第四百九十一話『偉大なる魔性達』
魔人ルーギスによる、分霊ヌトの粉砕。それはもはや勝負ではなく、ただ一個の肉体が無残に潰されただけだった。
圧壊された肉塊は肉の欠片も見えないほどに潰されて、血が溜まっているだけのものに見えた。ヌトが身に着けていた王冠が宙を飛び、からんと音を立てて血の上に飾られる。
それが何故起こったのか、民衆も魔性も分かっていない。一瞬の静寂が場を駆け抜けた。思考は混乱を極め、誰もが困惑を所有している。
その中で最も早く動きを見せたのは魔族キールだった。元人間の彼は、予想外の事態を嫌という程経験していた。
物事が自分の思うままに上手く行くことはあり得ない。上手く運ばれぬ事が常である。キールはそれをよく知っている。
眼鏡を耳に掛けなおし、彼はすぐに踵を返した。未だ衝撃に包まれている処刑場をすぐに出る必要があった。このまま此処にいれば、もう逃げる事すら出来なくなる。
想定外の事態に備えて控えさせておいた予備兵力を率い、キールは馬に乗った。
何せ相手は魔人ルーギス。軍の生き残りが命を投げ捨て突貫してきたのとは意味が違う。ここの人間も魔性も、その気になれば皆殺しだ。
部下の一人が、キールの肩に不安げな視線を乗せた。あからさまに怯えた目つきだった。
「ヌト様が、ぁ。魔人様に殺されるとは……これは何です。何が起こって」
その思考は全く定まっていない。ただキールの背中についてきただけのようだった。キールは拳を握りながら言う。
「分からない。確かなのは俺達がしくじったという事だけだ。ジュネルバは俺を殺すな。ヌトを見殺しにしたお前らも殺される」
「そんなバカな! 相手は魔人ですよ!」
本当は、ジュネルバがどうするかなどキールには分からない。けれどこう言わねば部下から背中を刺されるかもしれなかった。
己で驚くほどにキールは冷静だった。むしろこうなる事が心の奥では分かっていたのではないかと思う程だ。
やはり、マスティギオスはこの程度の事で死ぬ人間ではなかったという事だろう。
複数の部下に言い聞かせるようにキールは口を開いた。青白い肌が歪み動く。
「慌てるな。全ての事にしくじりと失敗はつきものだ。今回もそれが起こっただけ。俺は慣れている」
これから王都がどうなるのか、キールには想像がついた。マスティギオスの下人々は集約され、魔人共と対立する事になる。大きな混乱と動揺が王都全体を覆い尽くすことだろう。
その時、魔人ジュネルバとラブールはどうするのかは想像に易い。彼らの対立により混乱は更なる暴走を生み、暴走は破滅を呼び込む。
己の出る幕があるとするならばそこだ。奴らが対立しきった最高潮に、腹を突き刺してやるしかない。
そうすればとうとうこの国はどうしようもなくなる。
キールはこの王都を、ボルヴァート朝という国家を破滅させるための機能だけを自身に求めていた。それ以外は至極どうでも良い。
「――聞け、今より王都を出る。簡単な事だ。一度這いつくばったなら次は立ち上がってやれば良い」
◇◆◇◆
視界に映るは魔人ルーギス。そして彼に潰されたヌトの惨めな死骸。
それを前にして魔性たちが抱えるのは人間以上の動揺だ。仲間であったはずの魔人の離反行為。これをどう受け取れば良いのか。
彼を敵として扱うべきか――だが魔人には勝ちえない。
なら逃げるのか――それも後々ジュネルバに殺されかねない。アレは逃げ去る弱者を何よりも嫌う。
ふと、処刑台からルーギスは魔性たちを見下ろした。義務感に従うように、自然と魔性たちはルーギスと、人間の兵らを取り囲む。市民らは蒼白となって怯えながらも、この広場から逃げる事が出来なかった。
そのまま誰もが一歩を踏み出せぬ中、言葉を発したのは魔人だった。
「何だよ。逃げたいんなら早く逃げろよ。俺は弱い者虐めが嫌いなんだ。暗いし、じめじめしてるだろ。何より馬鹿らしい」
ルーギスは気易く魔剣を肩に乗せ、欠伸をするように言った。魔剣が血を吸いあげ、主に微笑むように蠢動する。
魔剣の刃を撫でてから、ルーギスは両眉を上げた。
「――だからとっとと逃げろよ。お前らだって死にたかねぇだろ」
そう言ってルーギスはマスティギオスを立ち上がらせた。もはや周囲を覆う魔性らに欠片の興味もないようだった。
