第五百五話『竜が逃走路』
マスティギオスとドーハスーラ、人と獣の両名が命を削りながら魔人と相対する中。赤銅竜シャドラプトはその様子を遠目に見つつ、後方にあって囁いた。
「ジュネルバはもう十分に無理をしているじゃないか。なら、此処は引いて様子を見るのが一番なのだな。貴も、様子を見たいから人間に相手をさせているんじゃないのか?」
シャドラプトはルーギスの両肩に手を置いて口を動かす。実質的に彼がどう考えているのか、などというのは当然彼女にも分からなかったが、予測はついた。
何せ彼は今や魔人。ならばその思考は魔性に寄るはず。
人類に戦わせるのは彼らの尊厳の為と言いつつも、そこには利己主義的な打算が含まれていてもおかしくはない。大魔ヴリリガントに対しては服従か逃走かしかないという辺り、賢明な引き際も心得ているはずだ。
ならば、思考回路は己とそう変わらないはずとシャドラプトは思う。
もしもルーギスを随伴者に引き込めれば、逃走経路も楽に確保が出来る。どう言っても、原典を有した魔人は魔性にとってみても凶悪な存在だ。彼らは一個体で一つの勢力に等しい。
己は運が良い。シャドラプトはそう感じざるを得なかった。大魔と魔人の戦役に巻き込まれそうにはなったものの、今目の前にその一つが存在し、しかも己の手中に出来るかもしれない。
シャドラプトは逸る心をぎゅぅと抑え込み、ルーギスの言葉を待った。相変わらず肘を突いたまま当然という風に彼は言った。
「――そうだな。確かにあの鳥頭までは相手にしてられん。マスティギオスの奴が殺してくれる方が良いとは思ってる」
シャドラプトは肩に食い込ませる指に力を込めた。やはり彼は人類を信じつつも、自己打算的な面も有している。今はその狭間で揺れているのだろう。ならば、上手くやればこちらに引き込める。
次の言葉をシャドラプトがほくそ笑んだ唇で紡ごうとする所で、ルーギスは言った。
「流石に、鳥頭の首を掻き切って、次はラブール。最後にヴリリガントを調理しろと言われれば、俺も堪える。それに此れは、あいつらの戦いだからな」
「ん……え? ヴリリガントと……?」
整った唇から、思わず惚けた声が出る。一瞬、ルーギスの言葉をシャドラプトは受け止めきれなかった。想定していたものと、随分と違う言葉だ。
どうして今、ジュネルバではなく歯車や大魔の話が出てくるのだ。それに後者に関しては、戦うなどと一言も言ってなかったではないか。
言葉もなく眼を丸くするシャドラプトに、ルーギスはおかしそうに頬をつりあげて言った。
「何だよ。最初から勝てれば何とかするって言ったろ。俺は戦わねぇなんて一言も言った覚えはない。負けるといった事もな」
詰まりは、ヴリリガントと戦いはすると。その上で勝てなければ方策を考えるというわけか。
駄目だ、逃げよう。この時点でようやくシャドラプトは己の認識誤りに気づいた。
この眼前の魔人は、元々の人間の性質を受け継いで何処かおかしいままだ。
本来、大魔に抗おうなんて魔人は早々いない。騎士が王に仕えるように、彼らはある種大魔に対しては従順だ。心の中でどう思っているかは別だが、魔人は大魔に敵わないものなのだから致し方ない。
それをこの魔人は、何を根拠にか抗おうというらしい。馬鹿々々しい事だ。そんなもの死しか結果は待っていないだろうに。
重くなったため息が思わずシャドラプトの口内から吐き出される。こんなのに庇護を求めた己が間違っていたのだ。そう思い、踵を返そうとした瞬間。
シャドラプトの肩をルーギスの指が掴み込んだ。ぞくりとした感触が彼女の背筋をくるりとなぞる。それほど強くない力ではあったのだが、どうしたわけか酷い怯えを胸中に感じた。
「それともう一つ違う点があるな。相手が無理をしてるのなら様子見するんじゃあない――胸倉を掴んで引きずり倒すんだよ。シャド、お前は飛べたよな?」
