第五百二十話『永遠に回る歯車』
絶え間なく続く地平と、永遠に続く闘争。その為に回り続ける歯車。竜の心臓たるフィアラート=ラ=ボルゴグラードには其れが見えていた。
それこそが、大魔ヴリリガントの見ゆる光景だ。
部分的に此の竜と同一化を遂げたフィアラートは、彼の本質を直感的に理解した。
ヴリリガントの胸中に灯っているものは、焦がれそうな憎悪でも、熱吐く憤激でもなく。ただただ、征服という概念のみ。
ああ、黒曜竜なる存在は、征服と滅びしか知らないのだ。きっと彼の竜は、眼前に文明がある限りそれを食い散らす。支配や統治という言葉は希薄、征服のみが全て。
暇を持たぬ破滅こそがヴリリガントの本質だ。空の果てにあるものを、地平の先にあるものを、彼の竜は牙を持って噛み砕く。
彼はきっと永遠に、其れを繰り返す。滅びを与えるのが、己の存在意義だとでも言わんばかり。
いいやきっと、ヴリリガントはそういう存在なのだ。そこに正義はなく、されど悪すらない。ただ永遠の闘争と枯れゆく滅びだけがあった。
それこそまるで、世界を一新するための歯車のように。
フィアラートはその意志の中枢にあって、ぼんやりと薄らいだ思考を巡らせる。
自然と、己が永遠の歯車の中で揺蕩っているのが分かった。心地よい湯船に浸かっている気分ですらある。
今、有限に過ぎない己が、無限の一部に成らんとしている。瞼が重い。呼吸をするのすら億劫だ。胸の奥がじんわりと温かい。
この緩やかな暗闇の中で眠ってしまえば、己はそのまま永遠になれるだろう。
余りに突飛な発想だったが、やけに現実的な実感に溢れていた。それは夢であるのか、現実であるのか。フィアラートには分からない。
――だが、このまま眠ってしまうのも悪くはない。そうすれば何も考えなくて良い。
此の思いが、何度もフィアラートの脳内には浮かび上がっていた。それはとても甘美で、美しく素晴らしい。
けれど。ああ、けれど。
声が頭蓋の内で木霊する。それがどうしても脳裏を離れて行かない。
――誰もが踏みなれた道を行き、諦観と惰性に塗れた日々を送るのはもう、御免だ。どう思う共犯者殿。
それに連なる数々の声と言葉。とても聞きなれた声。忘れようとしても忘れられない声だ。重くなった瞼がまた僅かに瞬き、開こうと力が籠められる。
ずっとこれの繰り返しだった。大人しく全てを放り捨ててしまいたい、しかしそれを許さない己が何処かにいる。
どうすれば良い。そんな問答が、幾度も続けられた先の事だった。
暖かな暗闇の中、刺々しい極光がフィアラートと周囲を照らす。フィアラートは思わず瞼を細めた。その光に欠片も触れていたくない。可能な限り離れてしまいたかった。
今ようやく己は永遠と同一になろうとしているのに、此の光はそれを阻まんとしている。嫌悪の表情がフィアラートの顔に浮かび上がり、背筋が熱を持った。
無音であった地平の中に、声が響く。
「――あらあらあら。人間長く生きて数十年。自分を折り曲げて生きるのは嫌だなんて言っていた癖に。随分と我儘で傲慢になったものねフィアラート。いいと思うわ。私、両方とも大好きだし。むしろ美徳とすら思うもの。あんたは変に控えめな所があるから、是非そうすべきね。けれど、私に大口叩いておいてこの醜態は大減点よ」
眉間に皺が寄ったのが分かる。これも、聞きなれた声だ。だが、今聞きたくはなかった。
「そういう点、あいつもあんたも同じよね。いいえ、人間がそうってだけ? となるとやっぱり人間ってあんまり長生きさせちゃ駄目な気がするわ。言うだけ言って何もしない、なんてのは最悪の類でしょう。フィアラート、あんたはどう思うわけ」
