第五百九話『絡み合う魔』
其れはただ存在するだけで、一個の小山のように見えた。
陽光を受けて美麗な反射を残す黒曜が、その山を彩っている。時にうねり、時に呼気を放つ山は、まるで生きているようだった。
そう、生きている。今その狂暴な瞳を炯々と光らせたまま、じぃと動かないでいるのは、巨大な体内に魔力が循環するのを待ちわびているだけだ。
心臓がどくりどくりと音を立てる度、魔力が全身を行きわたる。周囲の魔力がますます密度を増していった。
もう少しもすれば、あれはかつての姿を取り戻すだろう。そして再び大陸の覇権を我がものにせんと咆哮をあげ、魔性共を統括するに違いあるまい。赤銅竜シャドラプトはその光景が瞼に浮かぶようだった。
大魔。天城巨獣。竜の王にして三神の一柱、ヴリリガント。
遥か上空にありながら、両翼の感触が固くなる。シャドラプトの緩んだ表情が、この時ばかりは引き締まった。遠目とはいえ、今再びアレの姿を垣間見る事になるとは思っていもいなかった。
「――ここがあいつの領域の一番外側じゃないか。落とすなら此処からなのだな」
山が見下ろせる高度。人間ならば此処から落ちれば当然死ぬ。もはや自殺行為という言葉すら生ぬるいだろう。魔性ですら大抵の者は命を奪われる。
けれど、シャドラプトに抱きかかえられた魔人は何時もの調子で言った。
「十分だとも。ただ落ちるだけであいつの所に着くんだ。楽でいいなぁおい」
少し楽し気な様子すら見せて魔人ルーギスは頬をつりあげる。
数分後、いや数秒後にだって命を失っているかもしれない時に、よく笑えるものだ。やはり、正気ではない。だからこそヴリリガントに立ち向かえるのだろうが。
シャドラプトは胸から零れ落ちてきた言葉をそのまま口に乗せて言った。
「巨大な竜に自ら立ち向かう蟻がいればそれはそのまま愚者なのだな。貴はどうして笑える? 死は何時だって惨めだ」
己が何を言っているのか、シャドラプトもよく分かっていなかった。別段ルーギスを押しとどめる意味はないのだが。
だが、こうも不可解な存在を前にすると、どうしても疑問の一つや二つは投げかけてやりたくなる。ルーギスの生き方は、シャドラプトとは真反対だ。もはや思想の違いなどというものではなく、魂が掛け離れた所にあるに違いなかった。
だからこそ、その死生観に多少の興味は出る。ルーギスは一瞬言葉を練ってから言った。
「そうだ、死は惨めだ。だが何時かは必ず足元に縋りついてくるだろう。なら、盛大に歓迎してやるくらいの生き方であるべきだ、そうだろう」
シャドラプトを見上げたその瞳に虚偽は無かった。強がりでも何でもなく、本当に、心の芯からこの男はそう言っている。そこには虚飾も虚栄も何もない。
感想はただ一つ。彼は人間である時もどうかしていたが、魔人になっても尚気を逸している。短命の種といえど、彼のように考え、そして実際に行動する者は極僅かであるに違いない。
だが、まぁ。英雄と呼ばれるような存在は何時もそうだった。そう思い、シャドラプトは抱きかかえた身体を両手から離す。
途端、ルーギスの体が一瞬ふわりと浮かんだかと思うと、そのまま重力に引き下ろされた。
「――見てろよシャド。食いつくようにな」
ルーギスは本当に、シャドラプトにそれ以上の事を求めなかった。当然のように、魔剣を肩に据え置き――墜落を開始する。
山を越す高度から、頬を斬らせて彼は落ちた。シャドラプトはそれを見ながら思わず呟いた。
「――ま。名前くらいは憶えててやるじゃないか」
大きな竜の翼が、返事をするように風を斬って瞬いた。視界の先に居る大魔が魔人に敗北を喫するなどとは、欠片も思っていなかった。
◇◆◇◆
