第四百八十二話『魔人と言う存在』
戦場にて光が喝采し、雷鳴がけたたましい音を鳴り立てる。眩いばかりの光が周囲を包んだ途端、魔術によって造形された雷の竜が顎を開いていた。
魔軍に、それを避けるだけの機動性はない。彼らはただ前に進む事だけしか知らぬ。ゆえにあっさりと、雷鳴の威に食いつぶされ多くの兵が絶命した。
色彩と轟音の協奏。人間にはあり得ぬ出力をもって、造り上げた殺意で敵を殴り殺す。真なる魔術師の戦役とは即ち此れだと言わんばかり。
マスティギオス=ラ=ボルゴグラードの奮迅は凄まじいものだった。魔軍をその顎で食い散らし、後退に追い込まれて尚敵を踏み潰す。
数を上回る魔軍が、マスティギオス軍を攻めあぐねていたのはまさしく彼の将軍一人の為だと言って良い。兵や副官らと共に時に第一線で雷火の両腕を振るう姿は、どれだけ周囲の者らを勇気づけた事か。
魔軍の誰もがマスティギオスという名の魔術師を、恐怖すらし始めた。連日の戦役を繰り返して尚奴は魔力の息切れを起こさない。
もしかしたならば、そのまま全てが上手くいけば、人間は魔軍に勝利せしめたのかもしれない。
それだけの脅威を、マスティギオスなる魔術師は持っていた。
――それこそ、魔人さえその姿を見せなければ。全ては上手くいっていたかもしれないかった。
「……おお、おお。やるもんだわナ。人間に産まれさえしなかったらナァ」
魔人、毒物ジュネルバは鳥顔を満ち足りた風に緩めながら、猛禽の眼で食い入るように獲物を見る。鳥類の手で、その首筋を掴み取っていた。獲物からは血がしたたり落ち、呼吸こそしているがもはや意識を失っている。
そう、まだ息があるのだ。ジュネルバは思わず感嘆する。アルティアという例外を除けば、間違いなく眼前の彼は最高峰の魔術師だった。
「ガ……ァッ、グ」
だが、だからと言って魔人に敵うというわけではない。マスティギオスはその全身に傷を負い血を垂れ流しているが、反面ジュネルバはその羽毛に幾つかの焼け焦げた跡を残したのみだ。
いいやそれでも、ジュネルバにとっては称賛に値する事だろう。
本来災害存在たる魔人に、人間が僅かでも傷を付けるなどと言う事は不可能だ。
台風に剣が意味をなさぬように、洪水に抗する事が出来ぬように。其れに傷を付けたという事は、もはや人間の領域を外れ、より魔人に近しいという証左。
即ち、神話の時代から地続きの神秘を体内に孕んでいるという事だった。例えば神が造り上げた宝剣であったり、勇者の威光であったりといった類のものを。
ジュネルバは嘴で大いに笑った。嘲弄ではない鮮やかな笑み。
恐らく人間達は、アルティア亡き後も大魔や魔人への恐怖を忘れていなかった。故にこそ勇者を作り上げ、魔術を研鑽し、魔に抗う為の術を丁寧に丁寧に拵えてきたのだ。
過去魔人に傷を付けられたのがアルティアだけであった事を思うと、それはきっと進歩と呼べるのだろう。
だからこそジュネルバは声高く笑い、そうして飽き飽きしたように嘴を鳴らす。
それは、忌々しさの表れだ。虫唾が走ったと言って良い。マスティギオスへの賞賛とはまた別、人類という種に対する軽蔑だった。
そう、彼は最高峰の魔術師だろう。それは間違いがない。言ってしまえば、そんな彼ですら魔人には及ばなかった。
下らない。何百年と積み重ねて、未だアルティアに指先すらかからない。だというのに長々と安寧を享受し続けたわけだ。今を生きる人間はその多くがアルティアの死骸に集る羽虫のようなものではないか。
ジュネルバにはそれが悍ましかった。己が敗北し、そうして唯一敬意を抱いた人間がいたからこそ。今の取るに足らぬ人間共が醜悪に見えて仕方がない。
元よりジュネルバは人間嫌いであったが、今身体中に走る感覚は嫌悪感とはまた別だ。
「ジュネルバ様。よろしいでしょうか」
