第四百六十六話『終結の音』
ボルヴァート兵も紋章教兵も、その光景に知らず眼を見張る。彼らは頬に死雪の寒気でなく奇妙な火照りを感じていた。
視界にあったのは、大地そのものを食い荒らそうというような大きな砂嵐。風は乱れ、細かな砂が浮き上がっては空を叩く。一瞬の内に、両勢力の兵を砂が包み込んでいた。
誰もがその光景を受け取りかねた。これが何者かによる魔術なのか、それとも自然発生した異常なのか。魔術だとすれば両軍を巻き込んでしまっているし、かといってガルーアマリア周辺で砂嵐が起こるなど聞いたこともない。
では何だ。何故こんな事が起きている。
瞼も満足に開けない砂の豪雨。誰もが一瞬足をとめ、混乱に頬を打たれた。手足に砂が絡まる度、力が抜けていく。武具を持っているのが困難なほどだった。魔術獣兵など、あっさりと大地にその身を伏せさせている。
混乱すら奪い取るように砂嵐は勢いを存分に強め、兵士を包み込み、そうしてあっさりと消えた。砂だけを残し、空は何時もの曇り空へと戻っていく。
余りの事に誰もが言葉を無くし、戦場の熱気すら失われた瞬間。その声は響いた。
『――双方、槍を下げよ。もはや命を散らす理由は何もない!』
赫々たる自信を含み、重圧な雰囲気を伴った声。魔術にて増幅されたその声が、戦場全体を包み込むように言った。
ボルヴァート兵にとっては何よりも聞き覚えのある声色。己らを率い、己らを導く者の声。僅かに悲しみを帯びたような声をもって、其れは言葉をつづけた。
『魔導将軍マスティギオス=ラ=ボルゴグラードの名の下に命じる。ボルヴァート兵よ、戦闘の継続をやめよ。もはや、その意味は失われた』
一瞬の間。唐突な終戦命令に、ボルヴァート兵の誰もが言葉を受け入れかねる。しかし、だからといって魔導将軍の言葉に逆らうというのも兵にとっては困難だ。
何を信じればいいのか。いやそもそも今起こっている事はなんだ。
誰もが戦地において困惑を眼に映しながら、それでもゆっくりとその戦意を失っていく。
だが、副将エイリーン=レイ=ラキアドールだけは違った。その眼には未だ純粋な敵意と、野望が渦巻いている。まるで天にでも叫ぶようにエイリーンは唇を開く。
「――そんな馬鹿なことがありますか! 今目の前に、我らの勝利がある。我らの栄光があるのです! 閣下、我らは大陸の覇者になれるのですよ!」
心の底から振り絞った声だった。ラキアドール家の、ボルヴァート朝の悲願が今すぐそこにある。だというのに何故槍を下ろす必要があるのか。
よもや魔導将軍は己に功をあげさせぬためにこのような真似をしているのではないかとすらエイリーンは思う。だが次には、直接耳に響く声が聞こえていた。
「その祖国が滅ぼうというのだラキアドール。私は愚か者だったが、お前は違うだろう」
馬の蹄が、砂を軽く蹴る音がした。本陣に構えていたエイリーンは知らずその音の方へと振り向いた。
魔導将軍マスティギオスが、馬に揺られながらそこにいた。声を響かせたのも、すでにこちらに近づいた後の事だったのだろう。
その身に傷を追いながらも、護衛兵を引き連れる様は堂々たるものだった。エイリーンが視線で言葉の意味を問うと、マスティギオスはゆっくりと馬から身を下ろして言う。
「魔人ラブールは我が民を傷つけぬと約定しておきながら、その約を破り去った。もはや奴らに我らとの約定を守る意志などない」
マスティギオスの言葉を聞いて、エイリーンは思わず歯噛みをした。その言葉に衝撃を受けるはずもない。
何せそれは、どうせ誰もが分かっていた事だ。
人間を己の玩具か家畜としてしか見ぬ魔人共。その魔人が傅く得体の知れぬ大魔。その異形共に祖国は屈服し王権は地に伏した。
その状況に至って、どうして魔人共が人間との約定を守る必要がある。破られた所でどうせこちらは何も出来ぬというのに。祖国は奴らに刃を突き立てられたまま、何時絶命に至ってもおかしくない。
