第五百十五話『黄昏の戦役』
銀眼が動揺に痺れ、頭髪が傾く。宙に垂れ下がった銀髪が、カリアの頬に影を落としていた。彼女の視線はただ、破壊を待つばかりの歯車に向けられている。
「すでに遅いという言葉は、臆病者の言葉だ。貴様が何を言っているのか知らんが、下らぬ言葉遊びだな」
そう言いながらも、カリアはラブールから視線を外せなかった。いやに熱い吐息が喉をせりあがってくる。
反面、ラブールはもはや肉体の死を待つ身でありながら、奇妙な落ち着きすら見せていた。琥珀色の瞳が優し気に緩む。
「ふ、ふ……臆病でない者など、いませんよ……」
己が微かな笑いをあげた事に、ラブールはもう驚かなかった。それを自然なものとして受け止めていた。
心臓の辺りに宿る僅かな火照りを何と呼ぶのか、ラブールはすでに知っている。唇が波打った。
「彼は……視た。だから、今の彼がある……。皮肉です、ね。カリア」
そう、かつてルーギスは己が運命の一つに出会った。だからこそ、今の彼がある。そしてそんな彼の所為で、己も今一つ感情を覚えてしまった。此れが皮肉と言わずして何というのだ。
ラブールは笑った。嘲笑でも、自嘲でもなく、高らかに。
カリアは怪訝に瞳を歪めながら、黒緋をぐいと振り上げる。それが、自分の死という運命なのだろうとラブールは知った。
構わない。もはや己の歯車は回転を始めた。もはや誰にも留められない。其れは彼の中にも有るのだから。
ヴリリガントの復活も、彼の存在も、全ては歯車の動くままにその最後を迎える。
「忠告を、しましょう……カリア……バードニック」
もはやカリアが捨てた名を、ラブールという名の機械人形は語った。その表情は心からの安堵と慈愛の笑みに満ちている。この世界全てを愛するように、ラブールは言った。
「彼を救えるのは……人間だけ。魔性は……誰かを救うように出来ていない……運命なの、です。即時、諦め、なさい」
黒緋色が、視界一杯に広がるのがラブールには分かった。カリアの表情は見えなかった。
だが今のラブールには、カリアがどんな顔をしているのか想像がついた。きっと彼女は、唇を噛みながら己を殺すのだろう。
一つだけになった瞼を、ラブールは閉じた。一秒もない刹那の最中、思う。
己は演劇を上手く回すための機構に過ぎない。役割は十分に果たした。これ以上の事はない。
けれども、耳をヴリリガントの咆哮が貫くと同時、瞼の裏に彼の姿を思い浮かんだ。感情に揺られるまま、ラブールは歯車に一瞬だけ指を掛けた。
――感情とは余りに愛おしく、狂おしい。恨みますよ、オウフル。
かつて人間であり、そうして同族であった相手に呟いた瞬間、ラブールの頭蓋は破砕した。歯車を冠した魔人の体躯は、完膚なきまでに巨人に破壊されていた。
銀髪の巨人は、勝者であるにも関わらず、悲痛に頬をひきつらせ、唇を噛みながら眼を歪めた。
「……馬鹿め。大馬鹿者め。運命なぞ、一番奴が嫌いな言葉だ。馬鹿め」
吐き出すように、零れ堕とすようにカリアは言った。それは自身に言い聞かせるようですらあった。
◇◆◇◆
神話とは此れを言うのだろうか。頭の中でそんな下らない事を思いながら、奥歯を噛んだ。それだけで血が滲み出る。
堪らないな。眼前には見上げるほど巨大な魔の竜。此方はただ剣一本に宝石魔人の援軍のみ。彼我の戦力差は圧倒的だ。
咆哮が掠っただけの左脇腹は面白いほどに血を垂れ流しているし、左目が半分ほど見えない。もはや痛みを感じる暇もなく、痺れだけが起こっていた。
しかしこれでも幸運な方だ。アガトスの宝石が無かったら、今頃全身吹きとんでいただろう。
「――で、まだ生きてる? 生きてるわよね? 私にあれだけ大口叩いたんだもの。死んでたら犬の餌にしてやる所だわ本当。それでどう。そろそろ虫の息って所かしら。勿論、ヴリリガントがじゃなくて私達がだけど」
アガトスの声がうるさく耳の中に響く。
幾つかの宝石を通して、此方に声を届けているのだろう。数度ぼやけた所があったが、要は俺に愚痴をぶつけたかっただけらしい。
何だ、まだ案外余裕があるな。
魔剣を両手で握り込み、視線を細める。遠く、本当の太陽がその身を山間にゆだねようとしているのが見えた。黄昏が大地を覆い尽くしている。
「そういうなよアガトス。やりたい事をそのまま出来るのは神様だけだ。俺達は出来る事をするしかない」
そういう意味で言うのならば、本来魔人としてはヴリリガントに従属するか、もしくは撤退すべきなのだろう。
魔人は決して、大魔に勝利し得ない。それこそが摂理であり通常だ。
――だが、摂理が絶対であるとするならば、彼らが成し遂げた事は何と呼ぶのだ。
マスティギオスは、兵は、人間達は。災害たる魔人に立ち向かい、そして勝利した。俺はアレを勝利と断ずる。