そんな人間の、醜悪さを煮詰めたような男がジュネルバに声をかけた。ジュネルバは人間の声の聞き分けなど殆どできなかったが、その態度で誰かは分かっていた。
「おめぇか。死にたくなきゃあ、こんな所で暇を見せてる時間はねぇだろう」
ただ一人の魔術師に、戦線を押し返されていたのは何処の誰だったか。失態を突きつけるようにジュネルバは言い、猛禽の眼をぎょろりと動かす。苛立ちゆえか、その視線だけで肌を穿ちそうなほどだ。
だが視界の先にあって尚、キール=バザロフは奇妙な笑みを浮かべて口を開いた。
「仰る通り。反論さえ出来ません。ですからこそ、失態回復の機会を頂きたい」
「あア?」
何か含んだような態度を崩さないキールに、僅かにジュネルバが目を開いた瞬間だった。数々の鳥類の鳴き声が耳を劈く。
報告用の鳥類らが、ジュネルバの上空を飛び交い始めている証だった。幾羽かが独特の言語を話し合い、一羽が話を纏め、そうしてジュネルバに告げる。
「――報告、報告! ボルヴァート首都にて、新たなる魔人顕現、魔人顕現!」
その報告にキールは勿論、やや苛立ちすら見せていたジュネルバすらも反応を露わにした。羽毛が僅かにざわつき、血脈が跳ね上がる。
魔人の顕現。よもや、この時代にそんな輩がいたのか。ジュネルバは、そう素直に胸中で呟いた。
魔人とは、単純に言うならば即ち原典持ちし者を言う。己のとめどない願望と精神を以て、この世界の理すらを歪めえる者ら。己の精神世界を以て、現実世界に浸食する怪物達。
その魔人らを束ね、時に原典を与え魔人を作り出す存在が、かつての神たる大魔。大いなる魔。魔人とは多くが、大魔によって造り上げられたものであるはず。
だがよもや、今のヴリリガントに魔人を作り出すだけの余裕があるわけがない。それは魔人たるジュネルバが一番理解している事だ。
とは言えこんなにも魔が薄い時代において、魔人が自然に発生したというのも考え辛い。ならば、もう答えは一つだった。
己の愛する魔人――ラブールがその原典を用いた。その可能性が一番高い。ジュネルバとてラブールの原典を全て理解できているわけではないが。因果や運命というものを司る彼女が原因となっている可能性は非常に高い。
「……仕方がねぇわな。おぅ、おめぇ」
ジュネルバは無感情にキールへと視線を戻す。本当に、どうでも良いものを見下す視線だった。キールは慣れたもののようにその視線を受け取った。
「何か知らねぇが好きにしろや。それで汚名返上できなかったら死ね」
その場にマスティギオスを放り出しながら、ジュネルバは大翼を振り上げる。もうこの場に興味など欠片も残っていなかった。彼は自らの同族を引き連れ我が者顔で空を飛びながら、戦場を省みもせず駆けて行く。
残された戦場の有様は惨憺たるものだった。
魔軍相手に勇戦を続けたマスティギオス軍は、その三分の一がジュネルバの毒に溶けた。撤退する暇もなく、次々と人から人へ伝ってくる毒物の津波に呑み込まれ、多くの魔術師と獣が死んだ。
そうなればもはや死体は殆どが残らない。腐った肉の悪臭と、骨が焦げたかのような奇妙な香りが戦場には残り続ける。
そうして、戦線を維持し続けた三人の魔術師。
魔導将軍マスティギオスと、その副官たるハインド、エイリーン。彼らももはや無事ではない。肉と魔力とを魔人ジュネルバによって叩き潰されている。絶命していないのが奇跡だった。
そうして、この戦場は終わりを告げる。
ボルヴァート大魔戦役における緒戦。魔軍と人類との衝突は、ただ一体の魔人の存在により人類側の敗北に終わった。
ボルヴァートの主軍たるマスティギオス軍は半壊の憂き目に遭い、魔導将軍マスティギオスもまた、囚われの身となる。
此処に至ってボルヴァート朝は大規模な抵抗勢力を喪失し、完全に魔性により陥落したとされる。
この一報は、大聖教、そうしてフィロスとマティア率いるガーライスト新王国にも届けられる事になった。