第四百七十六話『竜の王』
紋章教軍陣地。一時的な休息の為に広げられたその天幕は、指揮官用のものといえどそう広いものではなかった。危急の事態にはすぐに軍が動ける為のものと考えれば、それも仕方がない。
赤銅竜シャドラプトは、その手狭な空間の中で今一度体躯を捩らせる。体躯を再構成する上で、少しばかりの違和感が肌を覆った。一瞬、神経が焼け付くように燃え上がる。
竜ほどの巨大な質量をもった体躯を、小さな人の形へと宿らせる偉業。
魔術という観点から見れば奇跡に近しいその業も、竜にとっては一つの技術に過ぎない。シャドラプトはそれが特に得意であった事もあるが、ただ人や他の生物に姿を変えるだけなら多くの竜が出来うる事だ。
とは言え、最も魔力を保持するに適した竜の姿を捨てる者はそういるものでもないが。
黄金の髪の毛が、彼女本来の鱗の色であった赤銅色に変じていく。眼の色も同様に、背丈はアルティアに変じていた時よりも高くなっただろうか。
髪の毛も短髪へと揃えていく。目つきはやや鋭く、鼻筋は高い。それはかつて見た、アルティアの仲間だった女だ。確か――コリオラティとか名乗っていただろうか。
奴もまた、人間離れした異形だったとシャドラプトは瞼に思い浮かべる。いいや、アルティアにこそ及ばないが、彼女の仲間は全てそのような存在だった。
だから、その力にあやかるとでもいうようにシャドラプトは彼女の姿を借りた。別段、シャドラプトとしてはアルティアの姿のままで問題はなかったのだが。
「――まぁ。そちらの方がマシだな。先ほどよりはずっと良い」
銀眼が天幕の中を見下し、シャドラプトへと言う。声の主はカリアと名乗る巨人だ。人の形をしているが、その中身は余りに人と異なっている。
ここまで近づけば、その正体もシャドラプトには匂いで分かった。恐らくは、巨人王フリムスラトの末裔。その血と意志を引き継いだ者。
ルーギスたる人間の匂いも、彼女から齎されたものだろう。まさか血を混ぜ込んだわけでもあるまい。純粋に、彼と彼女とは番なのだろう。
どうにも理由は分からないが、彼女らにするとアルティアの姿は落ち着かぬらしかった。
人間が人間の王の姿に落ち着かぬというのも変な話だが。シャドラプトとて己の王が怖くてたまらないのだから、そう珍しいことでもない。
本来シャドラプトは人間として庇護を受けるつもりであったが、流石に巨人の目までは誤魔化せなかったらしい。
いいや正確にはそれだけではない。
天幕の中にはもう一体、魔性がいた。そいつの目の方がよほど誤魔化しづらい。
「うわぁ……いやいやいや今度は俺が落ち着かないんですけど。何でよりによってコリオラティに化けやがるんですか。人間なんて幾らでもいるでしょう」
魔眼獣ドーハスーラ。かつてアルティアに付き従った唯一の魔獣。
あの魔眼は駄目だ。魔眼とは、その魔の流れを見て取って現実世界へと作用を及ぼす器官の一つ。それで見据えられてしまえば、魔か人かなどすぐ見破られてしまう。竜と人で比較すれば、圧倒的に竜の方がより多く周囲の魔を吸い尽くすように出来ているのだから。
シャドラプトは僅かに息を吐きながら、牙を剥くように言った。
「うるさい! もう姿を変えたりしないぞ己は。これは疲れるんだ! 大体、強い人間の姿の方が安心できるだろう!」
ドーハスーラはシャドラプトの言葉に呆れたように歯を見せたが、双角を上向かせてからは特に何も言わなかった。言い負かされたというよりも、子供の駄々を仕方なく受け入れるような素振りだった。
ようやくシャドラプトは呼吸を落ち着かせ、天幕の中を見つめる。周囲にいるのは誰もが人間のように見えて、そしてそうでなかった。
巨人王の末裔に魔眼獣。それに先ほど己へと口添えしたレウとかいう娘も、よくわからない恰好をしてはいるが並々ならぬ魔性の気配を発している。
正直、シャドラプトは怖かった。余り近づきたくない。
それに極めつけはルーギスその人だ。凶悪な双眸がどうというつもりはないが、もはやその魂がすでに人間ではない。人間の王でありながら、その有様は許容されるのだろうか。
とはいえ、かつてのアルティアももはや魔性に近しかった。人間というのは力を強めれば強めるほどに、人間でなくなるものなのかもしれないとシャドラプトは思った。
視界から黄金が消えたのを見てから、ルーギスは椅子に腰を落ち着かせ言葉を吐いた。
「それで。ヴリリガントの配下なんだろうお前は。どうしてそれが、人間の庇護を受ける必要がある」
シャドラプトはその言葉を受けて、一旦周囲にその赤い瞳を配った。この中いる誰もが、ルーギスの言葉に口を挟まぬのかを見ていた。
並みいる魔性共が、誰も口すら開かずルーギスの言葉を聞いている。なるほど、やはり彼らの王はルーギスなる者なのか。ならば話す意味はある。
必要でもない者に情報を漏らすのは愚かなことであり、時には己の死にも繋がりかねない事をシャドラプトはよく知っている。
これだけの者が黙って従うのであれば、問題はあるまい。シャドラプトは唇を慎重に押し開いた。