エイリーンはその鋭利な眼を輝かせながら、口を開いた。感染魔術によって掻きまわした感情が、その口から出ていきそうだった。
「……貴方も分かっていたのではないのですか。閣下。分かっていて、つかの間の延命を我らが祖国は選んだのでしょう」
エイリーンには珍しい、見下した声ではなかった。暗澹たるものを含み、筆舌に尽くしがたい情動を胸に抱えている声だった。
エイリーンの言葉は真実そのものと言って良い。ボルヴァート朝は魔性に下され、その権威は屈辱に塗れた。偉大であったはずの軍は、魔人の指先で使われるのみ。
もはやそこに王権はなく、尊厳など砕けて落ちた。それで尚死ではなく延命を選ぶのであれば。
後は血と欲に酔うしかない。己の正気を保つには、その最悪の現実から目を逸らすための酒を得るしかないのだ。
将も、部隊長も、きっと兵すら分かっていた。この征西がどういった類のものであるかなど。
エイリーンの言葉に、マスティギオスは一瞬の沈黙を保った。そこには、ある種の共感が浮かんでいたかもしれない。
全てが分かっていたとして、どうしようもなかった。だから、目の前の事にただ熱中するしかない。それが真実だと思い込むしかない。
エイリーンは自ら戦場の熱狂に身を没入し、その正気を保ち続けていた。
「ラキアドール」
一言を、マスティギオスが告げる。エイリーンはいつの間にか伏せていた顔をあげ、じぃと上官の顔を見た。
「――顔を上げ、前を見よ。もはや目を逸らす必要はない。我らの敵は東方にある。それのみが真実だ」
マスティギオスは軽く上を向いていた。傾きかけた陽光を、その黒瞳が反射している。
「閣下は、それを討つと仰るのですか。国家が屈した怪物を相手に立ち向かうと?」
ありとあらゆる魔術を喰らい尽くし、魔術師を赤子のように捻る魔人共。あの姿を瞼に映すだけで、心の中に暗いものがしみ込んでくるのがエイリーンには分かった。
あれを相手どるのであれば、未だ他の戦場に目を向けていた方がよほどましだろう。虚偽の中にいた方が随分と安く安寧を得られる。
「そうだ。お前ならば理解できるだろうラキアドール。私はようやく理解した。もはや人間同士、相争っているような暇はない。我らは崖の淵に立っている」
エイリーンは、マスティギオスのこの手の言葉が嫌いだった。おだてて言っているのではなく、彼は本当にエイリーンの事を智謀に長けた人物だと信じている。
例えその智謀も、才覚も魔術も、全てがボルゴグラード家を追い落とす為に身に着けた呪いだとしても。
ただ真っすぐに見つめてくるその黒瞳が、エイリーンは嫌いだった。自信に満ちた表情が苦手だった。
「お前に咎はない。全ては私の咎だ。全てが終わった後、罪を受けるのは私のみ。ラキアドール、今一度私に力を貸してくれないか」
だが己の力を正面から認めてくれるのが、彼だけだというのをエイリーンはよく知っていた。
だからこそ、未だエイリーンは彼の副将の座についている。その命令に反することはあっても、どうしても本質的に嫌いにはなれない。
言葉に迷わなかったといえば嘘。胸中に何も思う所がなかったといえば嘘。けれどもエイリーンはその場に膝をついて言った。
「――それが閣下の、お言葉であれば」
ここに、魔号戦争は一先ずの終結を迎えた。傷痕は浅くなく、未だ人類は反目しあっている。
けれど、一つの契機を迎えた事は確かだった。ガーライスト王国、南方国家イーリーザルド、そうして東方の雄ボルヴァート朝。
歴史書を紐解いても、彼の三国が協力体制というものを結んだ記録はない。同規模の国家が統一されたという事実のみを見るのであればアルティアの時代へ遡らねばならない。
だからこれは、一つの歴史の契機。相争った国家らが、結びつき一つの勢力となるための。
それを結び付けているのは、ただ一人の男だけだった。
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