彼らは自らの英断と勇敢さでもって、災害たる魔人を自らの敵とした。それがどれほどに得難く偉大な事か。人間はもはや、魔性の家畜ではなくなった。
次は、俺が彼らに習わなければならない。それに、彼らは俺を英雄と呼んだ。ならば俺は彼らの英雄たるべきだ。俺にはその義務がある。
足首を駆動させ、腰を回し、手首を放って魔剣を振り降ろす。瞬間、距離が音も無く命を奪われ、そのままヴリリガントの肉を喰らった。
心臓のある位置を避けながら、その周囲のみを斬獲する。数度の斬撃。確かな手ごたえと、血肉を抉った実感があった。紛れもなく、奴の内臓は傷を負っている。
だが、報復は直後に来た。竜に仇名すとは、そういう事だった。
――音などとはもはや言えぬ轟音。同時、迫りくるは圧倒的な存在感。
それは極大の杭だった。ヴリリガントの爪は岩肌を粉ほどに砕き、宙を抉りぬく。中空は幾度も形を奪われる事に耐えかね嗚咽をあげた。
視界の端で、アガトスの宝石が熱線の雨を降らせているのが見えた。ヴリリガントの瞳に、喉に、その逆鱗に。
しかしどれも僅かばかりにしか意味を成さない。多少の傷を与える事があっても、それは決して致命傷になどならなかった。
空中の宝石を蹴りつけ、轟音から逃れるように身を捩る。だが、もはや其れも通じないほどに、狙いは的確だった。
腹を杭が直撃する。空を揺らがす衝撃だけで、俺の骨という骨が砕け散った気配があった。爪の一本は、内臓の大部分を抉りぬくのに十分な大きさだ。
そのまま地面に叩きつけられるまでの一瞬が、永遠にすら感じられた。呼吸が出来ず、血が巡らず、魔力が途切れる。口から噴水みたいに体液が吐き出されるのが見えた。
腹に穴が開いたのは二度目くらいか。以前は何処で開けたんだったか。
「……酷いもの、無様ね。生きてる、それとも死んでる? どうせならまだ生きていてくれた方が嬉しいんだけど。何とかいったら? それとも余りの醜態に口を利く元気すらないってわけ」
アガトスの声が掠れて聞こえるのは、俺の耳が駄目になったのか。それともアガトスも限界が近いのか。
息を吸い込む。指先から眼に至る全てに激痛が走った。
「――竜ってのは、凄まじいな、アガトス」
それだけを、言った。
竜。ただ偉大であり、ただ純然たる略奪者。体躯そのものが神話の武具で、奴の原典だ。奴は何もかもを奪い去る。こうしている間にも、魔力が吸い上げられていくのを感じた。
だから、接近戦はすべきでは無かった。それは死期を早めるに近しい。
呼吸を止め、両手に吸い付いて離れない魔剣へ神経を通す。そしてそのまま、呼吸もなくヴリリガントの爪へと突き立てた。
全身が軋みを上げ、背骨が絶叫を響かせる。俺の身体に突き刺さった爪を刺激してやってるんだから当然の事だった。
だが、このまま死ぬよりはずっと良い。
爪を斬り捨てた瞬間、アガトスの宝石が俺を浚う。
瞬間、重厚な音が鳴る。先ほどまで俺がいた場所は、そのままヴリリガントの巨体に潰され更地になっていた。
「アガトス――おい、アガトス。聞こえてるか宝石女」
「聞こえてるわよ失礼ね。ああいえ、もしかして遺言とかかしら。そういうしみったれたの私聞きたくないわ。どうせなら希望に満ちた言葉の方がいいもの。泣き言とか、愚痴とかそういうの聞きたくない気分なの。私が言うのは良いけど」
相変わらず、自分勝手な奴だった。昔にもこんな言葉を聞いた気がした。
頬を歪ませ、つり上げながら言った。
「――今分かった。接近戦をする。それしか勝ち目がない。援護しろ、目いっぱいだ」
「良かった。イカれてるのは頭だけみたいね。元からだから安心だわ。此処で撤退だとか言い出したら死を覚悟したんだけど」
腹の爪を無理やり引き抜く。もはや内臓は無茶苦茶で、血も肉も俺から零れ落ちて行く。それでも生きているのは、俺がもはや人ではない証左だろう。
魔力だけが、俺を支えている。其れが失われれば、当然のように死ぬ。だというのに、あの竜相手に接近戦をしなければならない。最低最悪だ。
何、ならいつも通りじゃあないか。笑みを浮かべながら言った。
「冗談を言えよ。俺は何時だって正常さ。勝てる勝負から逃げる方が狂ってる。第一、俺の敵は正義を語る奴だけだ。あいつじゃあない」
アガトスはそれに答えなかった。ただ魔剣だけが、健気に俺の手中で刃を震わせていた。
何時も本作をお読み頂き誠にありがとうございます。
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さて本作のコミカライズの第二巻なのですが、6月25日に発売がされるようです。
残念ながらこちらが最終巻となりますが、もしよろしければ、お手に取って頂ければこれ以上の事はありません。
何卒、よろしくお願い致します。