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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第十六章『東方遠征編』
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第四百九十六話『命がけの望み』

 ボルヴァート首都が守り神ベフィムス山。


 今、そこに伝説はいた。黒艶のある鱗に巨人すらも砕く牙と爪。雄々しい両翼は天そのものを覆い尽くす。


 天城巨獣ヴリリガント。竜の王と尊ばれ、巨人王、精霊王と並びたった大魔の一柱。


 だが今此処にある身体はただの抜け殻だった。かつてアルティアは彼の者の心臓を砕き、この身から魔力と魂を剥奪した。今は呼吸を行い、魔力が溜まれば人間への憎悪で動くだけの意思なき存在。


 それの前に立って、歯車ラブールは両脚を肩幅に広げる。自信に満ち溢れたというよりも、当然の事をするという様子だった。人形のような容姿はより研ぎ澄まされ、美を醸し出している。


 両手で抱え上げられているのは長い黒髪の女性。その身そのものが魔力の核と化したフィアラート=ラ=ボルゴグラード。


 見た目こそ人間であった時と変わらぬが、ラブールは彼女の魔力構造を丹念に、髪先から足のつま先まで造り替えた。


 即ち竜が保有するだけの魔力を循環させられるように、大魔として君臨するために必要な機能を実行できるように。彼女の身体には新たな魔力血管が造り上げられている。


 もはや彼女の体躯は人間のものではなくなったと言って良い。意識は魔力に埋没し、その眼を開く事はない。


 ラブールは竜の抜け殻の前で、心臓を抱き込みながら呟いた。無感情ながらも恍惚とした色合いを帯びた声だ。


「竜王ヴリリガント――いいえ、我が主よ。再誕の時が参りました。お喜びください。世界は再び、貴方の織りなす正しき機械仕掛けの運命に即時、塗り替わるでしょう。我が数千年の悲願は此処に達成される」


 身体も、心臓の用意も終えた。魔人ルーギスが人間に与したとの事だったが、ラブールにとっては何も問題はない。


 彼の役割は、心臓にラブールの原典――歯車を供給し続けること。そうすれば心臓を通して抜け殻にも原典は注ぎ込まれる。


 後は、毒物ジュネルバが首尾よく動いてくれれば問題はない。人間が多く殺害されればその分魔力は空気を食いつぶし濃度は上がる。


 ――それに、最悪の場合に備えジュネルバにも仕掛けを施している。失敗はあり得ない。賽子がどう転べど目的は達成される。至極素晴らしい。


「毒物ジュネルバ。即時、貴方の良い働きを期待します」


 ジュネルバにも告げた言葉を繰り返しながら、ラブールは首都の方向へと視線を下ろした。その眼には、僅かに感情が滲み出ているように見えた。



 ◇◆◇◆



 全てを呑み込まんと街道を侵攻する魔軍に対し、人類軍は主に三方に別れ抗する事になった。右翼街道、左翼街道そして最も通りの広い中央街道。


 右翼にはハインドとエイリーン率いる二千兵、左翼に巨人カリア率いる三千兵。そして中央には魔導将軍マスティギオス率いる五千兵にルーギスが構える。


 対するは五万を越そうかという魔の軍勢。空を覆い、地を踏み潰しながら奴らは来た。


 だが戦力の差異があるにも関わらず、当初優勢であったのは人類側だった。


 魔軍は空と地から迫り来たものの、空から迫る魔鳥に対しては魔術と弓兵が襲い掛かり、地を駆る魔獣らは太い木々にて構築された陣地と槍衾に阻まれる。


 また狭い街道は言うならば隘路であり、数の優勢が完全には機能しない。組織と命令系統という概念が薄い魔軍にとっては、効率よく一部を分隊化し遊撃隊とするというような考えは無く、ただ押しつぶさんと突撃を繰り返すだけだ。