いいや言ってしまうなら、彼の興味の矛先はマスティギオス以外には向いていない。その他の人間も、本当はどうでも良いに違いない。
ルーギスは魔剣を肩に乗せたまま、気軽に魔性らに背中を見せた。魔性らの喉が鳴る。感覚が鋭く尖っていった。
今なら、殺せるのだろうか。ならば、ジュネルバには殺されぬかもしれない。
彼らを突き動かしたのはルーギスが見せた慢心のためか、それとも主たるジュネルバへの恐怖かは分からない。
けれどその場の殆どが、身に持った牙や爪を用いて魔人に楯突いたのは事実だった。
――存在災害たる魔人に牙を剥いた魔性がどうなるかなど、語るまでもない。ただ粉砕され、処刑場に血だまりが増えた。それだけの事だった。
一瞬の静寂の後、魔獣と魔族の死骸が横たわる。
その様子に、今まで困惑から押し黙っていた市民らが歓喜の声をあげた。中には涙まで見せる者もいる。久しぶりに心からの声を市民は漏らしていた。
ルーギスは魔導将軍マスティギオスの命を救い、そして魔性共すら殺して見せた。市民らは此れを英雄の雄姿だと受け取った。
ルーギスは人間の、市民の味方だ。魔性共の中に忍び込み、今の今まで機会を伺っていたに違いない。そして今、人間を、我等を救うために現れた救世主なのだ。
軍人オイルラントも、マスティギオスに続き処刑されるはずだった兵達もそう理解した。誰もが声をあげ今一時の喜びを享受する。歓呼の情は暴れ回るばかりだ。
一滴の希望が広がるその場で、三人だけが今起きている事実に気づいていた。
即ち、魔導将軍マスティギオス、そしてその副官エイリーンとハインド。
「……ルーギス殿。まずは再会を喜ぼう。だが貴殿に何があった、何が起こった」
ルーギスの姿は英雄というには余りに魔的だ。
真紅の瞳は血よりも色濃く、魔剣は悍ましく声を鳴らす。恐らく剣の有様はルーギスに影響されてのものだろう。魔道具が持ち主の性質に左右されるという事はよくある事だった。
拘束具を外され、ようやく自分の足で立ち上がったマスティギオスに対し、ルーギスは言った。
「まるで俺を知ってるみたいな言葉だねぇ。何もないしどうもなってねぇよ。俺は昔も今も変わりゃしない」
そう言って魔人は、肩から魔剣をおろして横にした。真紅が、マスティギオスの顔を見ていた。
「お前の味方だってわけでもないさ。ただ、奴らの方がお前より下らなかった。下らない奴に肩入れする意味はない。違うか?」
何とも刹那的な言葉だった。マスティギオスは思う。やはり彼は、本来の彼ではない。雰囲気や所作が違うのもそうだが、常の彼ならばこのような事は言うまい。
どうやら、記憶すら定かでないようだった。
「……マスティギオス様。疑問は尽きませんが、今は民と兵を纏めるべきかと」
ハインドの言葉を受けて頷きつつ、さてこれからどうすべきかとマスティギオスは自問した。自身と兵の命が幾ばくかの猶予を与えられたとはいえ、もはやここは敵の腹中。
何時また敵が攻め寄せてくるか分かったものではない。ルーギスは変貌し、今後も味方である保証はなかった。戦力はまだ不足している。態勢は脆弱だ。
目を細め、唇を強く締めあげてから、マスティギオスは意志を決めた。それと同時の事だった。
――歓声に溺れる処刑場の中、再び魔が堕ちてくる。
より強大で、周囲を圧倒する魔。空気の温度が幾分か下がった気配すらある。肌に怖気が走っていった。
その魔は大声でものを語った。
「――ルーギスゥッ! そこにいたか、動くな貴様ァッ!」
巨大な獅子の魔獣の首が、黒緋の剣に刎ねられる。血飛沫を己のものとしながらカリア=バードニックが駆けていた。ルーギスは嬉しそうに、まるで恋人との再会を祝福するように言う。
「おお見ろよ。俺の敵だ。俺の敵がまたやって来た」
笑みを浮かべるルーギスの傍らで、マスティギオスもまた同じような笑みを浮かべていた。カリアがここにいるという事は、紋章教兵も幾らかは無事である可能性が高い。
ならば後の問題は魔人だろう。己ではアレに敵わなかった。魔人に勝てるのは、即ち魔人だと言う。
「――ルーギス殿。一つ聞きたい。今の貴殿が他の魔人共と対峙すればどうなる。奴らが貴殿を襲ってきたとしてだ」
決まってるだろう、とルーギスは考える素振りもなく言った。当然の事のようだった。
「俺が殺されるのは正義を語る奴だと決まってる――だから。あいつらだって俺の敵じゃあない」