「貴は勘違いをしている。己は確かに魔性だが、ヴリリガントの配下ではない。それに奴は凍り付くほどに酷薄な王なのだ。ただの一度でもその意に背いた者を赦す程寛容ではない」
そうして、ヴリリガントは竜にとって絶対の王。例え奴が寝ころびその翼と手足を千切られていたとしてもシャドラプトは奴に歯向かう気にはならない。
こればかりはシャドラプトの極端な弱気というわけではない。竜族の総意だ。それほどにヴリリガントは壮絶だった。
竜が王を選定する過程は原始的と言って良い。政治ではなく、財力でもなく、どれほど強く在るか。ただそれだけ。最も強い者にこそ唯一の王冠は与えられる。
ゆえに竜に生まれたならば、誰にでも王となる権利はあり、王冠に指は届く。王国というよりも群れに近しい。
ヴリリガントもまた、先代の王を食いちぎって王になった。当初は若輩の王だった為だろう。誰もが、すぐにでもまた次の王が現れると思っていた。
若き竜が王になったと聞き、王冠を求める者は後を絶たなかった。幾つもの山を制した竜もいれば、巨人を食い荒らした竜もいた。
――そうしてただの一頭として、ヴリリガントに傷すらつけられなかった。
何が強いのかと言われれば答えに困る。空を駆ける速度も、牙や爪の密度も、そうしてブレスも。
ヴリリガントは常に誰もを上回った。
何百年という時間を、彼は王として君臨する。誰もが絶対の王に平伏していった。竜という竜が統括され、配下となり、何時しかヴリリガントは空の覇者となった。
そうして遂には神令と呼び伝えられる大戦で、ヴリリガントは精霊神ゼブレリリスを巨人と結託して追い堕としたのだ。結果この世界の神は三つに分かれる。
即ち、精霊神ゼブレリリス、巨神フリムスラト、竜神ヴリリガント。
そうなってはもはや、ヴリリガントに逆らえる竜はいなかった。アレに勝てたのは、人間のみだった。
シャドラプトはまるで悲哀でも伝えるように語る。己が竜だという事だけは伝えなかったが、それでもヴリリガントが如何に凶悪で、絶対であるかは伝えられたはずだ。
これほどのものを聞かせられれば、如何な彼らとて己を庇護せざるをえまい。
何、後は彼らに保護され、暫くは人間の都市に潜むとしよう。他に強い種族が出てきたのならば、その者達に保護されれば良い。
シャドラプトの得意げな言葉に、カリアは銀髪の毛をかきあげながら言った。
「との事だが、どうするルーギス。随分と、敵方は強大無尽だそうだぞ。反面、こちらは仲間も失い準備もままならん」
カリアは唇をつりあげて、笑みすら見せていた。もはや彼が何と答えるのかわかっているからだった。ルーギスは、噛み煙草を口に含みながら言う。
「何時もそうだろうカリア。敵は何時だって、手前勝手な目的で俺達に武器を振り上げる――なぁ、何だかんだいっても、死ぬんだろうヴリリガントの奴も」
その問いかけが、シャドラプトに投げかけられたものだという事に気づくのに、数秒かかった。シャドラプトは眼を大きく左右に揺らめかしつつ口を開く。
「む、無論、肉体的には死ぬのだな。魂はまた別の話になってしまうが」
その問いかけの意味は分からなかったが、シャドラプトはそう返した。ルーギスはあっさりと受け取って言う。
「なら殺すさ。何、一度アルティアに墓場に入れられてたんだ。ならもう一度、墓場にお帰り願うとしよう」
シャドラプトは瞠目して今一度ルーギスを見る。
弱っちい人間に思えていたが、それでもそのルーギスの言葉だけは、シャドラプトにとっても心強いものに思えた。不可能にしか思えないことも、やってしまうのではないか。そんな身勝手な期待。
それだけの期待を抱かせる物がこの男にはあるのだとシャドラプトは理解した。だからこそ彼は他の者らの王なのだ。
シャドラプトは安堵の息すらつきながら、それで己は何処で待っていれば良いとそう問うた。何処か安全な後方の都市が良かった。
「いいや、手を貸して貰う予定だが。今は戦力が足りなくてな。魔性の手だろうが借りたい」
「えっ、ん……んん?」
一瞬、おかしな言葉を聞いた気がした。庇護を求めてきたはずであるのに手を貸すとはどういう事だろう。荷運びでもしろという事だろうか。流石に竜としてそれはどうなのかという気分にもなるが。
そんなシャドラプトの夢想を断ち切るように、傍らでカリアが言った。
「では行くか。貴様もヴリリガントに苦渋を飲まされたのだろう。ならば、それを勝者の美酒に変える手助けくらいはしてやろう」
よもや。手を貸さないとは言わんな。
カリアがシャドラプトの耳元で、囁くように言った。まるで王が言った言葉を、絶対的に肯定する従者のようだった。
良し。隙を見て逃げよう。シャドラプトは心の中で固く誓った。
その誓いと同時、天幕の中に伝令兵が駆けつける。汗を垂らし、息を切らせた様はその内容が危急のものである事を告げていた。誰もが目を見張り、その言葉を待つ。
事実彼は、大きな報告を掴み取って来た。
――即ち、マスティギオス軍とボルヴァート朝の動向について。