第四百六十八話『東方遠征』
ガルーアマリア城壁内。幾度目か分からぬ議場での口論で、ある者は飽きもせず口角泡を飛ばし、ある者は小難しい顔をして唸りをあげる。
そこでは出席者の誰もが、自ら何らかの役割を担おうとしているかのようだった。
例えばボルヴァート軍ハインド=ビュッセは努めて冷静に全体の意見を取りまとめるように動いていたし、反対にエイリーン=レイ=ラキアドールは各自の意見を促すべく第一に口を開く。
その様子からして彼らはこういった場に慣れているのだろう。魔術師という個性の塊のような人間らが、何とか議論を行えているのは彼らの一助があってこそだ。
けれども英雄に付き従う宝剣にとっては、そのどちらもが眼中になかった。自慢げに、誇らしげに宝剣はその美麗な刃を鳴らす。主たるルーギスは、ただ無言のままに議場を眺めていた。
宝剣は静かに思う。主と他の者とでは役者が違う。会議の参加者達は論を交わしているようでいて、ルーギスを決して無視できない。言葉を発さずとも、この場の支配者の一人は紛れもなく主だ。それでこそ己が主というもの。
宝剣は満足気にルーギスの腰に提げられて宙を揺蕩う。まぁ、この場で主に肩を並べようと言うならばそれは精々一人しかいまい。
巨躯が、ルーギス同様に議論をじぃと眺めながら小声で言った。
「そう殺気立つなルーギス殿。急いては何も手中に得られまい。人間忍ばねばならぬ時もある」
「……そっちはどうしてそんなに余裕綽々なんだよ将軍。娘が心配じゃあないのかね」
傍らで気易く声をかけるマスティギオス=ラ=ボルゴグラードに対し、ルーギスもまた軽口を零すように言った。肩を竦めながら語るその素振りに、一国の将軍と話しているという緊張はまるで見られない。
「無論、心配だとも。だが、貴殿のように焦慮するほどではない。全く子の成長というのは早いものだ。もはやあの子は、私が知っているフィアラートではなかったよ。親の贔屓なしに、瞠目に値する」
「そりゃそうだろう。俺はフィアラート以上の魔術師なんて知らないね。あんたを含めてもだ」
「はっはっは! 素晴らしい。子の成長と、子と共にいてくれる伴侶。二つを見れれば親として、魔術師として本懐だ」
ルーギスは椅子に背筋と肩をもたれかからせたまま、胡散臭いものを見るような目で唇をゆがめる。
「だから言ってんだろ。俺はフィアラートの伴侶じゃあない。勝手な事を言いやがって」
全くだと宝剣は主の腰元にあって尚その刃を熱くする。
確かに主ルーギスは英雄であって、英雄は色を好むもの。過去宝剣を手にした英雄勇者の中にも、そういった存在は多種存在した。
それが悪だなどと宝剣は思わない。ある種伴侶を求めるのは生物として当然の欲求とも言えるだろう。
けれど、主は別だと宝剣は刃を美麗に輝かす。体躯そのものが鋭い意志のようだった。
すでに己と主はその魂を溶け合わせた同一の存在であって、切っても切り離せぬ存在。片方が失われれば、もう片方も失われる。
伴侶を求めるという行為は子孫を残すという目的以外に、己の足りぬ所を埋めるという性質を持っている。集まり互いに拠り所となる事で人間は発展を続けてきた。
ゆえに宝剣は思う。もはや主ルーギスに不完全な箇所などないのだから、伴侶などどうして必要になるというのか。主に不完全な箇所があるならば、それを埋めるのは己一つのみ。
宝剣の鮮やかな脈動を知る由もなく、マスティギオスはやはり笑みを浮かべながら言った。
「そうか、勝手でなければ良いのだな。私とて娘が望まぬ相手にこのような事は言わない」
ルーギスがその言葉に表情を硬くすると同時、こほんと、わざとらしい咳がなった。明らかにルーギスとマスティギオスの、議論に無関係な歓談を咎めたてるものだ。
各軍の最高指揮者とも言える二人に、そんなあてつけがましい真似が出来るのはこの場で一人しかいない。
「失礼をしました。しかし今は活発な意見が出たばかり、どうかお二人にもお言葉を頂ければと」
慇懃無礼を体現したようなふるまいで、エイリーンは美麗な笑顔を固くして言った。その表情の裏で静かな憤怒が滲み出しているのを隠そうともしていない。
エイリーンは決して認めようとはしないが、彼女には同僚のハインドと至極似通った箇所がある。それは両者とも非常に生真面目な性質であり、特にエイリーンは他者が横道にそれることすら許容できない性格だ。
例え相手が上官であったとしても、会議という場において関係なく雑談を行う者が彼女は許せないのだろう。
マスティギオスはエイリーンの肌を貫くような視線に、思わず苦笑をしながら言った。
「うむ。この続きは酒でも飲みかわしながらとしようルーギス殿――改めて皆、このような私についてきてくれた事を嬉しく思う。ここ数日で数十を超える意見を耳目にしたが、私も概ね意見は変わらない。皆の言う通り、如何に我らの軍がボルヴァート朝の主力とはいえ、よもや正面から大魔、魔人と対立するわけにはいかぬ」