煩い。何の話か分からない。もう何も言うな。思考が乱れ、脳内を言葉が飛び交う。己が何を考えているのか、何を感じているのかすらフィアラートは理解できない。ただ反発の感情だけが入り乱れていた。
「フィアラート――起きなさい。ルーギスも待っているわ」
手が、伸ばされたのをフィアラートは知覚した。
此れを拒絶しなくてはならないと、本能が警鐘を鳴らしている。此れの手を取ってはならない。それは永遠からの乖離を意味する。
このまま眠ってしまうのが、最善だ。耳元で永遠がそう囁いた。
そんな本能とは裏腹に、手に何かしらの感触をフィアラートは覚えていた。柔らかく温かい。まるで包み込むようなそれ。
いつの間にかフィアラートは手を掴みこんでいた。一切の思考がそこにはなかった。
身体が浮き上がる。思わず瞳が緩んだ。今フィアラートは己が、永遠なる存在から離別していくのを感じていた。魔との同一化。それは魔術師の究極といっても良い選択だというのに。
だが、フィアラートは次にはその全てを捨て去った。それ以外の道はないと知っている。それこそが最も素晴らしい。
――瞼が、開いた。黒髪が視界を過ぎる。髪の毛を思わずかき上げた。
「おはようフィアラート。起こし方が荒っぽかったかしら。悪く思わないでね。私魔人だから、人を救うように出来てはいないの。それとも、永遠に心臓になってる方が良かったかしら。それならもう一度そうしてあげてもいいわよ」
堂々と頬に笑みを浮かべて語るアガトスが、視界の先にあった。フィアラートは未だ定まらぬ視線で、周囲を探る。
光だけが其処にはあった。眼を焼きそうなほどに眩い輝き。かといって心地悪くはない。先ほど刺々しいと思われたのが嘘のようだ。
滑らかに唇を跳ねさせてフィアラートは言った。言葉にはどこか揚々という雰囲気があった。
「――そんなわけないじゃない。ただの永遠になんて何の価値もないわ。ありがとうアガトス。ルーギスは、いないみたいね」
あからさまに唇を尖らせ、拗ねたような素振りを見せるフィアラートに、アガトスは思わず苦笑してみせた。
咄嗟にフィアラートもばつが悪そうな表情を浮かべつつ、視線を逸らす。流石に今のはどうかと、我が事ながら思ってしまった。
心配事なら、己の身体の事など幾らでもあるだろうに。
「あいつなら外よ。馬鹿らしい事にヴリリガントの奴と斬り結んでるわ。真面にやればそのまま死ぬでしょうね。あいつを助けたいでしょう、フィアラート。私の言葉を聞く気はある?」
「焦らさないで言って良いわよ。今はね、誰の手でも取りたい気分なの。魔人だろうと、何だろうと」
視線を直してそう言うフィアラートの黒曜の瞳を見て、アガトスは真正面から頬を緩めた。
その体躯はフィアラートが以前見たよりも随分と疲弊しているようではあったが、自信を溢れさせた素振りは相変わらずだ。
アガトスは背筋を伸ばしてから、言った。
「じゃあ――全部奪いましょう、何もかもをよ」
奪う。思わずそう問い返したフィアラートにアガトスは、魔性の笑みを見せて言った。
「奪う事だけが取り得の天城竜から、今度は全てを奪い返してやろうってわけ。傑作でしょうフィアラート。私は本気よ。人間と違うわ。言った事は全てやる、至高の我儘と最上級の傲慢が私だもの。欲しいものは必ず手にするの、私」
それはそれは嬉しそうに、憎々しそうにアガトスは口を開いた。喉を鳴らし、その頬が艶っぽく朱を帯びる。それこそ同性のフィアラートから見ても魅力的だと感じさせた。
フィアラートは、応じて口を開く。
「ええ。私も、同じ気分よアガトス。欲しいものは、必ず手に入れる。最期にその隣にいられれば、それでいいの」
さぁ、何をしましょうか。フィアラートもまた同じように感情を声に乗せてそう言った。