならこれで倒れてくれそうなもんなんだが」
ルーギスは首を傾け、音を鳴らしながらひとしきり暴れ狂ったヴリリガントを見ていた。
幾度も己を死に際まで追い詰めた化物を、 真紅の瞳がじぃと観察する。
実際のところ、ヴリリガントからは確かに総量としての魔力量が減ったように見えた。けれど、心臓を無くして尚死に様を見せる様子はない。奴には十分に死を降り注がせるだけの余力は残っている。
となれば、放っておくわけにもいかない。
「最期の止めが必要だな。カリア、お前が頼りだ。一つやってくれるか」
「――貴様は卑怯だな。そう言われれば私が断れん事を知っている。断ろうという気もないがな」
ルーギスは笑みを湛えて問いかけ、またカリアも頬をつりあげ言った。黒緋と紫電が、岩陰の中で重ね合わせられた。
◇◆◇◆
久方ぶりの痛覚が体躯に流れ落ちてくる。大魔ヴリリガントはその胸中を冷静に保ちながらも、ただ本能に預けるまま巨体を暴れさせていた。
それはそれで心地の良い事だ。そしてその間にも己に何が起こったのかを理解する。
出来上がっていたはずの心臓が、何者かに奪われた。すでに体内の魔力が枯れ始め、その渇きを訴えている。
それは本来十分に驚異的な事だった。魔性にとって、魔力は血液に等しい。其れが失われれば死と消滅は免れられない。
だが、ヴリリガントは至って平静のままだった。何せそれはかつて一度経験したものだ。それを超越し今己は此処にいる。
ならば、此れに己は殺せない。
虚無を象徴するヴリリガントにとって、死はもはや失われた概念だ。彼に始まりはあれど終わりはない。
ゆえに数多の竜も、巨人も、精霊も、人類英雄アルティウスさえも。ヴリリガントを殺しきる事は出来なかった。
そして此の竜は死なぬ限り、永遠に侵略と簒奪を繰り返す。有様はまさしく自然災害のそれ。
幾つもの文明がその顎の前に沈み、ブレスを浴びて零落した。其れは、今日も同じこと。
全身と、両翼に魔力は微かだが行きわたったのをヴリリガントは感じた。それだけで充分だった。後は、奪い尽くせばよい。魔力を呑み込み続ければ其れでよい。
暴れ回った巨体を一度地に伏せさせ、ヴリリガントは大翼を広げる。それだけで岩場が荒々しく弾き飛ばされた。
心地が良い。魔力が全身にある事の何と甘美な事か。ヴリリガントは地面に顔を近づけると同時、其れを見た。
「――堕ちろ。羽根のついた蜥蜴が」
眼前のそれは、小さき人のように見えた。だがヴリリガントにはすぐに分かった。彼女は、巨人だ。
次には、黒緋が美麗な線を描いて振り回されていた。ヴリリガントの巨大な双眸に黒緋の閃光が映り込む。
一見強大な魔術のように見えるが違う。
此れは不完全ながらにも振るわれる巨人王の槌。偉大な神話そのものだ。
かつて大地に君臨したその姿を、ヴリリガントは一瞬瞼の裏に描いた。
槌はまさしく破壊の権化。巨人王の象徴たる其れに、本来壊せぬものはない。大陸も、世界すらも範疇の内。
例え不完全であろうとも、不意打ちともなれば無傷では済まない代物だった。
瞬間、竜は翼で宙を叩いた。巨体からは信じられぬほどの機敏さが空間を歪めて行く。一瞬で空を舞うと、竜は口を開き巨人王の槌を迎え撃った。
――巨人王の破壊槌と、天城竜のブレスが中空で衝突する。
余りに幻想的な光景だった。黒と赤が破裂し、空に最後の輝きを纏わせる。太陽が何かを象徴するように、完全にその身を西空に落としていった。
それと同時の事だった。竜と巨人の喰らい合いは、刹那の内に決着がつく。
数秒にも満たぬ拮抗は崩れ去り、完全に破壊槌がブレスに弾き飛ばされた。余波を崩さぬまま、竜の咆哮がベフィムス山に雨となって降り注ぐ。
山は容易くその身をよじらし、巨大な穴を開けさせた。人間からは冗談のように見える光景が、全て現実のものだった。
人間の都市一つ容易く飲み下せるだけの脅威を、此の竜は有している。
死を知らず、畏れを知らず、終わる事を知らない竜が完全にその瞼を開いてしまっていた。
此処に、世界は一歩終わりへと近づいたと言って過言はない。
だから此れは殺さねばならないだろうと、彼は言った。
「――よう、ヴリリガント。安心しろよ。お前は今日、此処で殺してやる」
天城竜の首元から、全てを見下ろすように英雄は口を開いた。