マスティギオスの低い声は、不思議と人の耳を傾かせる。つい先ほどまで口論を交わしていた者らもぴたりと言葉を止め、彼の声を聞いていた。
マスティギオスの語ることはすなわち真であり、この場の誰もが胸にとどめ置いている事だ。
そも、軍であろうと個であろうと、ただの人が大魔らに抗する事なぞそう有り得ない。大魔ヴリリガントが大翼を振りかざし天を覆ったのであれば、もはや軍はその時点で壊滅を余儀なくされる。個人でなどと言えば話にもならないだろう。
どんな手段を用いるにせよ、そんな無様だけは避けなければならない。それならばまだ逃げ回って命を拾った方が良い。生きてさえいれば反逆の目はあるのだから。
そう言いながら、部下と意見を交わすマスティギオス。正直を言うならば、宝剣は彼とその部下の姿に、軽い驚嘆のようなものを浮かべていた。
彼らは大魔、そして魔人という存在を知っているはずだ。中には間近でその脅威を認識した者もいるだろう。
通常の感性であるならば、人間がアレらを一度見ればまず戦おうなどと思わない。それは蒼白な臆病などでなく、より強い種に逆らわないというのは生物としての本能だ。
望み好んで獅子と対峙する鼠はいない。
けれどボルヴァートの人間らは未だただの人でありながら、あの魔性らに牙を剥くとそう決めた。それは彼らが人並みを超えて勇敢なのか。それとも彼らを率いるマスティギオスが優秀であるのか。宝剣には分からない。
ただ宝剣は驚嘆さえすれど、ボルヴァートの人間らに呆れることも侮蔑する事もない。それがどのような発端であれ、宝剣は彼らの勇敢さを肯定する。
宝剣は有り方そのものが勇気と英断の象徴であり、恐怖の対義語。畏怖と諦念をねじ伏せる者をこそ愛する。
なればこそ、恐怖を知って尚勇気を選ぶ者を祝福しよう。例えその終局が、決して喜ばしいものでなかったとしても。
だがそれでも宝剣には、一つの懸念があった。それは一体の魔人。歯車、機械仕掛けの魔人ラブール。
主ルーギスがあの女魔人に敗北するなどとは欠片も思わないが、それでも可能であるならば関わり合いになりたくなかった。
理由は――彼女が何をしでかすかまるで分からないからだ。その思考も原典も、あの魔人に至っては分からない事が多すぎる。
太古、神話の時代以前。最初に大地に降り立った機械仕掛けの神々。彼らが作り出したあの種族は、何処まで行っても他の生命体と一線を画している。完全な独立種族と呼んでも良い。
本質においては人でも魔でもない者ら。この世界の原種生命でありながら、彼らはこの世界のつまはじきものだ。
きっとそんな得体のしれぬ種族であったからこそ。かつてアルティアは機械仕掛けの彼女らを廃絶に追い込んだのだろう。唯一生き延びたのは、魔人となったラブールのみ。
宝剣が何より懸念しているのは、あのラブールが主の体躯に何を施したのかという事。
魔術的な干渉ではなく、物理的な破壊でもない。毒に類するものかと思えばそうでもない。一切の異常が主にはないというのに、違和感のみが残っている。
こんな状態であるからこそ、宝剣は一層慎重に刃をぎらつかせた。
「――やはり、可能な限りボルヴァート国内よりも協力者を求めざるを得まい。国内の情報を得て、それに応じ魔人と大魔を他魔族より孤立させ、各個を撃破できる状況を作り出す。もしそれが出来ぬ場合は」
マスティギオスは身振りを加えながら、地図の上の大地に指を走らせた。
「一度引き、他国と協調の上ボルヴァート本土を奪還する。もしくは強行突破という手段だな。無理やりに血路を開いて大魔と魔人を討ち滅ぼす。素晴らしい。どの道を選んでも大義は我らの背についてくる」
どう思われるルーギス殿と、マスティギオスは凛然としながらも笑みを含んだ顔で言う。その様子にやはり肩を竦めてルーギスは応えた。
宝剣は思う。どうにも、この魔導将軍というのは主に気易くはないだろうか。応じてしまう主も主なのだが。
「貴族ってのは大義が好きだな将軍。当然、早い方策を取ろう。時間は何時だって俺達の敵さ」
「大義があるからこそ人は戦うのだルーギス殿。大義なく戦える人間は、そう多いものではない。その本性が善であれ悪であれな」
マスティギオスはルーギスの言葉を聞いて、地図の上に乗せられた駒を取る。そうしてゆっくりと、それを東方へ進めた。目標地点は、ボルヴァート朝。マスティギオス自身、ルーギスの言葉を聞く前からそうする事を決めているようでもあった。
その瞳には静かに熱い情動が揺らめいている。それは明確な敵意であり、戦意の証。負傷して尚、マスティギオス自身の意志はまるで朽ちていない。むしろ魔人に従っていた頃より尚強靭になっている。
それが何故であるのかは、マスティギオスにとっても明確ではない。娘の存在か、それとも英雄足る者の存在か。
だが何にしろ、もはや足を止めようという者は一人もいない。
これより全軍が準備を整えた数日の後、紋章教及びボルヴァート軍は、史上初の連合東方遠征を開始する。誰もが、もはや生きては帰れまいと。そう覚悟をしていた。