不味い、目をつけられた。
シャドラプトは唾を呑む。どうする、逃げるか。いやしかし今背を見せるのはまずかった。
此の男の魔剣は己を殺せる上、どうしたわけか距離すらも殺せる。先ほど遥か上空にいた魔鳥を斬り殺していたのをシャドラプトは見ていた。
このまま鳥にでも変化して真っすぐに逃げれば間違いなく切り刻まれるだろう。かと言って、この男と共にいれば命がいくらあっても足りないのはもう分かった。
――ならば騙した上で逃げるしかない。
頬を震えさせて、視線をうろちょろとさせながら、シャドラプトはルーギスの方を向いた。
◇◆◇◆
鳥へと姿を変えた赤銅竜が宙を駆る。あからさまに熱を帯びた陽光が羽根を包み込んで今にも溶け落ちてしまいそうだった。
正直欠片も近づきたくはなかったが、今無理にあの男に逆らう事もシャドラプトは御免だ。無暗に敵は作らない主義だった。
ルーギスがシャドラプトに告げたのは、この太陽が実体があるか否かを確認しろとの事。
魔性が何かしらの物体を顕現させるのにも、おおよそ二つの術がある。
一つは実際にそれを作り出してしまう事。エルフ達の祖先なぞは種から未来に成長しうる木々を作り上げてみせたし、鉱物から発生した魔族には金や銀を生み出せるものもいる。
もう一つは、幻想としてそれを作り上げる事だ。太陽という一つの概念に対し、その象徴たる灼熱や豊穣など、一部の力のみを抽出しより強靭なものとして顕現させる。
前者は実物である分その存在が強固だが、実物以上にはならない。反面後者は象徴を取り出す分実物以上の効能を発揮しうるが、長時間は持たぬ脆さがある。
シャドラプトが身を僅かに焦がされながらも見るに――此の疑似太陽は後者だ。だが、おかしな事に魔力を吸い込みすぎて実体を持ち始めている。
もしこれが実体を持ってしまえば、この都市一つでは済まないだろう。引力と本来の熱を有し、国家そのものが蹂躙されかねない。
冷静にシャドラプトは一つを察した。やはり、此れを作り上げる為に尽力したのは歯車ラブールに違いあるまい。こんなものを作り上げんとするのは、あの種族だけだ。ジュネルバとてその点の理性は働く。
機械種族共は何時も自分の理屈のみで動き、そして危険を齎すというのがシャドラプトの認識だった。
だからこそかつてアルティアが全盛を極めた際には、その殆どが破壊され失わされたのだ。まぁ、彼女にとってはオウフルが絡んでいたからこそなのだろうが。
おおよそ、ルーギスから告げられた目的は終えた。そのままシャドラプトは疑似太陽をぐるりと回り、ルーギスの死角に入る。流石の彼も此処までは見通せまい。
さて、逃げよう。
シャドラプトは羽根を大きく伸ばして風を受ける。揚力を得てそのままに浮き上がった。流石にこれ以上は関わるのは命を失いかねない。何時だって引き際が大事なのだ。
ルーギスに言われたのは太陽が実体か幻想かを突き止める事のみ。突き止めたならもう好きにして構わないだろう。
そして羽根を掲げ、飛行態勢に入ったならばシャドラプトに追いつける者はもういない。本業の鳥であっても、その速度には敵わなかった。
当然の事で、生物としての格が違う。竜の強固な力が込められたその体躯に追いつけるものは、ただ一体。
――鳥の王の羽根のみだ。
「――夢にまで見たぞ。シャドラプトォッ!」
シャドラプトが離脱態勢に入った瞬間に、其の鉤爪が羽根を掴んだ。砂に絡みつかれた皮膚を斬り落とし、血を吐き出しながら、魔人は其処にいた。
「――う、ぁ……とんだ悪夢じゃないかぁっ!?」
魔人と竜。二頭の魔性はそのまま、疑似太陽の中へと消えて行く。正確には、ジュネルバが無理やりシャドラプトを己の領域に押し込んだという方が正しい。
