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願わくばこの手に幸福を  作者: ショーン田中
第三章『福音戦争編』
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第四十五話『黄金の強さと鉛の弱さ』


 ――プォォオオオオン


「……なんだ、今のは?」


 一瞬、けたたましい喇叭の音が貧民窟全体に鳴り響いた。時折貧民窟に響くその音色は、人々に天を仰がせる。誰もかれもが何事だとばかりに小窓や軒先から顔を出し、騒がしいはずの露店街が僅かながら口を閉じる時間となる。


 だが、今日ばかりは静寂の理由はそれだけではないだろう。本来此処には存在しないはずの闖入者、常日頃はガルーアマリア市内を見回るはずの衛兵団の姿が、貧民窟の住人達から声を奪いとっていた。


「副隊長、申し訳ありません。盗人は足に羽をつけたように貧民窟の路地裏へ。しかし、協力者と思しき者は確保しました」


 副隊長と、そうよばれたその男。ひょろりと細い体躯ではあるが、その身体はひ弱というよりも、むしろ鋭利さのようなものを感じさせる。


 隊員が確保してきたのは子供であった。年端もいかない、少女である。小綺麗に整えてはいるが、服装や肉の付き方は、まさしく貧民窟の人間といった様相。その片手には、薄汚れた喇叭が震えている。


 もはや古物商でも扱わないであろうその品を一瞥し、副隊長と呼ばれたその男は少女を見下すようにして、至極冷たい声で言い放った。


「貴様が盗人を逃がしたのは事実か」


 その問いに、少女は何も答えなかった。何も、答えられなかった。口は怯えたように閉じられ、喉は痙攣するも音を一つも発さない。


 ぎょろりとした目つきで、男が見つめる。思わず、少女の口の端が跳ねる。


 爬虫類を連想させるその瞳は、とてもではないが親しみやすいものではないだろう。


 少女を確保しているはずの隊員さえも、思わずその額より冷たい汗を垂らす。よもや碌でもない因縁を付けられはしないだろうかと、心臓は怯えて音を立てていた。


 すぅと、ぎょろついた瞳を細めつつ、男の指が喇叭を持った少女の首筋を撫でる。少女の肩が、一瞬抵抗するように揺れ、隊員の腕に阻まれる。


 そこには、黒い痣。否、入れ墨が刻まれていた。かつて、罪を犯した証。許されざる罪を犯し、城壁の中でその報いを受けた者の証。


 では、決まりだ。男の顎が、こくりと頷かれた。


「宜しい。盗人の一味であるなら少女といえど加減はしない。では、法に則り右腕を斬れ」


 指示された隊員の一人が、躊躇なくサーベルを抜き放つ。きらりと、青い刀身が陽光を反射した。


 少女の怯えた瞳が、一瞬にして見開かれ、背筋には冷たい汗。その踵には幾重にも虫が這いあがってくるかのような嫌悪感。怒涛の勢いで迫る恐怖と焦燥の感情に、膝は動こうとしない。


 その瞳が、助けを求めるように周囲を見やった。


 周囲には、大勢の人間がいる。それこそ、数え切れぬほどの。対して、衛兵団の人間は副隊長と呼ばれた男を含めても五人。囲んでしまえば幾らでも圧倒できる。数の暴力には、どれほどの精鋭も対抗できない。


 だが、その視線には何の反応もない。周囲の人間は、何も言わない。少女と同様に何も、言えない。

 何か文句の一つでも言ってみるがいい。そうなれば次は自分の腕が飛ぶ。いや、下手をすれば首が飛ぶ。誰が言えるものか。相手はあの城壁の中の人間。自分たち劣等の民ではないのだ。


 だから、言えない。言えるはずがない。それは当然。当然のことなのだから。自分たちが、何もできるはずがない。愚かで、踏みつけにされるのが当然で、下を向いて今日を生きていくことしかできないのが、自分たちなのだから。