 それがために彼らは一時の劣勢を強いられている。ただ、此の単純な突撃も誤りというわけではない。


 魔軍と人類軍の兵数差は圧倒的だ。大軍に軍略はいらない。無策であろうと正面からぶつかり続ければ、被害の多寡は別として必ず人類軍は陥落する。魔人ジュネルバが出陣しなくともそれは明確な事だ。


 事実として、エイリーンらが率いる最も兵数の少ない右翼は徐々に後退を強いられていた。


 エイリーンは包帯で身体に固定した右腕を鬱陶しそうに庇いながら、大声を張り上げる。


「第一陣を捨てなさい! 前線部隊を残して第二陣へ退避ッ! 陣を変え備えなさい!」


 呼応して兵が素早く陣を引き、後陣へと退避する。


 逃さぬとばかりにその背中へ殺到した魔獣らに向けては、煌めきと共に魔術の陽炎が注ぎ込まれた。


 肉と、血と瘴気の混ざり合う歪な臭気。泥と鉄を溶かしたような匂いに、兵が顔を顰めさせる。


 だがそれでも魔獣は同胞の死肉を踏み越え、時には喰らい散らしながら前進を続ける。


 魔獣とは即ち、獰猛性の権化だと人間は語った。身に宿した魔力が血脈を駆け巡り、皮膚からこぼれ出してその思考を活発化させるのだと。


 それは半分正答で、半分は誤りだ。魔力は確かに彼らの体躯の活動を活発化させ、その性能を向上させる。


 魔人や魔族、一部の魔獣のようにそれを制御できるものは良い。


 しかし出来ぬ下位の魔獣らは、魔力に酔いを起こす。


 魔力の味は余りに濃密で芳醇だ。足りぬ、まだ足りぬと其れを飲み続けるともはや制御など出来なくなる。


 体内の魔力は肥大化を求め、いずれ魔力に思考すら奪われて他者を襲うだけの生物に成り下がるのが常だ。


 この戦場において前線に出ているような魔獣兵らは即ち其れだった。魔力に酩酊し、もはや正気があるのかないのかも分からない。ただ発露する獰猛性に襲われるまま、前へ前へと歩みを続ける。


 敵を食いちぎり血を飲み干せば、喉の渇きが癒える。それだけで彼らには十分だった。


 その獰猛な獣を前に、魔弾の射手は立ちはだかった。両手の五指に色光が満ちている。


「――案外と、何とかなりそうだなエイリーン。奴ら戦術眼はないようだ」

 

 ハインドが両肘を振り上げ、そして払う。一動作で魔術の行使は完了した。彼が扱うのはそれほどに単純な原初の魔弾。


 それでも獣を殺害するには十分だった。


 刹那の間に十の獣の頭がはじけ飛び、頭蓋の欠片と血肉を散らす。瞬間、獣共の脚が止まった。同胞の死骸と血がぬかるみとなって勢いを押しとどめる。


 そして戦場で足を止めた兵士の結末は、常に一つだ。


 左右の家屋や廃墟に潜んだ弓兵と魔術兵らが、停止した魔軍めがけて殺意を叩き落す。街道全体に密集した連中が相手では、矢や魔術は落とすだけで当たった。


 狙いさえつけなくてよければ、熟練の弓兵は一分間に十本は矢が放てる。魔軍が足を止めた数分の間に、何百本という矢、そして魔術の嵐が交差射撃となって注ぎ込まれた。


 ハインドは兵達と一緒に第二陣まで退きながら、大盤振る舞いだと唇を拉げさせる。元々兵舎や一部商家にため込んでいた弓矢をこの戦役の為に使い込んでいた。弓兵らは矢数を考え込まなくて良いと大喜びだろう。


 魔軍が迫りくるまでの数十秒の余暇。煙草を口端で吸い上げながらハインドは眼を瞑った。戦場においては、時折瞬きすら命取りになる。乾いた目を潤しながら一息をついた。


「随分と張り切っていますのね。まさか兵達のように、あの男に感化されたとでも?」


 エイリーンは陣の中に入り込み、正面を見続けながら言った。この右翼の将軍は彼女のようなものだ。ハインドは全く気軽だった。


 だから気分を浮つかせたように言う。


「そうだ。感化された」


 エイリーンは思わずハインドへと視線を向けた。ハインドは直情的ではあったが、自己を強くもっている事に誇りを有しているような男だ。その彼が誰かに感化されたなどとあっさり返すとエイリーンは思っていなかった。