遥か上空からの墜落は、気を抜けば精神を逸してしまいそうになるだけの衝撃を有する。風と重力が与える圧力は手足を絡めとり、水中にあるより尚性質が悪い。
好き勝手に動くような真似は、羽根もつ種族でもない限り出来ないだろう。空は未だ人間の領域ではない。
空に放り出された人間が出来る事と言えば、ただもがき苦しんで地に叩きつけられるだけの事。
だが、魔人という存在だけはこの大陸の何処にあっても変わらなかった。何せ彼らはもはや災害であって、生物ではないのだから。
中空にありながら、ルーギスは風圧を斬り破って魔剣を振るう。魔剣は吸い付くようにルーギスの両手から離れなかったし、そしてその意志が望むままに軌道を描いた。
それがどれほどに暴力的で、どれほどに無茶苦茶な軌道であっても。魔剣は其れを肯定し、其れを成すための理論を築く。まるでそれこそが己の役目だとでも言うように。
「おお――お出迎えだな」
風を全身で受け止め、口内でかみ砕きながらルーギスは呟く。魔剣が軽く頷くように跳ねた。
黒曜の竜は未だ目覚めたのみ。全身を動かすだけの魔力は足りていない。
だが、それを守護するための従者はすでにそこに控えていた。
琥珀色の瞳に、妖艶な造形の人形。両足を刃そのものの魔脚に変貌させながら、歯車ラブールはそこにいた。
さも上空からの刺客を予期していたとでも言わんばかり。その唇が僅かに動いたのがルーギスには見えた。何時もの口調で何事かを話しているのだろう。
ラブールの態勢は万全で、此方を迎撃する準備は整っていた。落下する物体を撃ち落とす事など、彼女には児戯に等しい。
だがルーギスにとって、彼女の存在はもはや視野に入らない。斬り落とすべきは彼女ではなく、彼女が仕える者。それは断じて変わらない。
地面は遥か彼方。大魔もラブールも未だ遠目にしか見えない最中、ルーギスは両手に尽力を込めて魔剣を握り込む。毒々しい色合いが呼応して蠢動した。紫電が魔力を漏れ出させて線を描く。
音は無かった。ただ当然の如く、魔剣が断頭台の如く振るわれた。風が自ら体躯を裂き、その通り道を作っていく。
ラブールの瞳が見開いていた。
――刹那、閃光が散った。魔剣が中空を噛み散らし、血肉を吐き出す。
同時、大魔ヴリリガントの巨躯が、嗚咽をあげるように戦いた。その鱗には一切の傷はなく、美麗な姿に歪む所はない。
だが歯車ラブールは理解をしていた。その全身に注ぎ込まれ始めたはずの魔力に、僅かな罅がついている。何処ぞに傷を負った証だ。では、何処に。
簡単な事だった。アレは強固な外殻には触れず、距離を殺し内部から大魔に傷を付けたのだ。
ラブールはその魔技に見覚えがあった。距離を殺し、視界に入る全てを嬲り殺して見せた魔人がかつていた。
――ラブールは全てを理解した。そして判断する。この事態は非常によろしくない。
魔脚が折り曲げられると同時、ラブールの唇から吐息が漏れる。今ここで、あの魔人を断ち切らねばならない事に一抹の未練があった。最も、それを未練と呼ぶことすら彼女は知らなかった。
一瞬の呼吸の後、魔脚が地面を残酷に穿ち削り、宙を飛ぶ。まるで羽根持つ種族であるかのように空を駆け、敵の心臓を抉り取らんと魔脚が伸ばされる。ラブールそのものが、放たれた鏃そのものだった。
そうして、魔の剣と脚が交差する。火花が宙を照らし、落下するまでの限られた一瞬を切り取っていた。
その数秒にも満たぬ僅かな間。彼らは確かに言葉を告げた。
「魔人ルーギス。これまでの貴方の協力に感謝をします。即時、貴方の撤退を望みましょう――」
「――魔人ラブール。分かってるだろう、今頷くならこんなとこにいやしないのさ」
魔人と魔人が互いに噛み合い、互いを削り合う。大魔ヴリリガントの咆哮が、すぐ傍に迫っていた。