 誰もが、その意思を奪われていた。その思考を天上の声に任せ、貧民窟の住人という役割を演じるのに誰もが必死だった。誰もが、路傍の石であろうとした。


 ああ、これは仕方がないことなのだ。


 少女は、一人唇を噛み、己の声を出さぬ喉を呪っていた。ああ、己に声さえあれば、喉だけでなくこの世全てを呪ってやるのに。


 最後の願いの喇叭とて、もはや何の意味もありはしない。かつてその音色を聞けば必ず駆けつけてくれた兄は、もうきっと来てくれない。


 ああ、でもそれが良い。己が死ねば、勇敢だった兄が、蘇ってくれるかもしれない。全てを、変えてくれるのかもしれない。


 だから、あの男も、こなくて良い。


 サーベルが、青光りを纏いながら、振り下ろされる。もう、間に合わない。その華奢な右腕は斬り落とされる。それはもはや、人が間に合う範囲ではない。


 人々の、息を呑む音が、重なる。


 *


「ねぇ……その、ルーギス……ええと……人の声を聴く耳は、今持ってる?」


 早足に暗がりを駆ける中で、何とも歯切れ悪くフィアラートがそう呟いた。


 ちらりと後ろを振り返ると、目元近くまでフードを被っており髪の色は愚か、その風貌すらも伺い知れないフィアラートの姿。


 その肩は僅かに上下し、息はあがっている。彼女がついてこれるようにと加減をしているとはいえ、休みなしに貧民窟の中を走り回っているのだから当然といえば当然だった。


 だからてっきり、俺は休憩の願いだとそう思って口を開く。


「悪いが、そう休めんぜ。あれが喇叭を吹く時は、決まって悪魔の腕が首に張り付いた時だ。その癖、その腕を払ってやれば不機嫌そうという、掴みどころのない奴だが」


 やや足の速度を緩めながらも、それでもまだ早足のまま、裏道を辿ってゆく。貧民窟は、何処に行っても妙に暗い。


 後ろを見ると、フィアラートはその言葉を否定するように、首を横に振った。目を細め、じゃあなんなんですかね、と問い返すと、切れた息のまま、言った。


「その……何てことない顔してるけど。実は、怒って、ない?」


 途切れ途切れになりながらも、最後まで言われたその言葉は、妙に弱弱しかった。出発前に聞いた言葉とは随分と様子が異なる。


 流石に眼を丸くしながら、反射的に喉を鳴らす。


 言葉を出そうとしたが、まるで弱り切ったかのようなその言葉に、何を言ってやれば良いのかさっぱりわからなかった。


 一体どうしたというんだ。そんな弱さは、かつての旅の時には見たことは愚か、聞いた事もない。


 大体、俺の感情など意に介す女だったのか。違うだろう、お前という女は、そうではなかっただろうに。


「や、っぱり……迷惑だったか、なぁ……って。無理矢理だったし、私なんて別に、何ができるわけでもないし……でも置いてかれると、私は必要ないの、って思うし……」


 俺が掛ける言葉を探している間、フィアラートの、胸中を裏返して感情を流し続けるような、そんな吐露が続いた。その間、後ろは振り向かなかった。振り向けなかった。


 とても、とても強い女だと思っていた。その女の、弱い姿を見てしまうのは。なんだか悪いような、気が咎めるような。むしろ、見たくないような。そんな感情が胸中にあった。ああ、弱みだと思って握ってやれば良いものを。


 目の前に、光が見える。もうすぐ、大通りに出るはずだ。恐らく、喇叭の音はその先から。


「わ、分かってるわよ。自分で変なこと言ってるって。でも、さぁ……」


 置いてこうとしなくたっていいじゃない。そう拗ねたように呟かれる言葉は、未だ、その胸中にかかった靄が晴れていない事を告げている。


「誰が必要ないとそう言ったよ。いいや、必要さフィアラート。事実、どうやら舞台にあがるには俺一人では無理らしい」


 フィアラートにどう声を掛けたものかと、散々に脳内の端から端まで搔き集めて作っていた言葉は、一瞬にして霧散した。


 目の前の光景が、そんなものは不要だと、ちり紙同然に破り捨ててしまった。サーベルを抜く、衛兵団の姿。それを止めようともしない、貧民窟の住人達。そして、取り押さえられている、少女――ウッドの妹、セレアルの姿。


 間に合わない。未だその姿は小さく、此処からどれほど俺が全力で駆けようが、とても間に合ったものじゃない。それは人間の限界を超えている。その一線を超えられるのは、才持つ者のみ。


 俺はそうじゃあない。だからこのままでは、全ての結末は当然に、世界の道理のままに進められる。

 少女の右腕は落ち、貧民窟の人間はその結果を諦観と共に受け取り、衛兵団は彼らを踏みつけに生きていく。


 どうにも、気に食わない結末だ。ああ、気に食わないとも。


 だが、一人では、あの舞台に届かない。


「頼んだぜ、フィアラート。俺は幸運の女神に見放されてるからな。お前が助けてくれなきゃ、あそこまでたどり着けそうにない。勢いよく、そして的確にやってくれ」


 そう、大した余裕もないのに、無理やり頬にひくつかせた笑みを浮かべながら、言った。自分でも、随分馬鹿々々しいことを言っているとわかっている。


 だが、僅かに見えてしまったその弱弱しい姿に、何も言葉をかけずにいるということは、俺にはどうにも出来なかった。


 自分如きには何もできないと、己で己を踏みにじるような衝動をよく理解しているから。人に必要とされぬ、泥を啜るような苦しみを、深く心に刻んでいるから。


 一瞬、その黒い瞳を大きくし、フィアラートは硬直する。だがそれは、本当に僅かな間だけだった。


「ええ、任せなさい。寸分の狂いもなく扱ってあげる――だって、貴方を鋳造したのは、この私なんだから」


 その姿は、なるほど見覚えがある。何処までも自信が漲るようなその姿。


 紛れもなく、かつて俺がこの瞳で見た、フィアラート・ラ・ボルゴグラードの姿だ。

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