 逆にハインドはエイリーンの反応を予測していたのだろう。煙草を手で掴み取りながら苦笑して肘を折り曲げた。

 

「駄目か? 実際、紋章教兵だけではない。ボルヴァートにも、ガーライストにだって彼を英雄視する者は多くいるだろう」


 ハインドの指が火の消えた煙草を握りつぶす。その手には強く力が籠っているように見えた。


「――貧民窟に住んでいた孤児が、剣一本を持って這い上がり、大国ガーライスト相手に一歩も退かない。それ所か魔人すら斬り殺して今や人類の英雄だ。英雄物語とは此れだろうエイリーン。皆が憧れる、兵も、私もだ」


 エイリーンはハインドの姿に一瞬の気迫を感じた。その言葉には常より力が込められているように感じたし、息を呑ませるものがあった。


「……気持ちは分からないでもないですが。そういうものですか」


「そういうものだ。名家育ちの貴様には理解しがたいかもしれんがな。ただの兵士になる人間というのがどういうものかを考えてみろ」


 魔術師ではない、ただ槍や剣を持って戦う兵士になる人間というのは、ボルヴァートと他国でもそう変わりはない。


 金もなく、継ぐための土地もない農家の次男、三男が大多数だ。ハインドのように貧民育ちという者も多い。


 そういう者らは両親に愛情を注がれる事も、十分な食べ物や居場所を与えられる事も少なかった。文字通り、何も持たない者達だ。


 そんな者らが兵士になり、仲間が出来、武勲のみで功績が左右される戦場を手にするとどうなるか。


「一番に兵士らは思うのさ、自分が主役になりたいとな。喝采を受けたい、認められたい、英雄になりたい。戦場ではそれが叶うかもしれない。誰もが其れを思う。私もそうだ。命がけだってのに狂ってると思うか?」


「…………」


 エイリーンは応えなかった。敵がもはや態勢を整え始めていたし、それにきっとハインドの言葉に完全に同意することは己には出来ないだろうとエイリーンは考えていた。


 だが、分かったこともある。


 要は、誰もがきっとあの大悪に成りたいのだ。その為ならば、命を懸けて良いとすら思っている。


 今この場では、それだけで十分だった。


「首尾は悪くありません。第二陣で一時間を粘った後、もう一度後退します」


「了解。奴らの頂点が全くの考え無しでない事を祈ろう」

何時も本作をお読みいただき誠にありがとうございます。

皆さまにお読みいただくこと、ご感想など頂くことが何よりの励みになっております。


毎度の事ではありますが、今月発売されましたコンプエース様に本作のコミカライズ版

を掲載頂いております。コミカライズ版は今回で最終回との事ですので、是非お手にと

って頂ければ幸いです。


本作の最終回やそこに至るまでの構想はすでに組み終わっているのですが、たどり

着くまでに未だ少々お時間いただきそうですので、今後ともお付き合い頂ければと

思います。


何卒よろしくお願い致します。

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― 新着の感想 ―
[一言] やはりコミックはマリア陥落までか、予想はしてたが、漫画から原作の方に来たものとしては少々複雑な気分です。また、原作ももっともっと続けて欲しいが、やっぱりテンポよく首尾よく終わるのが1番好きで…
[良い点] 今回も面白かったです [気になる点] コミカライズ版出来が良かったので残念です しかしちゃんと終わりと教えて頂けるのは有り難いです
[一言] ルーギスの運命は修正されたけど、他の人に与えた影響による運命は修正されてないから、歯車が噛み合わなくなって記憶を取り戻す、あるいは人間に戻るって感じかな。
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