まさしくそこはジュネルバの根源そのものであり、彼の為に作り上げられた極小世界。原典の一。二体の魔が、そのまま呑み込まれていった。
◇◆◇◆
人も魔も、その光景を見上げていた。魔人ジュネルバが、鋭く高い声をあげながら疑似太陽に飲まれていく姿を。其れが何を意味するのか、此れから何が起きるのか、誰にも分からない。
「……なにが……起こった。ドーハスーラ殿」
流石のマスティギオスも余りの出来事にそう零すのが精一杯だった。事実、人間の動体視力から考えてみれば、今のジュネルバの動きは瞬きほどの出来事。
魔獣たるドーハスーラにとっても、分かったのはただ一つだけ。
「……分かりやしませんが。どうやら不味い感じがしやがりますね」
魔眼に、一瞬シャドラプトの姿が見えた。彼女と魔人に因縁があるらしいのは分かっていたが、それでも今の行為にどういう意味があるのかは分からない。
だが良い事は起こらないだろう。両者が上空の光を見つめる。
疑似太陽。激戦の最中ジュネルバに集中せざるを得なかった二人も、ようやくその凶悪な存在に気づいた。恐らくそれは、ジュネルバの根源に値するものだという事も。
奴が此れとの同一を図ったという事は、己の力を極大化するため以外にはないはずだ。ドーハスーラはうすら寒い思いを背筋に覚え、舌を打った。
此処で取り逃したのは余りに痛い。もう此方は殆どの手を吐き出した後だ。未だジュネルバに余裕があるとするならば、後はもう敗北を甘受するしかないだろう。
思わずドーハスーラが双角を傾けそうになった時、久方ぶりにその声は聞こえた。
「――いいや勝ちだ。魔人のあいつはお前らがもう殺した。後は、神話時代のお仲間に任せよう」
ルーギスが真紅の眼を傾かせ、肩に魔剣を置いて言った。いつの間に前線まで出てきたのか、勝ちとはどういう事か。周囲がその疑問を口に出す暇もなく、ルーギスは言葉を継ぐ。
「心配はいらんという事さ、マスティギオス。それでどうする。退くか、進むか?」
疑念を全て切り捨てるように、ルーギスは言った。その言葉が余りに確信に満ちていたお陰か、不思議と周囲の心が軽くなっていく。
だがマスティギオスだけは、ルーギスの瞳を見つめ言葉を練った。
「お前は満身創痍。あちらは未だ魔人は一体居残ってる上、下手すりゃ大魔まで首を出す。さぁて、どうしたい」
それはマスティギオスに問いかけているようであって、その背後に控えた兵らにも声をかけるようであった。ルーギスは何時も以上に飄々と、どちらでも構わないというようだった。
一瞬の空白の後に、風に押されるように言葉が漏れた。
「将軍。帰りましょう――王宮に、真っすぐ歩いて」
それをどの兵が言ったかは、もはや分からない。だが確かに、マスティギオスはその言葉を聞いた。そして笑った。声を出して喉を枯らしながら、血を拭う。
魔人一体に損耗は激しく、犠牲は大なり。未だ危機は去らず。しかしこれ以上の好機は無い。大魔が復活していない今が最後の機会だ。
マスティギオスは腕を振り上げて言った。
「今日だ。今日この日をもって、ボルヴァートは蘇る! 我等はその為に来た。全軍をもって、魔軍を散らす! 陣営を整えろ!」
兵の大音声が、それに答えた。魔人を失い、困惑した魔軍は数歩を退く。今や彼らは攻撃を続ければ良いのか、それとも逃げればいいのかすら分からない
ルーギスは、それにふらりと魔剣を揺らす。もはや、その瞳の中に後退の意志は無かった。ただただ王宮に居座るだろう魔を見据えている。
「さて、我らは行く。ルーギス殿はどうする」
ルーギスはただ呟くように言った。
「行くとも、当然だろう。お前らは言葉通り魔人を倒した。お前ら全員が勇者だ――なら次は俺が義務を果たす番だ。そうだろう。俺は多分そんな人間だった」




